monthly Jica 2008年7月号

特集 母子保健 かけがえのない命をまもるために

TRAINING in Japan(日本)
母子を守る日本の経験を学びたい

【地図】熊本県「戦後、劇的に母子保健水準を改善してきた日本の経験を学びたい」——そんな思いで、アフリカなどの開発途上国から8人の小児医療従事者らが来日した。熊本県を拠点に、日本の母子保健の経験と取り組みを学ぶJICAの研修を紹介する。

日本の母子保健改善の取り組みを学ぶ研修

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研修を運営する(財)国際保健医療交流センターで行われた講義の様子。同センターは、国際医療教育の推進や、途上国の保健制度の調査、研究などを実施している。また、JICAの医療技術向上や感染症対策などの研修も担当している

「お名前は?」「年はいくつ?」

白衣を着た小児科医が腰をかがめて話し掛ける。ここは、熊本県熊本市内の北保健福祉センター。この日、妊産婦健康相談と3歳児健康診査が行われていた。診察するのは、センターと提携する地域の小児科医院の医師たちだ。

「3歳児健診は、子どもの健全な発育をチェックする上で最も大事な健診です。特に、保健師との個別問診では、予防接種や子どもの日常の様子など、30項目近い確認事項があります」と看護師が説明する。

「診察がとても入念だ」「個人医が公的なサービスの場で幅広く活躍しているのが印象的」「時間が長過ぎて子どもには負担なのでは?」

口々に感想を述べるのは、JICAの研修「子どもの死亡削減と国際協力」セミナーに参加したアフリカ諸国などの8人の女性たち。

今年で18回目を迎えたこの研修は、乳幼児や妊産婦の死亡・疾病、感染症のまん延など、母子の健康に多くの問題を抱える開発途上国の母子保健関係者を対象としている。戦後間もない時期に同様の問題を抱えていた母子保健の状況を、その後の取り組みで急速に改善させた日本の経験やノウハウを学び、自国の施策に生かすための知識・能力を向上することが目的だ。

日本は、第2次世界大戦後、児童福祉法の制定、保健所を中心とする母子保健サービスの整備、予防接種の義務化、母子手帳の導入など、現在の母子保健の根幹を成す施策を次々に打ち出した。その後も、妊産婦への保健指導や3歳児健診の全国展開、産後ケアや母親教育の場となる母子健康センターの設置、母子保健法の制定、各種疾病対策の促進というように母子保健の強化に努めてきた。また、開業助産婦・保健婦などの民間の女性医療従事者や母子保健推進員が、地域レベルで展開した公衆衛生活動も、母子保健環境の改善に大きな役割を果たした。その結果、乳児死亡率(出生1000対)は1950年に60.1であったが、2000年には3.2と、世界で最も低い水準に達している。

地域で支える母子の健康

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栄養のバランスを考え、妊婦が1日に取るべき食材を示すサンプル。栄養士は、つわりや妊娠中期以降に起こりやすい貧血などへの対処法もアドバイスする

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研修員と交流する母親たち。「農村部ではきれいな水がなく、乳幼児の衛生環境が悪い」「紙のおむつを使うのは富裕層だけ」「字を読めない母親も多く、保健指導が容易でない」。各国の厳しい現状に、日本の母親たちは思わず言葉を失うことも

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3歳児健診の様子を見学する研修員。別室で身長、体重などを計測した後、医師が診察し、簡単な会話を通じたコミュニケーション、視覚、聴覚、姿勢などを調べる

北保健福祉センターの妊産婦健康相談は、妊娠中の母体の疾病予防と、胎児や乳児の健やかな成長を支えるもので、母子手帳の交付や妊産婦の生活相談・保健指導などを実施している。栄養指導の部屋に入ると、妊娠中の母体に適した食べ物の種類や量を分かりやすく示したサンプルを使って、栄養士が妊婦にアドバイスしていた。

別室では、母子手帳発行業務の見学を終えた研修員が、手帳の概要の説明を受けていた。「これは、妊娠期間中の母体の様子や胎児の発育経過を記録するだけでなく、赤ちゃんが生まれてから6歳になるまでの発達や健診の結果が記録できる大切な手帳です。記録はセンターでも管理しています」。自国にはない母子手帳を手にし、大きな関心を示す研修員たち。最後のページには、妊産婦健診や歯科検診、3カ月と7カ月の乳児健診などを地域の病院で受けられる無料受診券が付く。

ベナンの小児科医、パドノウ・ジュニヴィエーブさんは、「専門知識を持つスタッフがきめ細かい指導を行うことで、母親たちも安心して出産に臨めるようだ。私の国でも、地域レベルでこのような保健医療人材を早急に育成する必要がある。母子手帳も子どもの健康を守る母親のためのガイドラインとして分かりやすく、将来ぜひ取り入れたい」と語った。

続いて研修員は、相談業務や子育ての当事者グループの活動促進を通じて、親子の育児をサポートしている熊本市北部保健相談所を訪問。中では、地域の母親が集まる「育児サロン」が開かれていた。週1回ほど、乳幼児を持つ母親同士の交流・情報交換の場を提供し、孤立や児童虐待を防ぎ、地域で支え合う育児環境づくりを目指している。

遊具やおもちゃで遊ぶ子どもたちとそれを見守る母親らの横では、ボランティアの老婦人が、1歳にならない赤ちゃんを抱っこしながら母親に子育てのアドバイスをしている。部屋のもう一方では老紳士が紙芝居を始め、子どもたちがそれを取り囲む。

その様子を観察していた研修員たちが、この会に参加して良かった点を母親に尋ねると、「最近引っ越して来たので、ここで仲間ができて心強い」「ずっと自宅で育児をするのはストレスがたまるが、ここに来て気分が楽になった」などの答えが返ってきた。

それを聞いてコートジボワールのコーリバリー・ルシェンさんは「私の国では女性の社会的地位が低く、子育て中に自宅から出られない母親も多い。地域全体で育児を支援するという視点が参考になった」、ナイジェリアのペイシャンス・アーメッドさんも「母親や子どもが地域の高齢者と触れ合う機会があるのはとても良い。公的なサービスを待つだけでなく、このようにコミュニティーや住民が主体となって、地域のネットワークで母子を守る取り組みを実践したい」と感想を述べた。

日本の経験を糧に新たな挑戦へ

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母子健康手帳の説明を聞く研修員。熊本市では、インドネシア語やタイ語など8種類の外国語版を発行しているほか、父親の育児参加を促すため、「親子健康手帳」への改称を予定している

約1カ月半の研修で、こうした自治体による取り組みに加え、日本の医療保障制度や小児医療に関する概論、システムなどを学び、また小児救急医療・心身障害児医療現場などを視察した研修員たち。自国の状況を客観的に見つめ直すとともに、問題を解決するためのさまざまな知見を得た。コースリーダーを務める(財)熊本県総合保健センターの橋本朗(ほがら)さんは、「今回は、世界の乳幼児死亡の半分以上が集中するサハラ以南アフリカの研修員が中心だが、母子保健水準を大きく改善した日本の経験は、これらの国々にとって先駆的な事例として参考にできる。なぜ子どもが次々と死亡するのか、母子の健康を守るための制度づくりや地域の取り組みに何が必要なのかを改めて考えてほしい」と語る。

北保健福祉センター管轄地域の1000人当たり乳児死亡数は今でこそ2人だが、戦後間もない時期には60人以上もいたという。日本がかつて抱いた痛みと、それを克服してきた経験が、自国の次世代を守る闘いに挑む研修員たちにとって、力強い励みになっている。