明日への架け橋

【写真】中村 晃一(徳島)平成17年度1次隊/フィリピン/溶接
中村 晃一(徳島)

遠い世界だった海外。
青年海外協力隊を意識したのは30代からでした。
私は30歳を過ぎるまで、青年海外協力隊というものを全く意識していませんでした。いや意識というか、お恥ずかしながら、そもそも言葉さえ知らなかったです。
自分にとっては海外とは、これからの人生、たまには旅行に行くことはあるかもしれないなあ、と思うぐらいであり、自分のいる世界とは異次元の遠い世界だと思っていました。
そんな私が、偶然の出会いから青年海外協力隊を知りました。ちょうど転職を考えていた時期でもあり、一念発起して青年海外協力隊に参加してボランティアをするという道もあるんだと、次の進路の選択の一つになりました。
初めて青年海外協力隊への応募を考えてから、1年余り後には実際にフィリピンに派遣されることになるものですから、人生分からないものです。つい数年前まで予想だにしてなかったキャリアを踏み出すことになりました。

フィリピンでの生活

ホームステイ先のガビト一家

現地での活動の様子(テントを作製している様子)

私が派遣されていた、フィリピン中部の島、レイテ島は、首都マニラから飛行機で1時間。さらにその州都タクロバンからもバスで3時間半かかってようやく到着する、海辺の片田舎の町でした。その町の工業高校で教師であるカウンターパート(国際協力の場において、現地で受け入れを担当する機関や人物)の補助をして、溶接技術などの向上に取り組みました。日本で働いていた時は製造業の会社員であり、教員でもないのに、フィリピンで教育の一端に携わるなんて非現実感といいますか、時折不思議な感覚を覚えることもありました。
現地の生徒や教師たちに印象に残ってもらえるような活動はできたかなと思っていますが、言葉や習慣の違いで苦労することも多かったし、やり残したこと、もっとうまくできたことも多かったと思います。学校の生徒には将来、仕事について稼いでもらいたいと思う一方、学校を出てもコネがなければなかなか仕事につけない、国内よりも海外に出稼ぎに出る方が稼げるチャンスは多い、そんな現実も見えて、やるせない気持ちになることもありました。フィリピンでは国策として推進している海外出稼ぎ組になるのも、それはそれでいいんでしょうけど。
私生活では、学校のとある職員の一家の家にずっとホームステイしていました。まさに現地の家族の家に寝泊まりし、一緒にご飯を食べ、現地ビサヤ語で話し、一緒に教会に礼拝に行く、そんな現地の人と同化した生活を送りました。ホームステイ先の子供さんとは、現在も時々、SNSでメッセージをやり取りしています。

帰国後

OB会主催サマーキャンプ(国際協力の最前線で活動してきた人ちから世界について学ぶプログラム)の様子

OB会主催サマーキャンプでボランティアの体験談を語る

帰国後すぐは、地元の徳島を離れて東京か海外に行くことを検討しましたが、結局は地元の徳島に残り、ここで働き、ここで生活することにしました。なんだか、都会に比べてのんびりしている面が多い地元徳島が、開発途上国のフィリピンと少し重なるような感じがしました。
フィリピンは開発途上国とは言いながら、人口の増加や経済の成長など、これから伸びていくという可能性を大いに感じさせるところでした。それに比べますと、日本の地方の現状はまだまだ憂慮する点が多く、寂しい限りです。微力ながら地方コミュニュティの維持に関わりたいと思います。
徳島県の青年海外協力隊のOB会長(徳島県青年海外協力協会)も務めることになりました。周りを見渡してみますと、改めて色んな人材が地元にいると気がつきました。私のような協力隊経験者も、人材だと思います。協力隊経験者が地域社会に何ができるか模索の日々が続いています。
そしてボランティア活動がライフワークの一つになりました。ボランティアライフを自分なりに楽しみたいと思います。
これからは地元徳島から海外に出ていく方々を見守ることになりますが、彼らの未来への希望、目標に向かうパワーをもらい、それも自分の活力の一つにしたいです。