【青年海外協力隊50周年企画】協力隊を支えた四国の初期隊員たち-2(香川)前編

【写真】三好 稔さん(香川県) 1972年:タンザニア/2003年:ジャマイカ/2006年:フィジー/2009年:ボリビア 職種:自動車整備
三好 稔さん(香川県) 

これまでの経歴

■青年海外協力隊
派遣期間:1972〜1976/派遣国:タンザニア連合共和国
■シニア海外ボランティア:
派遣期間:2003〜2005/派遣国:ジャマイカ
派遣期間:2006〜2008/派遣国:フィジー
派遣期間:2009〜2011/派遣国:ボリビア

青年海外協力隊派遣前は(株)香川ダイハツモータースで自動車整備士として自動車の整備に従事していました。帰国後は、(株)ホンダワールド(現ホンダカーズ)に27年間勤めた後、シニア海外ボランティアとして3度活動を行いました。

4度にわたるJICAボランティアを経験されてきた三好さんに、当時の活動や生活についてお答えいただきました。

「青年海外協力隊」に参加することになった経緯

43年前の20歳の頃、ダイハツで整備士として働いていた時の同僚が協力隊に応募していたので、一緒に書類を東京のJOCV事務所に出してもらったら、とんとん拍子で面接まで行ってしまいました。
実は、趣味が自動車ラリー競技だったので、当時観た石原裕次郎の『栄光の5000km』という映画に影響され東アフリカに行きたいと思っており、「現地の人への援助したい」といったボランティア活動への思い入れは不純ですが、正直、全くありませんでした。
しかも、当時の私の喋れる語学は讃岐弁のみで、東京の広尾で行った派遣前訓練中に語学(スワヒリ語・英語)と協力隊の活動を初めて知った様な具合でした。

当時の周りの反応は?

当時の香川は、今のように新聞、TV等でJICAのことについて知る機会がなく、私の周りでも協力隊の名前や活動内容を知っている人は誰もいなかったので、派遣前訓練後に帰郷した時は友人から「何しに行くん?」と質問攻めにあいましたね。

当時の任国の様子

任地の主要言語はスワヒリ語と英語(公用語)で、赴任当時タンザニアはウガンダと戦争状態になっていました。私の赴任先はイギリスの植民地時代の名残が色濃く残っていたタンザニア第2の港湾都市、タンガ市でした。

現地での活動

JICAからランクルを貸与されていた。彼は日雇い作業員(毎日150人前後が来ていた)

キヤカの牧場建設キャンプ内の同僚の娘

タンザニア農業省のツエツエ蝿駆除プロジェクトに配属されました。
着任1年目はタンガ農業試験場に赴任され、仕事は地方から集められた職員にエンジン付きの背負い式噴霧器の分解修理を1か月クールで教えるものでしたが、予算不足の為1年間で生徒が来たのはたった1回だけでした。
丁度その頃『アサンテ サーナ/わが愛しのタンザニア』※1の撮影隊がタンガに来ていて、映画のエキストラ集めなど手伝いをしたりして、日々街をピキピキ(バイク)で走り回っていました。この時にスワヒリ語の「ポレポレ」(のんびりいこうよ、あせらない、あせらない!)という考え方を学びました。

2年目からはトランスファー願いが受理され、ウガンダとの国境近くの村であるキヤカ村牧場建設のプロジェクト現場に入りました。実は当時は紛争地域になっていて、上司であるイギリスの専門家達は皆避難しており、私は独りでの活動となりました。
そこで私は現地の労働者約150人程度と一緒に森林を切り開き牧場建設をしました。

キャタピラー2台を使って木をなぎ倒して更地を作った後に、ため池やセスナ機が発着出来る道路を作った後、セスナ機を使ってツエツエ蝿駆除殺虫剤散布し、牛が飼える様にしました。私の主な担当は使われている車両・建設機械の、部品調達、燃料調達等といった保守管理全般でした。

※1アサンテ サーナ/わが愛しのタンザニア:
1974年に製作された日本映画。タンザニアのある協同農場で青年海外協力隊員として活動する主人公坂田、タンザニア人の同僚ジュマ、日本人ヒッピー梶を中心に協力隊員の活動と生活、人々の心の葛藤、触れ合い、タンザニアの風土などを情熱的かつ情緒豊かに描いている。

生活のこと

キャンプで住居にしていたトレーラ(後ろの箱)とカウンターパートのキノコ型の家

毎週月曜日の朝飼っている牛を解体している様子

3ヶ月毎に移動するキャンプ地には職員用にキノコ型の簡易ベッドが2台入るほどの大きさのトタン家を20軒程度コの字型に配置し、真ん中にトウモロコシを植えました。
食事はカウンターパートの奥さんが毎日作ってくれましたが、朝、昼、夜3食、焼きバナナ、煮込みバナナとウガリ※2ばかりでした。
毎週月曜日には牛を解体する日で、この日はどこからともなく肉を買いに人が湧いてきました。
電気は発電機を活動2年目に現地事務所から送ってもらい、各家に配線を通し夜3時間だけ点灯するようにしました。
生活の中で注意しなくてはいけなかったのは、蛇。蛇は皆毒蛇だったからです。
また、朝靴を履く時は必ずサソリが入っていないか確認もしていましたね。

※2ウガリ:コーンミールやキャッサバの粉を湯で練ったもの。水分を含ませる度合いによって団子状から粥状のものまでさまざまなバリエーションがある。

苦労したこと

1〜2週間に1度ブコバノ町(ビクトリア湖の西側にある都市)に買い出しに出かけていた時の食堂の前で(待ち合わせ場所

「病院」、「水」、「マラリア」特にこの3つに苦労しました。
【病院】近くに病院が無く、一番近いものでも100マイル程離れていました。

【水】
飲み水は雨水をろ過して、煮沸して飲んでいました。
トイレは穴を掘って周りに草で囲っただけのトイレでした。一度しゃがんでいる時に蛇がいて、息が止まりました。それからは、トイレを設置するたびに周りに廃油を撒いて蛇が近寄らないようにしました。
唯一の楽しみは2週間に一度食料の買い出しにブコバの街に行った時にホテルで風呂に入る事でしたが雨季になると大型のトラクターでも通れなくなるので風呂は一ヶ月に2回位しか入れませんでした。

【マラリア】
ある時、目が覚めると教会病院に!マラリアで2度ほど担ぎ込まれていた事もありました..。

一番うれしかったこと

よくも2年間も紛争中の国境近くにいて無事でいられたことですね。

帰国後の生活で青年海外協力隊が活かされたことは?

実は仕事上で協力隊の話を出したことは一度もありませんでした。しかし、協力隊の経験を通して「なるようになるさ」的発想で行動できるようになったので精神的にはいつも強気でいられたし、形にこだわらず挑戦することで楽しんで仕事ができました。

<後編では、シニア海外ボランティアとして活動された様子をお伝えします。>