心の中に宝石を(前編)

【写真】佐尾山 省二(徳島)昭和55年度4次隊/ケニア共和国/理数科教師
佐尾山 省二(徳島)

経歴

 昭和55年度4次隊理数科教師としてケニアに3年間派遣されました。その後、ボランティア調整員としてフィリピンにて3.5年間勤務しました。帰国後、JICA青年海外協力隊事務局の進路カウンセラーの紹介で民間企業に就職し、定年を迎えた2016年に故郷徳島に帰ってきました。

青春ど真ん中

同僚の教師とその家族達

ランプ/タイプライターが懐かしい。

 小さい頃にTVで見た、「少年ケニア」に出てくるようなところで働くことに憧れ、青年海外協力隊に参加しようとしましたが、何か技術力を示すような資格を持っていませんでした。自動車整備士が最短の道と思い、大学卒業後、整備士の資格を得るために自動車販社に就職しました。
 自動車整備士の資格取得まで残すところ2年となった1980年の春募集から、理数科教師の応募要件に教員免許が必須で無くなりました。喜び勇んで応募しましたが、最終の英会話試験で不合格となりました。もう半年、苦手な英語の勉強かと気落ちしていたら、臨時募集があり、どうにか合格しました。

 昭和55年度4次隊として、広尾訓練所、そして駒ヶ根訓練所で派遣前訓練を行いました。
 広尾では、休日に当時話題の「竹の子族」を見に行き、徳島の田舎者として強烈なカルチャーショックを受けたことを覚えています。
 駒ヶ根では、ただ寒かったことが記憶にあります。暑い国に派遣されるのになんでこんな寒いところで訓練するのかと、極寒の早朝マラソンが終わるたびに同期でブツブツ文句を言っていました。

 訓練を終了し、1981年4月青春真只中の25歳の時にキプケリオン町のTaita Towett Secondary Schoolに数学/物理の教師として派遣されました。が、教師としての資質に大きな問題がありました。まず、「教師の経験0」。次に「生徒の英語が理解できない。」更に、「言いたいことを英語でなかなか喋れない。」八方ふさがりの状況でした。
 このような状態で授業を行うには、まず「生徒の質問は、無視する。」次に、「授業中に話すことを事前に想定し、ノートに書き、これを棒読みする」。これら以外に無いと決心しました。しかし、実際にやってみると大変でした。1日6時限の授業中に話すことを、英語でノートに書かねばならずほぼ毎日徹夜状態が続きました。
 赴任後、数カ月は、この様なめちゃくちゃな授業を行っていました。今思うと、生徒も文句も言わずによく我慢したと思います。

 数か月後のある日、それまで日本語を英語に翻訳してノートに書いていましたが、突然英語で考えることがある程度出来るようになりました。これを、契機として徐々に生徒の質問も理解が出来るようになり、曲がりなりにも授業と呼べるまでになりました。赴任時から3年間担当したクラスの数学と物理の高校入学試験の合格者が例年の2倍以上であったことからも普通の授業が出来ていたと思います。このクラスの生徒が卒業するまで責任を持って担当すべく任期を1年延長することを決心し、青年海外協力隊事務局に延長申請し承認を得ました。この延長が合格者の大幅増に繋がって生徒にとっても、良かったと思いました。

 任地は電気も水道もなく、一番近くの日本人まで50㎞以上と厳しい生活でしたが、住めば都で青春を謳歌しました。若さゆえの無謀なことも多々ありました。心の底からの喜びもありました。悶々とした悩み・苦しみもありました。夜中に言いようのない孤独に襲われ叫びたくなったこともありました。明かりが一つも無い、漆黒の空に映し出される天の川銀河の美しさに感動したこともありました。
 この一つ一つが、この一瞬一瞬が、心の中に宝石を生み出し、今の私を形成する礎となりました。あれから30余年、この大切な宝石を磨き続けています。これからも、更に輝かせたいと思います。

(後編に続く)