【青年海外協力隊50周年企画】協力隊を支えた四国の初期隊員たち-野村由喜夫さん(徳島)

【写真】野村 由喜夫さん(徳島県)昭和53年2次隊後組/ケニア共和国/理数科教師
野村 由喜夫さん(徳島県)

経歴と現在

授業の一コマ

昭和53年2次隊後組でケニア共和国西部のハランベー セカンダリー スクール(日本の中学2年から高校2年の年頃の生徒が通学する地域の住民が力を合わせて設立した中等学校)で理数科教師として活動しました。

 私が生まれ育ったところは徳島県海部郡海陽町(旧海南町)です。東京オリンピックと大阪万博の間の高度経済成長期に海南第一中学校を卒業し、すぐに神戸の工場に就職し夜間定時制の県立工業高校に通学しました。まとまったお金を貯め、2つ目の海南高校(現在は海部高校)を卒業しました。広島大学に進学し大学院の途中で青年海外協力隊に参加しました。帰国後は大学院、大学教授のお世話で民間企業に就職、海南高校時代の同期生と結婚後に転職し、小学校・中学校・高等学校教員とほとんど広島県で過ごしてきました。3年前に定年退職しましたが,現在も再任用(再雇用)で農業教員をしています。また,ひろしま徳島県人会の1役員として、毎年1月に広島で開催させる都道府県対抗男子駅伝の応援に燃えています。

協力隊参加のきっかけ

派遣前の大学院時代に水産食品製造に関する研究の傍ら、塾講師や家庭教師をしながら英会話学校に通っていました。その英会話の活用ができて、1回だけの人生で世の中のために何かできないだろうかと真面目に考えていました。留学は経済面で諦め、当時の国際協力事業団が開催した中南米への海外移住の説明会に行って青年海外協力隊のことを知りました。実務経験もあまり厳しくなく、派遣時期が遅く大学院終了後に参加できるガーナでの理数科教師を希望して受験しましたが、ケニアの理数科教師に合格したため大学院を中退して参加することとなりました。

派遣前訓練

 当時の派遣前訓練は,東京の広尾訓練所で2か月と代々木のオリンピック青少年総合センターで2か月の訓練でした。旗揚げと早朝ランニング、習熟度別クラスでの英語や現地のスワヒリ語の語学研修に加え、南北問題や国際協力の意味、異文化理解、熱帯病対策等の講話や各種予防接種、座禅寺への研修旅行、英語Aクラスのメンバーで自主計画して行った伊豆への研修旅行、皇太子殿下と皇太子妃殿下(現天皇皇后両陛下)の派遣前御接見等が思い出されます。

ケニアへの派遣−現地訓練-

現地訓練で宿泊した家

現地訓練先での魚を獲る網と

 四か月の派遣前訓練が終わり南回りでケニアに派遣されました。途中インド洋のセーシェル島では数日間、熱帯特有の小鳥の鳴き声を聞き、ヤシの実からのミルクや熱帯のいろいろな果物を味わうなど、気分を十分楽しんだ後にケニアの首都ナイロビに入りました。

 ケニア到着後すぐに現地訓練として西部の竹尾敬三稲作隊員のお世話でビクトリア湖近くの農家で生活しました。もちろん牛のふんで塗り固めたマッシュルームハウスでした。
1日目の夜はマラリアが心配な蚊に刺されながら与えられたベッドに寝たのですが、ベッドの下には鶏や山羊がいて朝早くからコケコッコウとベッドの下から声が聞こえてきて、ゆっくり寝られたものではありませんでした。朝起きると小さな空き缶に入った水を頂いたのですが、茶色く濁った川の水でした。その1杯の水で顔と歯を洗った時は、ここはケニアなんだと実感しました。
食事はトウモロコシの粉を炊き上げたウガリと野菜のマーガリン炒め、チャイというミルクティーがほとんどでした。たまに牛肉も出たのですが放牧中のエサの関係なのか匂いがきつく、なかなか慣れませんでした。そのため、その家の木になっているパパイヤやオレンジ等の果実で栄養補給をしていたと思います。

この現地訓練の1成果として現地のルオ部族の言葉を英語に訳してまとめ報告書を作成できたことがありました。

ケニアへの派遣−ケリチョー地区のキプケリオン-

派遣先近くのお茶畑

現地訓練後、派遣された任地はケニアの首都ナイロビから西部のビクトリア湖の方向へ300km向かった大地溝帯リフトバレー州のイギリスの植民地時代からのプランテーションが残る見渡す限りの紅茶畑が広がったケリチョー地区のキプケリオンという町でした。この地区はカレンジン部族が主で、雨期には雨が多く、トウモロコシ中心の農業が盛んなところで、赤道直下にありながら標高2,000m以上とあって朝夕はセーターが必要でした。植民地時代からの紅茶の運搬のためか汽車の駅もあり、夜行でナイロビに行くのも便利でした。ただし、2等車は常に満員で窓から乗り降りし、頭上の網棚に鶏が積まれ糞が落ちてきたこともありました。

ケニアへの派遣−配属先:タイタトウェット中等学校-

学校の看板の前

教職員スタッフ

卒業記念クラス写真

配属先はハランベースクールのタイタトウェット中等学校でした。この学校名はその時の文部大臣の名前で、実際にその息子も学んでいました。植民地時代のなごりか、サファリラリーのコースになっていた校門から校舎まで、約50mの道路には桜並木があり、開花期はきれいな景色でした。

学校は2クラス4学年の8クラスで、約300人いる生徒のうち半数は寮生でした。スタッフは16名と比較的しっかりした学校で、私が担当したのは数学と物理が中心でした。1クラス50名の生徒のうち、授業料の払いや成績の良い生徒10名程には教科書が貸し与えられますが、教科書もまともに持ってない生徒がほとんどで、黒板はコンクリートに黒ペンキを塗ってあるだけでした。
生徒たちは明るく、私には常に「Yes sir」と従順でした。私の話す英語だけが生徒の知識として頭に入っていくという、今思えば怖い状況でした。最初はケニア英語に不慣れでしたが、週に28時間の授業をずっと英語でやっていると、いつのまにか英語を話している意識がなくなってしまいました。

失業率が高く、就職できるのはごくわずかで、「大学へ行けば仕事を得られる」と、生徒はとにかく日本で言えば大学入試センター試験のような大学入学資格試験を目指して、彼らに群がる多くの親戚家族を養うために必死で勉強していました。但し、政府立の学校でなかったので授業料は高く、度々授業料が払えないため教室に入れず、罰として草刈をしている生徒が多くいました。

ケニアへの派遣−配属地での生活

この学校は女性隊員が入れないような山奥の上の丘に建っていたので、一番の問題は水不足でした。もちろん電気・ガス・水道は無く、ランプと炭での生活でしたが、私が育った頃の徳島県の自宅も遅くまでガス・水道は無く、まきや炭、井戸水で生活していたので、当時のケニアでも特に苦労とは感じなかったと思います。ちょうど古い時代の日本と同じと思っていました。

与えられた家は学校の敷地内の頂上にあった一軒家で、圧力をかけて暖房にもなる明るいランプと炭での炊飯生活でした。貸与されたラフロード用バイクにバケツを2つハンドルにかけ、山の下の川へ茶色い川の水を汲んできて生活したものです。派遣中は年4回ほどこの愛用のバイクでナイロビの銀行に生活費のお金を引き出しに行くことと、長期休業中の生徒の家への家庭訪問、同期の自動車整備隊員のいたツャボ ウェスト ナショナルパークで野生動物を十分観賞したこと、隊員同士の会や大使や駐在員が主催した公式なミーティング以外はこの村に滞在するようにしました。

学校には日本製の小型発電機があって,7時半から9時半まで教室に通電して寮生を予習・復習の学習をさせていました。但し、よくエンジンが故障するため、私はその修理に明け暮れた思い出が残っています。ラジオの修理も度々村人や生徒から頼まれてやっていたように思います。私自身は丘の頂上の家にアマチュア無線用の大きなアンテナを立てて毎晩途切れながら聞こえてくる日本の短波放送、Radio Japanの英語ニュースを聴いていました。食生活は、赴任後すぐに家の回りに畑を開墾していろいろな野菜を栽培し、鶏も放し飼いで飼育して卵を得るという自給自足の生活を目指していました。貧しい村でしたので大きなお金を一度に使うことは慎んでいました。

2年目は余裕もできて、ケニア各地に派遣された理数科教師と連絡を取ってケニア教師隊員会議を開催しようと世話人として頑張った思い出もあります

協力隊経験で得たもの

ケニアでの青年海外協力隊での生活を通して、私は人のやさしさや助け合いの心はどこの国の人も同じだということを知ることができました。

当時のケニアの学校には体育の授業はまだなく、私はこの学校にバスケットボールの導入を試みました。任期中に山の斜面のようなグランドにバスケットコートを造ってやろうと思い、努力した時のことです。平らなコートにするためのコンクリート用の砂を取りに政府のトラックを借りてビクトリア湖の湖畔へ行きました。トラックの荷台に砂を満載して帰ろうとしたとき、トラックがビクトリア湖の湖岸のぬかるみにどんどん沈み、出られなくなりました。困っていると、通りがかったケニア人が「コマツを使おう」とブルドーザーを持ってきてくれ、無料で引っ張りあげてくれたのです。もし彼がいなかったら私の人生はどうなっていたでしょう。今も大変感謝しています。

また、私の任期が終わり、帰国のため村を離れる時には、地域の方々が私のために山羊一頭を使って私の自宅で一晩中のお別れパーティーをしてくれました。

個人的には「待つ力」がたいへん身についたと思います。現地の乾季には、何か月も一滴の雨も降らず、川も水が少なく雨の降るのをずっと待ち、ケニアの郵便局では切手1枚買うのに2時間の昼休みを含めて数時間かかったことが度々あったり、バスも満員になるまで何時間も出発しないことが度々あったりと、「待つ力」を鍛えられました。

帰国後の活動

帰国後は、日本の無償資金協力で設立されたジョモ・ケニヤッタ農工大学からの留学生と長く付き合いをさせてもらいました。広島県協力隊OB会のお世話もさせてもらい、梨狩りやバーベキュー等多くの行事に家族とともに参加できたのも良かったと思っています。

小学校や中学校の数校に勤務したため、いろいろな機会に児童・生徒・地域の方々に青年海外協力隊の体験談を話すことが出来ました。また、JICA中国に近い農業高校に勤務したため、ベトナムやパラグアイ、フィリピン、エジプト、モルディブ等、多くの国からの研修生が日本の高校見学で来たときの「おもてなし担当」をさせてもらい、いろいろな国の人々との出会いや楽しい思い出づくりができたのも青年海外協力隊参加のお蔭だと思っています。

今回JICA四国のお蔭で、40年近く前の忘れてしまっていた多くのことを、少しずつ思い出すという機会をいただき大変感謝しています。アサンテ サーナ(スワヒリ語:大変ありがとうございました)。これを読まれた皆様、日々の生活ではとにかく急がず、ハランベー(みんなで力を合わせる)精神があれば更にハクナ マタタ(せわぁない)、ポーレポーレ(ゆっくりゆっくり)とお過ごしください。