昭和50年から3年間マレー半島東海岸のパハン洲クアンタン職業訓練学校の教師をしていました。今は高知で家電修理業をしています。
生まれは高知ですが父の仕事(飛行機の整備士)の関係で日本各地を転々としていました。マレーシアは初めての海外経験になります。
24歳で青年海外協力隊でマレーシアへ
36歳で青年海外協力隊で中米ホンジュラスへ
48歳でメキシコの電子部品組み立て工場現地採用就職
12年ごとに転機が訪れるので60歳でカミサンの故郷である中米ホンジュラスへ移住をと考えていましたが64歳になってまだ日本にいます。
昭和47年に「若い力」という協力隊の機関誌を友人の家で見て青年海外協力隊の存在を知りました。昭和48年に高知新聞の求人欄に小さく「青年海外協力隊募集説明会」というのを見かけ説明会に行き、応募しました。説明に来ていた人が高知県で一番古い協力隊OBであることを後で知りました。
最初は、職業経験のある職種「コンピューター」を選んで試験を受けましたが不合格で、次は工業高校で学び、趣味でもある職種「電子機器」を選び、筆記試験に合格、東京で面接試験に臨みました、事務局長直々の面接はなんと英語での質問に英語で答えるというものでした。
その後、面接試験にも合格はしたのですが、英語がレベル(中卒程度)に達していなかったので派遣前訓練のまえに、英語の訓練を1ヶ月程度受けました。派遣前訓練は、それぞれの任国の語学を学ぶことがメインで私の場合はマレー語でした。その他、著名人や局長の講話や任国事情についてなどを学ぶのですが、私は一番前に座りよく居眠りをしていました。
あるとき講師に「こういうときに居眠りできるのは、適応能力のある人だ」といわれました。環境が変わっても、「どこでも寝れるし、何でも好き嫌いなく食べる」これは異文化で生活する上で特技になります。
訓練が終わりマレーシアへ飛び立つ時、まったく不安はなく、どんな冒険がまっているのか、わくわくした気持ちでいっぱいでした。同じ海外へ飛び立つといっても、私の父のような大正生まれの人たちが戦争に駆り出され任地に赴く時はどんなに不安だったであろうと考えると、今は平和な世の中になったと痛感しました。
任地についてすぐ本場のマレー語になれるため漁村のマレー人の家に約1ヶ月下宿しました。このときも食事とトイレに行くとき以外はほとんど寝ていました。私の仮の名前は「アリ」で、家の人に「アリ、プマラス」(アリは怠け者)といわれました。マレー人に怠け者といわれた日本人は私くらいでしょう。
トイレというものが家の中にも外にもないので、家のすぐ前にある浜を人のいないところまで歩いて、穴を掘って用をたしていました。最初は紙を使っていたのですが、下痢をして遠くまで歩く余裕がなくなり家からまっすぐ波打ち際へ行き、用をたし海水で洗うようになりました。マレー人(イスラム教徒)は紙を使いません、アッラー以外の神(紙)に頼らず・・・。以後、私はほとんど紙を使いません。
配属先は中等職業訓練学校で、機械・自動車・溶接・ラジオ/TV・商業があり、溶接科に私と時期が入れ違いになる前任者がおり、下宿もその人の部屋を受け継ぎました。私はラジオ/TV科で実習と機材のメンテナンスを担当しました。現地の先生は教員養成大学を出ているので理論を教えるのは彼らにまかせることにしました。出しゃばるとプライドの高い彼らの心を傷つけることになるのではと思い、そうしました。
下宿先は中国系の家庭で、そこの主人は私の配属先の学校の食堂を経営しており、家では複数の言語が飛び交っていました。まず私と家族の会話はマレー語、息子と娘どうしは英語、主人夫婦の間は海南語(中国の一方言)、放送されているテレビのニュースは時間帯によってマレー語、英語、北京語、タミール語。イスラムのお祈り時間の呼びかけアザーンはアラビア語と、文化・言語・宗教の異なる人たちがひとつの国で暮らしている状態は、世界平和を考えるヒントになると思います。
食文化の多様性と豊かな食材が相まって、美味しいものがたくさんあり、任期を終えた後太って帰ってくるのは珍しいといわれました。
自分の実力を試したかったというのが一番です。外国へ行けば、日本での肩書きは通用せず実力勝負です。また協力隊員の採用基準も肩書きではなく経験と実力です。とはいえマレーシアでは身なりと、いくら金を稼いでいるかが判断基準になっており、私はよく生徒たちにバンジール(洪水の意味で、穿いているズボンがよれよれで洪水の中を歩いてきたようにみえる)と冷やかされました。
任期中に隣の国タイへの国境を渡るとき怪しい者と疑われました。ジーパン、Tシャツ、ビーチサンダルの格好で公用旅券を持っていたのですから。
青年海外協力隊の目的は途上国への技術移転ですが、教えるより教わることのほうが、たくさん有りました。
1.日本の常識は通用しないこと。
2.外から違う視点で日本を見ることが出来たこと。
3.日本の歴史・文化をいかに知らないかということに気づいたこと。
4.日本と他国を比較して腹を立てても仕方ないこと。
5.知識・経験があってもそれをうまく相手に伝える技術がなければ意味
が無いということ等です。
帰国して家でぶらぶらしていた時、元協力隊事務局長の伴正一氏が国政選挙に出ることになり、私が秘書兼運転手を勤めることになりましたが、結果は落選でした。その後2度挑戦するも叶わずでしたが、“日本を世界に誇れるよい国にしよう”という志は変らず最後まで勉強会を開催したり、冊子を発刊されていました。氏の志を継いだ人が大勢いると信じています。私も、国内外の問題に“伴さんならどう解決するだろうか?”と考える時があります。
私は高知県協力隊OBとして協力隊の募集説明会や選考試験の手伝いをしているうちに、もう一度自分が行きたくなり、試験を受けて中米のホンジュラスへ行きました。現地の人はマレーシア人と比べると、より日本人にメンタリティーが近いように思いました。というわけで、うちのカミサンはホンジュラス人です。
これまで、組織に属さず自由に自分のやりたいことをしてきて満足しています。もっとも、日本という大きな組織には属していますが。
残りの人生は、ホンジュラスへ移住して技術者を育てるとともに日本文化を宣伝したいと思います。
「私はどこにいようと日本人です」これは小野田寛郎元陸軍少尉が、帰国の翌年ブラジルへ移住するときに、「なぜ?」と問われ、答えた言葉です。私もこう言いたいと思います。