“人と人”との繋がり、そして自分に与えられた使命を実直に[前編]

【画像】大塚化学株式会社 松茂工場長[同社元インドネシア現地法人社長] 野水 誠也さん

S63年度1次隊 ガーナ 理科教師
大塚化学株式会社 松茂工場長[同社元インドネシア現地法人社長] 野水 誠也さん

徳島県の代表的グローバル企業である大塚化学株式会社に勤務され、10年以上、インドネシアの同社現地法人に赴任された経験を持つ野水さん。その野水さんの初めての長期海外経験は、青年海外協力隊でした。今回は、インドネシアでの勤務経験や協力隊経験、冒険的な大学時代についてじっくりお話を伺います。

現在お勤めの会社について教えて下さい

徳島の阿波踊り空港に隣接した松茂工業団地の中にひときわ青い横線が目立つ建物が見えますが、そこが、現在私の働いている大塚化学・松茂工場になります。この工場では、医薬品の中間体やエンジニアリング・プラスティックの生産を行っています。

ちなみに大塚化学は、医薬品の製造販売から皆様にお馴染みのオロナミンCの製造、以前は、ボンカレーに代表される食品(現在は子会社の大塚食品にて製造販売)まで幅広く製造販売している大塚ホールディングスの連結会社になります。

大塚化学への入社は、大学の恩師からの紹介でした。1989年に青年海外協力隊の任期を終えガーナ共和国より帰国しましたが、しばらくは、自分がこれから何をすべきか、何が出来るのかに迷い、あてもなく海外を放浪していました。

そんなときに、ガーナにいる時も手紙での親交のあった大学の恩師から、「ある会社が海外展開をするので海外志向の人材を捜している。」との連絡がありました。つまり、それが大塚化学でした。実は、大塚化学が何を作っていて、どこにある会社なのか、工場がどこにあるのかさえ全く知りませんでしたが、恩師が勧めてくれたので、面接に伺うことにしました。
面接時に会社からはすぐにでも来てくれと言われたのですが、自分としてはまだ何かやり損ねたことがあるような気がしたので、2ヶ月待って頂くようにお願いし、就職は後回しにして再度放浪の旅へ出かけました。その頃は、まだ若かったのと、世間を知らなかったのでしょう。そして、2ヶ月後、まあしばらく働いて、次のことでも考えようと言った簡単な気持ちで1990年に入社しました。

インドネシアに行かれたのはいつ頃で、どのような仕事をされていたのですか?

大塚化学に入社し、しばらくは海外関連会社の技術支援の仕事を行っていましたが、しばらくして既存製品の新しい製造方法をラボで研究する機会にめぐり合いました。そこで、大幅にコストを下げる製造方法ということで、建設プロジェクトが発足し、そのメンバーに任命されました。
プロジェクトでは、プラント建設を世界6カ国に絞り検討を行っていましたが、会社はすでにインドネシアに工場進出していましたので、原料、マネジメント、人脈等の優位性の観点から、既設工場の横に増設プラントを建設することが決定されました。自分がラボ研究していた合成技術を日本で製造プラントとして設計した後、2000年1月からプラント建設の為、インドネシアに渡りました。

現地に入りプラントの建設、試運転の立ち会いをしましたが、日本では考えられないような盗難や粗悪品のトラブルの連続の中、あっという間に2年間が過ぎていきました。今では、グーグルアースでも見ることが出来るプラントを、自分がラボ実験から建設まで携われたことに対し、仕事を与えてくれた大塚化学に大変感謝しています。

この後2002年からは、そのまま工場長として老朽化していた既存工場の立て直しと新プラントの安定稼働に奔走することとなり、更に5年が経っていきました。一般的に製造メーカーの海外赴任は、4〜5年で交代されることが多いので、そろそろ私も帰国かと思っていたところ、経費削減のため、日本人の駐在員を削減するとの意向が本社よりあり、4名いた日本人駐在員を2名に減らされることとなりました。その時点で一番長く駐在していた私が社長として残ることとなり、それまでは、ずっと技術系の仕事をしてきた会社人生でしたが、これを機に会社経営までを見ることとなりました。

その後、2010年までの3年間、日本の本社と現地との間の潤滑油としてそれぞれの意向を調整する日々を過ごし、気が付くとトータル10年と6ヶ月のインドネシア在住となっていました。

インドネシアで勤務するにあたり、困難だったことや気をつけたことなど教えてください。

まず困ったのは、コミュニケーションです。マネージャクラスの大学を卒業した人なら英語を少しは話せるのですが、現場オペレーターは殆ど英語を理解してくれませんでした。そのため、私は全く初めてのインドネシア語を使って、現地の人を指導したり教育したりしなければならず、そのことに大変な時間と労力を使いました。

次に、やはり文化です。特にイスラム教には戸惑いました。協力隊で異文化には少しは慣れていたものの、会社で働く、ましてや部下として現地の人に働いてもらうことになると様々な配慮が必要でした。当初は日本的な指示の仕方をしてしまったこともありトラブルとなることもよくありました。
また、日に5回礼拝に行くため仕事がその都度中断することや、我々日本人の普通と思うことが全く理解されないこと、更に、インドネシア国の法律に納得できないことなど数えきれないほど戸惑いはありましたが、失敗と怒りと絶望と呆れと喜びと笑いと感謝の毎日でした。

その様な中でも、インドネシア人の根底には、意外にも仏教の教えがあることを知り、親近感が生まれたことがありました。その昔、インドネシアには、ヒンドゥ教、イスラム教の伝来の前に仏教が入っていたため、今でもインドネシア語でドヨンゴロン(相互扶助)と呼ばれる精神が根強く残っているのです。
私が、インドネシアにいた時には、アチェの地震、ジョグジャカルタの地震と大きな震災が2度も起こりましたが、その時、社員が率先して少ない収入の中から寄付金を集めて、困っている人を助けたいとすぐに言ってきたのには大変感激しました。

余談ですが、この時集められた寄付金について、アチェの地震の時は、インドネシア政府関係に寄付をしたのですが、その後そのお金がどう使われたのか分からなくなってしまいました。そのため、ジョグジャカルタの地震の時は、社員と会社からの寄付金を足して、現地で手に入りづらい、水や食料・衣服を自分たちで、工場の近くの店でトラックにいっぱい買い出しし、私も数名の従業員と一緒にジョグジャカルタまで持って行ったことがありました。この一件で、従業員と一緒になることが出来たと感じました。

生活する上では、バリ島、ジャカルタのホテル、オーストラリア大使館での爆弾テロ。窃盗団が多く街を普通に歩けないこと、風土病等々、放浪の旅をしていた時には特に気にもしていなかったことですが、日本人駐在員として気が抜けない10年間でした。

インドネシアでの楽しみはどんなことですか?

協力隊の時も放浪の旅をしていた時も同じですが、私は、何でも食べることが出来るので、各地の珍しいものを食べ歩くことが楽しみでした。現地の人がおいしいと思うものをおいしいと思えた時は最高です。屋台でインドネシア独特のいろんなものを食べましたが、屋台で売っている人や食べている人のたくましさを見るのも、楽しい一時でした。

また、いろんな人と出会えたことです。いろんな立場のインドネシアの人をはじめ、日本の企業戦士など本当にさまざまな方と出会うことができました。
中でも一番印象に残っているのは、シンガポールの近くのバタム島で水上ハウスに住む大富豪の華僑の方と、夜遅くまで彼の自慢話を肴に酒を飲まされたことは、大変貴重な経験でした。小学生の頃に親と別れて裸一貫でいろんな商売をはじめ、武器の商売までやったこと、巨万の富を蓄えて今ではインドネシア大統領が家に遊びに来るような大物になったという彼の商売の哲学までも楽しく聞かせてもらいました。

あと、日本でずっと生活していたら多分していなかったと思いますが、インドネシアで始めたゴルフです。ゴルフの後のマッサージも楽しみでした。日本に帰国して何度かゴルフに行きましたが、さすがに大きな出費となるためマッサージまで行くことが出来ないのがちょっと寂しいです。

しかし、やはり何と言っても、日本では味わえないもの、日本と異質なものと出会う醍醐味、それでいて、違う国・環境の中で生まれ育った人同士が“人と人”ということで通じ合えるものを感じる喜び、それが大きな楽しみであり私のエネルギーの源だったような気がします。



>>次回に続く(4月下旬更新予定)

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