協力隊員時代から、現代の活動にたどりつくまでの歩み(前編)

【写真】大川 理恵(愛媛県)平成12年度1次隊/エジプト・アラブ共和国/美術
大川 理恵(愛媛県)

なぜ、協力隊員を目指したのか

在エジプト日本大使館へ挨拶

ドミトリーから任地へ出発

 はじめて協力隊員としてエジプトの地を踏んでから、はや20年が過ぎた。現在、シリア難民のイベントを進めていると、20年前の私と随分変わったなと実感する。
 私は、協力隊に参加しようと決める前、バックパッカーでインドとスリランカを旅した。その時偶然、協力隊員の活動現場を見て、興味をもった。帰国して、協力隊の募集要項を取り寄せた。すぐには、どこの国で自分はどの職種でいこうなどと決められなかったが、2~3年ずっと募集要項を見続けていくと、ある日「エジプト 美術」という欄が光って見えた。

「そうだ!私は、ここにしよう」

そう決めたら、協力隊に採用されるまで、あっという間だった。
二本松のJICA海外協力隊の訓練所に入り、見知らぬ言葉の学習をした。それは、「アラビア語」。教えてくれるのは、エジプト人先生。英語しか習ったことがなく、もともと外国語は得意じゃなかったが、「私はダメなんだ」と思うほど、からっきしダメだった。「アラビア語の文法は、英語とほとんど同じです」と先生が言われた時、とてつもなく失望したのを覚えている。「あ~また、私は、できないだろう」と思った。案の定、試験の結果は最下位だった。それなのに、びっくりしたことにその先生は「ナビーラ(私のアラビックネーム)は、一番エジプト人と気が合います。大丈夫です」という言葉をかけてくれるのだった。その言葉に甘え(たのかどうかはわからないが)、訓練が終わるまで、私のアラビア語のテストの成績は最下位。こんなんでエジプトで活動なんかできやしないと、腰が引き気味になっていた私に、その先生は「大丈夫。絶対、大丈夫」と繰り返してくれ、根拠のない自信だけを胸に(不安な気持ちも確かにあったのだが根拠のない自信がほぼ80%を私の中で占め)、空元気で日本を出発した。
エジプトを空から眺めると、ほぼ赤褐色な土地だった。「たいへんな国に来てしまった」と思った。

エジプトへ赴任 職種は美術

障害児に陶芸指導

子どもの作品は、一人ずつクラスに展示した

 私の任務は、障害児施設で美術指導をすることだった。
子どもたちは、とても人懐っこく、私に近づいてくる。仕事は14時ぐらいに終わり、同僚がよく「うちにランチを食べに来ないか?」と気さくに誘ってくれる。任地に日本人一人であったが、全然さみしくはなかった。
 任地は、カイロ郊外の砂漠の中に作られた新興住宅街の中にあった。新興住宅街といえども、砂漠の中に無理やり作った街だったので、水はよく断水するし、電気もよく停電した。そんな街だったが、人々は人情味があって温かかった。
 普段の授業では、ダウン症・自閉症・軽度の知的障害の子どもから重度の知的障害の子どもが、別々に授業を受けているが、私の美術の授業では、混合で授業を受けてくれる。美術といっても、特に、『陶芸』を訓練の一環として取り入れていた。私ははじめ、何をどうすればいいのか、言葉もこのころはさっぱりわからず、自分から一方的なことばかりを言って、他の先生方を悩ませていたと思う。障害を持っているが、言葉がしゃべれる生徒から、アラビア語を教えてもらったりした。
 同僚に「ハーニー」という美術の先生がいた。陶芸に関して、いろいろな技術をもっていた。ハーニーは、私が英語もアラビア語もできず、これでは会話も成立しないと心配してくれて、仕事が終わると、私を家に招いて一緒に食事をしたり、彼の子どもたちとしゃべる機会を与えてくれた。なによりも、子どもたちにアラビア語の家庭教師の先生が来ていたのだが、その先生のレッスンを一緒に受けさせてくれた。その甲斐あって、私の言葉も少しずつだが上達していった。
 ある日、ハーニーに「リエ、見せたいところがあるんだ」と言われ、庶民地区のど真ん中にあるアパートに行った。その1階と2階に、たくさんの障害をもった子どもや大人がいた。聞いてみると、ここは、施設長のお母様が使っていたアパートで、お母様がお亡くなりになったので、その場所を利用して、障害者施設を立ち上げたという。一瞬でこの場所が気に入った私は、その後、ここに通いづめになる。何よりも、私にとって、その後の人生を左右する大きな出会いだった。
 2年の任期を終えて、一度は日本に帰国するも、その2か月後には、一般短期派遣で、再度カイロに1年間赴任した。その後帰国し、今度は、同じくエジプトなのだがアレキサンドリアに8か月赴任した。この2回の機会とも、障害児者施設での美術を主とした任務だった。
(後編に続く)