ハンガリーでボランティア?!(後編)

【写真】平山 和子さん(愛媛県) 平成9年度1次隊/ハンガリー/婦人子供服
平山 和子さん(愛媛県) 

ハンガリーでの生活

配属先の実習場

 1990年代のハンガリーはヨーロッパ社会への復帰を目指して改革開放を進めた、社会が大きく変わろうとしていた時だったと思います。

 首都ブダペストは特に「途上国」という感じはなく、物資は豊かにあり、もちろん文化的にも歴史ある素晴らしい国でした。地下鉄は世界で3番目にできた国で、電気運転の地下鉄としては世界初、地下鉄として唯一世界遺産に登録されています。青年海外協力隊で来ました。と言っても「なぜ?ボランティア?」と不思議がられました。実際、教育・スポーツの分野が多かったので「国際親善のために来ました」と説明すると相互理解が得られたように思います。
 私の配属先はそこから40km下った小さな町です。ブダペストの街を少し走るとすぐにハンガリー平原が広がり広大な畑の一本道を進むと小さな町が現れます。首都から40kmしか離れていないのに、馬車も走ればロバ車も走る、時々ガチョウが大量に道路を横断するのどかな風景でした。
多民族が入り混じることもあり、首都と地方、の格差が大きいように思いました。それでもみな優しく家族思いで、私のことを「日本から一人で来た女の子は寂しくないか?」といつも気遣ってくれました。

 日本でいう「公営住宅」のようなアパートの5階に住んでいたのですが、ある日突然下の階のお母さんが「一人でご飯を食べるなら家で食べない?」と誘ってくれました。それ以来、お父さん、お母さん、大学生のお兄さん、高校生の妹のご家族に私が長女として仲間入りしました。「上の階の日本人の女の子はどうやら一人みたいだから、私たちがハンガリーの家族になってあげよう」と家族会議が開かれたのだそうです。
 このご家族は、旧ハンガリー領であるルーマニアのトランシルバニアからハンガリーに永住権を求めて引っ越してきた家族で、ハンガリー人なのに「ルーマニアへ帰れ」と差別され、経済的にも大変なご苦労をされ、必死に生きてきたそうです。きっと、私とどこか共感できる事があったのでしょう。本当に娘のように可愛がってもらいました。
 いろんな話をたくさんしましたが、お母さんはよくルーマニアのチャウシェスク大統領の話をしてくれました。日本にいる時は独裁政治なんて遠い、遠い、外国の話だと思っていたけど、つい最近の事で今、目の前にいる人が経験したことなのです。ニュースで見るのとは感じ方が全然違いました。
小学校の先生だったお父さんは、ハンガリーの学校の制度などを教えてくれました。お母さんは私のハンガリー語を誰よりも理解してくれ、学校で私が言いたいことが言えるように、どう言えばいいかをいつも教えてくれました。

配属先での仕事

学校のデザイン画展示の前で生徒たちと一緒に

 私の配属先は職業訓練校で、技術を勉強するだけではなく、学校の授業で実際に仕事をしていました。一般科目と、技術習得で構成され、教科書やカリキュラムもありました。ただ、環境が十分整っておらず、市役所の半分を校舎に充てていたものの、教室や実習室場が足りないので、3キロほど離れた大きな倉庫(旧馬小屋)を区切って教室と裁縫の実習場にしていました。私は学校と実習場を自転車で行ったり来たりしたものです。
 服飾科の実技は縫製実習場で、縫製工場の仕事として作業ズボンを縫っていましたが、ファッションの授業にならないから、「デザイン画を教えてほしい」というのが協力隊に対する要請でした。
先生たちは、私が何をするのかちょっと離れて見ている感じでしたが、困っている時はいつも助けてくれました。当時の私は前任の授業を引き継ごうと必死で気づかなかったのですが、今思えば、私がデザイン画の授業で時間を取ると、生徒が縫製をする時間が無くなってしまうため、ノルマが達成できないので、先生方にとったら、私の授業は邪魔だったかもしれません。

ハンガリーのファッションコンテスト

実習場

 デザイン画の授業は生徒からしたら“ちょっと遊ぶ時間”のようになっていましたが、クラスに大体2〜3人、真剣に「ファッションデザイナーになりたい」という生徒がおり、熱心にデザイン画を描き、家でもたくさん描いて授業の度にスケッチブックを見せてくれました。
 デザイン画を描いて終わるのではなく、それが実際に商品(洋服)になるという事を体感してもらえないか考えている時に、ハンガリーで「ファッションコンテスト」があることを知り、生徒全員で応募することにしました。1次選考はデザイン画、2次審査は実際に洋服を製作し、ファッションショー形式で発表する。というもので3人が1次を通過しました。2次審査に向けて放課後、製作に励み、生徒自身がモデルをして・・・とにかく、みんな初めてのことでとてもよい経験になりました。この時、一番達成感を感じたように思います。後に、その時コンテストに出た生徒がデザイナーではないですが、この経験をもとにモデルになった。と報告があり、とても嬉しかったです。

 ハンガリーでの活動は、本当に自分は必要とされていたのだろうか。と思うことがたくさんありましたが、自分に何ができるか、みんなと何がしたいか、それを試行錯誤、挑戦し続けた2年間でした。校長先生はいつも「和子のやりたいことをやってくれたらいい。それがみんなの為になる」と言ってくれました。
後に学校は新しい校舎が建設され、教育環境も日々改善されていると帰国後も校長先生が報告してくれました。

帰国後

帰国後 埼玉の児童館で手芸教室をしている様子

 専門学校新卒で協力隊に参加した私は、帰国後半年くらいかけて就職活動をし、都内の「ハツコエンドウウェディングス 帝国ホテル店」に就職しました。ブライダルサロンの衣装部で洋裁技術が生かせるので応募したのですが、書類選考でも2次面接でも青年海外協力隊へ参加した経験とバイタリティを高く評価して頂きました。
 2年ほど勤めた後、結婚・出産のため退職し、少し自由な時間ができたので埼玉県蕨市の児童館で、ボランティアとして子供達に手芸教室を開催しました。

現在

 洋裁という仕事や製作活動を続け、現在、愛媛県松山市内で洋服の補正とオーダーのお店を経営しています。仕事の他には2か月に一度くらいですが、高齢者の施設で衣服の修理のボランティアをしています。いつも、何か自分にできるボランティア活動を心掛けているのは青年海外協力隊に参加した経験が自分の中に生きているからだと思います。

 帰国後は親しかった人や生徒にクリスマスカードを書いて近況を報告し合いました。そのうちFacebookという便利なものができ、あっという間にまた身近な存在になりました。みんなのUPする写真で最近のハンガリーの様子や豊かになった暮らしを知ることができます。中・高校生だった生徒たちはみな、結婚・出産し、ママ友達のように話しています。
広尾訓練所で生活を共にした同期隊員のみんなや、ハンガリーの隊員とは、今はそんなに会えなくなりましたが再会するとすぐに意気投合します。
たくさんの出会い、かけがえのない経験ができたことに感謝の思いは尽きません。