1978年を振り返って

【写真】塹江まほ(旧姓 山﨑)(高知)昭和53年度1次隊/ガーナ共和国/理数科教師
塹江まほ(旧姓 山﨑)(高知)

 私は、1978年(昭和53年)から1980年(昭和55年)まで、青年海外協力隊員として、西アフリカのガーナ共和国に派遣され、ウェスタン州アクシムのンセインセカンダリースクールで理数科教師として2年間活動しました。
 帰国後は、1985年(昭和60年)から2016年(平成28年)まで高知県庁の農業技術職員(主に普及指導員)として野菜・花卉の栽培指導や園芸流通課で花き行政等を担当し、最終の職場は、高知県立農業大学校でした。
 私が、協力隊員として活動して40年が経過した今、不思議な気持ちがしています。
というのも遠い昔のたった2年間の経験が、その後の私の時間に大きく影響していると改めて今思うからです。
 青年海外協力隊員としてガーナに行かなければ、多くの人達の考え方や生き方にふれることができなかったし、ガーナでの多くの経験がなかったならば、帰国後、農業関係の職業に携わりたいと考えることもなく、その後の私の40年間は今とは全く違ったものになっていたと思います。

何故、JICA海外協力隊を希望したのか?

 今思えば、小学生の時に新聞でタンザニアに派遣された女性の協力隊員の記事を読み、「名前も聞いたことのない国でこんな仕事をしている人がいる。」と思ったことがきっかけかなあと思います。しかし、その当時は今と違って自分が外国に行くことを想像することは難しく、夢のようなことでした。
 英語も受験科目の一つにしかすぎない苦手科目で、大学時代もしっかりした目的意識を持っている現代の学生に比較して、目的意識が低い私。しかし、「協力隊に参加してみたい。」の気持ちだけで受験。語学の得点が低く補欠ではありましたが、協力隊参加のチャンスを得ることができました

英語は実際に使うもの!

 協力隊参加のチャンスを得ることはできましたが、「現地で仕事を進めるための語学力」に自信は全くありませんでした。現地で英文の学習指導要領の内容を見るとほぼ日本と同じでしたが、語学訓練やガーナ到着後の現地語学研修を重ねてもまだまだ不安でしたし、「生徒が理解できるように教えられるだろうか?もっと英語を勉強しておくべきだった。」と反省する日々でした。
 でも、「この内容を明日生徒がわかるように説明しなければならない。」という場面に出くわしても、とにかく授業を進めていっているうちに次第に生徒の反応が、理解しているのか、退屈しているのか、わかるようになります。生徒が理解してくれた時は本当に嬉しくなりました。ンセインセカンダリースクールの新学期が始まった9月からクリスマス休暇の始まる12月まで授業の準備に必死だった記憶があります。
 よくわからない英語を話す外国人の先生に教えられる生徒の気持ちを想像すると、「よくぞついてきてくれた。」という気分です。
 私は、ガーナで「英語」を使っていくうちに、「英語」という言語が好きになりました。

ガーナの生徒たち

1978年ガーナ ウィネバ
これは、ガーナに派遣直後、外国人ボランテイアのためのガーナ政府が開催した研修会に参加した時の写真です。

 今は教育制度が変更されていますが、当時は12歳から18歳ぐらいまでの生徒が寄宿舎で生活していました。そのため、上級生の下級生に対する統率力は絶大で、その中で鍛えられる生徒の体験がガーナ社会を形成すると言われていました。そのためか、日本の中学生や高校生より大人だと感じたことを覚えています。授業中にやんちゃな男子生徒もしっかり私にレデイファーストの対応をしてくれるのでびっくりしました。
 その当時、私の配属された学校に限らず、各学校で予算が十分ではないため、食糧がなくなると寄宿舎が維持できず、学校が学期終了を待たずに閉じられました。そのため、授業がいつストップするのかわからないので、生徒たちと授業時間でない夜もランプの光の下で補習を行いました。生活環境も厳しく、教科書を全員が持っていないので黒板への板書が基本という条件のなかで、全員が頑張っていたことを懐かしく思います。
 「衣・食・住」という生活の基本がありますが、私は、「まず、食料を確保すること。」そして「次世代への教育が大事。」が次世代を育成していく、譲れない基本条件だと思いました。
 帰国後、2つの基本条件のうち、私は「食料を確保すること。」を選択し、農業関係の仕事に従事しました。

ガーナの生活

 ンセインセカンダリースクールは寄宿制の学校で敷地内に校舎・寄宿舎・食堂・職員宿舎などすべての施設がある植えられた木々の美しい学校でした。ただ、その当時都市の学校を除いてほとんどの学校では、水道はあるけれども水が供給されるのは朝と夕方2時間、電気使用を前提とした設備はあるけれども電気が供給されないという状態でした。宿舎に一緒にすんでいたアメリカ人ボランティア のマリリンは、「ここの生活は、キャンプ生活だと思えば良い。」と表現し、どのように生活を工夫して楽しむのか教えてくれました。電気と水がない生活を経験したことのなかった私は、彼女から厳しい条件でも楽しむことなど多くのことを学びました。

ガーナで出会った人たち

 ガーナの生徒達を含め多くのガーナの人達、協力隊員達、私が出会い刺激を受けた多くの人達の中で最も印象深いのは、アメリカ人ボランティアのマリリンです。
 「あなたは、大学を何年で卒業したのか?」初めて会った時の彼女の質問です。私は「4年です。」と胸を張って回答。それに対するマリリンの「私は勉強して3年で卒業した。そうすれば1年早く働くことができるからだ。」の言葉に私はガツンと頭を殴られたように思いました。スキップ制度のなかった日本で、のほほんと学生生活を送った私には衝撃的な言葉でした。その後彼女から、授業の進め方や生活の工夫だけではなく、自分で考え人生を切り開いていく多くの考え方を学びました。
 彼女は、アメリカに帰国後結婚し、グアテマラから男の子と女の子を養子として引き取り、立派に育て上げました。

現在

2004年ガーナ ンクワチア
長女とガーナを訪問した時の写真。
後ろの壁画は、私の同期隊員がご主人と一緒に描かれたものです。

 ガーナに赴任した1978年(昭和53年)から今まであっという間に時間が過ぎたというのが現在の感覚です。
 ガーナでの2年間に書いていた日記を読み返してみると、「未熟な私」が見えてきて恥ずかしい一方、気長に未熟な私に付き合ってくれた私の周囲の人達に感謝する気持ちでいっぱいになります。
 現在、地域の小学校で学習支援員をさせていただいております。今まで経験したことのない小学生を相手にする分野で、子供たちの発達のスピードの速さにびっくりしています。手探りですが私にできることを考えながらあせらず進めようと思っています。
 ガーナで思った2つの基本条件のうちの「次世代への教育は大事。」を少しは実行しているかなと思う日々です。

これからJICA海外協力隊を目指す皆さんへのメッセージ

 私がガーナ赴任の時、当然のことながら心配している両親に「人が住んでいる所だから大丈夫。」と言って出発しました。日本国内でも外国でも習慣の違いはありますが、同じ人間社会であり、基本的な価値観に違いはないと私は考えます。
 ただ協力隊員として活動することで「日本の外から日本を見る。」ことができ、自分なりにどうすれば良いのか考える時間を持つことができます。私は、「帰国後は国内で頑張る。」と決め、現在に至っています。
 たくさんの素敵な人達に出合い、刺激を受け、考え、実行できた協力隊員としての2年間でしたので、これからも多くの人達に参加して欲しいと思います。