南アフリカの子供たちへ ー二年間の活動を終えてー

【写真】七條 光博さん(徳島)平成26年度4次隊/南アフリカ共和国/コンピュータ技術
七條 光博さん(徳島)

郊外にある露天掘りの銅の採掘場。このような巨大な採掘場が周辺に点在しています。

学校の正門。学生数は約3500人です。

中央校舎です。昼休みなので多くの学生がくつろいでいます。

 南アフリカはご存知の通り、アフリカ大陸最南端にある国です。人口は約5400万人、面積は120万平方キロ。9つの州から構成される連邦制国家であり、また11の公用語を持つ多民族国家でもあります。人口の8割が黒人、1割が白人、1割が混血とアジア系です。アフリカでは珍しく民主主義が機能しており、政治家のほとんどが黒人です。ただ、官庁、民間企業とも管理職の大半は白人で、黒人の比率を向上させることが大きな課題となっています。そのためには教育が唯一の解決策です。南アフリカは多数のJICAボランティアを受け入れていて、その多くが学校に配属されています。

 私の任地は南アフリカの北東部、モザンビーク国境からほど近いリンポポ州、モパニ郡にあるナマハレという人口3万6千人の小さな町でした。タウンシップと呼ばれる旧黒人居住区の一つで、今でも住人の99.6%は黒人です。近隣の銅と鉄鉱石の採掘が主要産業ですが、失業率が50%を超える貧しい町でもあります。

 ここにある国立モパニ南東高等職業訓練校(通称モパニカレッジ)が私の職場でした。学校は3年制で、IT、建築、土木、電気、機械、自動車修理等のコースがあり、学生たちはそれぞれの専門科目の他に英語や数学等の一般科目を学んでいます。私はITコースでコンピュータネットワークを教えました。

ITコース3年の学生たち。入学時は150人いた学生が3年次には60人ほどに。

授業後の記念撮影。写真を撮っているとすぐに集まってきます。

 南アフリカと言うとアパルトヘイトを思い浮かべる人も多いかもしれません。でもアパルトヘイトが廃止されて22年が経ち、今ではどんな人種でも適切な教育や職業訓練を受ければ、それに応じた地位と収入を得ることができます。それでも、黒人、特に地方在住の黒人はその機会に恵まれないことが多く、多くが単純労働に従事し、貧しい生活を余儀なくされています。モパニカレッジにも、毎年多くの学生が職業訓練を受けて、より良い収入を得ようと希望に燃えていて入学してくるのですが、基礎学力の低さはいかんともし難く、最終的に卒業できるのは全体の15%程度です。

 授業は毎週5時間、2時間連続が2回と、1時間が1回、これが2クラスで合計10時間。実習や演習ではなく、座学で、かつ概念的な内容が多い科目なので、学生にとって理解がし難い科目です。そのため、学生に興味を持ってもらい、理解度を上げるために、インターネット上で探した図表や動画をプロジェクターを使って見せるなどの工夫をしました。また、私は日本の自宅にLAN(ローカルエリアネットワーク)を持っていました。それに数台のサーバーやネットワーク機器等を接続してあり、南アフリカから、もちろん世界中どこからでも、アクセスできるようにしました。授業中にノートパソコンから、そのLANにアクセスし、実際のネットワークを見せるなどしていました。

 2時間連続で英語で喋り続けるのはなかなか大変でした。特に最初の数ヶ月は食事や入浴、睡眠時間以外は一日のほとんどを授業の準備に費やしていてました。また、学生にとって英語はあくまで第二言語で、家族や友達とは自分たちの部族の言葉で話します。そのため、彼等の英語はかなり訛りがあります。それを理解するのもなかなか大変で、授業がスムーズに進まないことも珍しくありませんでした。同じ科目を次年度に担当予定の若い講師が学生と一緒に受講していたのですが、どうしても分からない時は、彼女に通訳してもらいました。英語を英語に通訳すると言う何ともおかしな話です。

 それでも、徐々に慣れてきて学生とも少しずつコミニケーションが取れるようになりました。私のオフィスに雑談をするために来る学生(私は常連と呼んでいました)も少しずつ増えてきました。私を「daddy(お父さん)」と親しみを込めて呼ぶ女子学生もいました。年齢的には彼女達の父親と近いからでしょうが、まあニックネームですね。ランチに自宅へ招待してくれた事もあります。レンガ造りの小さく質素な家でしたが、とても嬉しかったです。幼い弟の保育園の卒業式に呼んでくれた学生もいました。もちろん非黒人は私だけで相当目立っていましたが。

 2年間はあっという間に過ぎました。彼等のために何かできたとか、何かを変えたとか、そんな大それた自覚はまったくありません。しかし、彼等は若いです。彼等の多くはこれからの長い人生の中で、日本や日本人という言葉を聞いた時、接した時、きっと好意的な印象を持ってくれると信じています。それこそが、私がこの国でした最大の成果かもしれません。