スリランカでの活動と愛媛県西予市での生活(前編)

【写真】茂木 美津子(愛媛)平成23年度2次隊/スリランカ民主社会主義共和国/服飾
茂木 美津子(愛媛)

派遣先の職業訓練学校

学校内部

授業の様子

生徒と集合写真

帰国後に出展した服飾作品

 私が派遣されたのは、スリランカ。最初に国名を聞いて、“途上国だったんだ!”と思ったくらいでした。
そして、その国の中でも私の派遣先は比較的恵まれている施設の職業訓練学校。インド・スマトラ島沖地震で津波の被害を受けた際にアメリカの寄付で揃った立派な建物と高価な機材に、驚いたことを覚えています。

 私の担当するパターンメイキング(服飾のデザイン画をもとに型紙を製図する)コースの現地の先生にカリキュラムを見せてもらったところ、申し分ない内容でした。日本でパターンは大まかに「文化式」か「ドレメ式」の2つが有名で、私が学んだのは「文化式」でしたが、そこの学校で使用しているのは「ドレメ式」のようなやり方でした。設備もカリキュラムも十分な学校で一体私は何をしたら良いのだろうと、ものすごく戸惑いました。
 当面は講義をせずに、アシスタント的に補佐しながら普段の現地の授業を見て過ごしました。
 そこで見えてきたいくつかの問題。先生が朝、時間通りに来なくていつ授業が始まるかわからない、チャイムも鳴らずに各先生の気分で教えたり休んだりするので、授業と休み時間のケジメがなく、生徒の集中力もない。基本的に教える内容を板書したものを生徒が写経のように書き写すだけの授業で、生徒は理解していない(いかにきれいなノートを提出するかが生徒の間で目標とされている)。物を大切にしないので、道具・資材がすぐなくなる、などなど。
 でも、他の隊員の話などを聞いてそのうち、これは私の配属先だけでなく、スリランカの学校自体がそうだという事がわかってきました。
 私が赴任して約1か月半でその期の生徒が半年のコースを終了して、次の期から私の「日本式(文化式)」の講義もする事になりました。説明と実技も交えながら板書し、生徒にもノートを取らせるという方式は、ずっと写経のような方式で育ってきた生徒たちには集中力がないとついて来れないので不評でした。途中おしゃべりしてもとりあえず今日これだけ書き写せばノルマ達成!という現地の先生の授業の方がいい!という感じでした。また、実技も入れながら説明するためにもっと準備してから講義に臨みたいという気持ちがありましたが、特に予定を組まずに現地の先生の気分で「あなた今日やりなさいよ」と急にお願いされ、一つの区切りまで終わってないのに中途半端なところで終わらされたり、私の講義の段取りはグダグダでした。

 そんな感じで手ごたえを感じずに半年間終了して、次の期が始まる前に現地の先生に、“二人の間で授業のコマ割りをしましょう”と提案したら、猛反対されました。今まで一人で気の向くままにやっていたので、予定を立ててやるというのがよっぽどストレスだったようです。散々反対されましたが、同僚の先生の説得などのおかげで、週2日が私の担当の日で、それ以外の3日が現地の先生の日という事になりました。
 そして、ちょうど追い風で、次の期の生徒の約半分は、軍から来ている生徒でした。内戦が終わってそんなに多くの軍人が必要なくなり、急に解雇したら恐らく暴動が起きる可能性があることから、職業訓練しておきなさいという国の方針で、軍から派遣という形で来ている生徒達です。彼らは社会人なので、説明を聞いて必要なことはメモする習慣もあり、その重要性を学校(中学か高校)上がりの生徒達にも勧めてくれて、私の授業は急に集中力と活気のあるものになってきました。
 最終的には、私の授業は本当に良かった!為になった!と感謝されて終える事が出来ました。

 次の期に軍の生徒がいなくなったら、また元通りになるのかと恐れていましたが、今度は洋裁の知識がある社会人の生徒が半分くらい居たので、同様に好評でした。
 さらに私が嬉しかったのは、そんな私の授業を見て、現地の先生も少しずつ授業に実技を増やしてくれたことです。来た当初、いくら訴えても反発されていましたが、実際に私がやって、生徒の反応も変わってきているのを見て、やっと理解してくれたようです。
 その次の期は、協力隊の任期終了まで3か月くらいしかなく、しかも、最初の1か月は生徒が沢山集まるまで、プチ知識は教えても、カリキュラムの本題は教えてはいけないので、正直ほとんど意味がないと思っていました。
ちょうどそれまで1年くらいパルシックという日本のNGOが、サリープロジェクト(富裕層のタンスの肥やしになっているサリーを寄付してもらって、内戦が激しかった、特に危険・貧困地域ジャフナの女性たちに、その生地を使って、服や雑貨を作って収入にしてもらうもの)を始動するにあたり、NGOスタッフには服飾の技術がある人はいないので、頼まれてサンプルの型紙作成や縫製をやっていました。

 私が残りの期間の活動で悩んでいた同時期に、そのNGOがJICAの短期ボランティアを募集するという話を聞いて、配属先やJICA事務所に相談し、最後の残りの期間は、ジャフナで活動させてもらう事になりました。それまで危険地域とされて、隊員の派遣がなかったジャフナで活動する最初の隊員となりました。着任当初の“もっと困っている所で活動したかった”と感じた願いが叶いました。また、学校の空き時間にサリー製品のサンプルを作製しているのを見た生徒に何をやっているのか聞かれて、サリープロジェクトについて説明したところ、「先生、ジャフナは本当にダメージを受けて酷い、水も悪い、仕事もなく可哀想な環境のところなので、そこの人達を助けてあげて!」と内戦を経験した軍の生徒達に言われ、その思いにこたえることもできました。
 ジャフナで実質1か月半現地の女性たちに指導したり、新商品のデザインやパターンを作ったりして、どれだけお役に立てたかはわかりません。しかし、それまでスリランカの多数派民族の比較的恵まれている地域で活動・生活していたので、同じ国内でこんなにも大変な地域もあるんだとスリランカという国を多方面から知ることができました。
 帰国後に仕事を始める前にまず、このスリランカの経験を日本の人達に伝えることにしました。出前講座という方法が一番メジャーですが、プレゼン上手ではないし、服飾隊員の性質を活かして、写真や文章だけでなく、現地や任国外旅行で行った周囲の国の素材を使って製作した服や、現地のハンドメイド雑貨など手仕事の要素も含めて、『スリランカと南アジアのユカイな仲間たち』という展示を地元埼玉県川口市のギャラリーで行いました。隊員関係、スリランカ関係、国際関係、アート・服飾関係と多方面にリンクしているので、自分も思いもよらぬ様々な方々にご来場頂けて、私の見たスリランカを伝える事ができました。