【青年海外協力隊50周年企画】協力隊を支えた四国の初期隊員たち(徳島)

45年前の青年海外協力隊を直撃 「命がけだった!?協力隊」

【写真】祖父江 義夫さん(徳島県)1971年:ケニア 職種:自動車整備
祖父江 義夫さん(徳島県)

昭和40年にJICA協力隊事業が開始され、アフリカとしては唯一の国としてケニアに3名の隊員が派遣されました。それから半世紀、多くの青年海外協力隊員がケニアの地を訪れ、活動をしてきました。45年前の協力隊体験はどんなものだったのか。徳島県のケニア隊員第一号である祖父江さんに聞きました。

祖父江さんはどのようなきっかけで協力隊に応募したのですか?参加までの経緯や、当時の日本、世界の情勢も含めて教えてください

私は徳島県の穴吹町で高校まで過ごし、その後北海道自動車短期大学(現・北海道工業大学)で自動車工学を学びました。当時はここが大学で自動車工学を学べる唯一の大学でした。その頃私はアジアアフリカ研究会という団体に入っていて、この研究会からの推薦を持って協力隊に応募しました。もちろん試験も受けました。けれど、この頃の昭和45,6年はまだ協力隊事業も模索中できっちりした形はなかった。昭和41年に始まった協力隊の最初の隊員はNTTがラオスに隊員を送っているように、国の依頼で会社が行っていたんです。合格通知がきて、徳島県庁に出発表敬挨拶に行ったけれど、その当時は、知名度は全くない。「それ何ですか」と言われましたよ。
私は、遠く知らないところへ行ってみたかった。当時はアフリカに行く人なんてほとんどいなくて、行けるのは商社の人だけだったんです。
この先の日本は上り調子。オリンピックが行われ、海外からお金を借りて新幹線や橋を作っていました。そして、世界は冷戦時代でした。アジアはインド・パキスタン戦争をしていたので、私はケニアに行くのにロシア周りで入りました。着くまで丸々2日かかりましたね。後で旅費をみると片道60万でした。

ケニアに行く不安はなかったのですか?

最初から全部不安!でも合格しているから、辞めることなんてできないと思っていました。行くまでは向こうに行って何をするかもあまりわからない。でも、「飛行機に乗ればなんとかなるだろう。行こう!」という気持ちでした

ケニアでの協力隊活動と現地の生活について教えてください。

ケニアの赴任地は、サバンナの中の何にもないところで2年間キャンプ生活をしていました。当時ケニアは、イタリアの援助でナイロビから、エチオピアのアジスアベバにかけて高速道路を作っていました。私は労働省に配属され、職業訓練所で自動車整備の技術を教えました。
イタリア人の宿舎に日本の協力隊員が住まわせてもらって、食事代は日本人が払うなどして持ちつ持たれつ、仲よく生活していました。食事はイタリア料理でうまかったですね。イタリア人のコック長は第二次世界大戦の元軍人で日本びいきだったので、よくしてもらいました。
ケニアはイギリスから独立して10年目を迎えていました。サバンナの現地ではツルカナ族が住んでいます。彼らはすっぽんぽんで槍を持って、人間が住める限界のところで暮らしていました。

どんなことが印象に残っていますか?

サバンナでの命がけの生活です!砂漠で一度ドライアップ(魚の干物やミイラのように干上がる)になりかけました。着いたばかりの頃、砂漠にある現場を見に行って、来ると約束した現地の迎えがこなかったのです。幸い民間の車に乗って帰ることができましたが、危ない経験でした。今はそんな危ない場所に隊員は派遣されませんが、当時は生きることで精一杯でした。

2年間の過酷な環境での協力隊活動が買われ、任期を1年延長してナイロビで協力隊活動を行った祖父江さん。帰国後はサウジアラビア、UAE、愛媛で自動車整備の仕事を行い、現在も愛媛で会社員をしながら農業(自然農法)をしていらっしゃいます。最後に、協力隊で得たものを教えてください。

【画像】協力隊OBとの繋がりかな。もう20年くらい、毎年、愛媛の東予地区だけで2,3回、愛媛全体でも2回程OB会の飲み会に参加しています。このOB会の飲み会には、参加できる人が参加できるときに来る、そして外部から友達を連れて来るし、県や市の職員なんかも参加しに来ます。誰が参加しても誰が幹事をしてもいい。くだらん話をしながら楽しく飲んでいます。協力隊のいいところはOB、OGといえばすぐにその輪に入れるところ。
「年齢も職業も越えて、一つの輪になれる」これは協力隊ならではだと思います。