私たちにできること−東日本大震災支援−[後編]

【写真】JICA四国 国内協力員 渡辺 香里さん(香川県出身)H15年度1次隊 ヨルダン 音楽
JICA四国 国内協力員 渡辺 香里さん(香川県出身)

震災から1年4カ月−被災地のいま

2012年7月。東日本大震災から1年4か月が過ぎ、日本国内での復興支援ムードも落ち着いたように思うといえば語弊があるでしょうか。すでに「過去の事」として感じている人も少なくないように感じます。目に見える瓦礫が行き場のない場所に集められ、遠いところから見ると、復興したかのような感覚に陥ります。被災地は本当に復興しているのか、被災者がいま抱える問題は何なのか知るべく、昨年お世話になった東北を再訪問してきました。

宮城県石巻市渡波−小さな小学校で起きていること

石巻市立渡波小学校

ボランティアが集まって描いた絵

奥に見えるのは仮設住宅

宮城県石巻市立渡波小学校。昨年炊き出しに行った場所のひとつです。すでに避難所としての役目を終え、その校舎は立て直しの工事を待つ間、ひっそりと静まり返っていました。誰もいない校庭にたたずむと、寒い体育館でたくさんの人が生活していたこと、日本各地から入ったボランティアたちを懐かしく思い出します。

あの時、炊き出しを終え学校を去る時、体育館や教室のベランダからみんなが顔を出し、大声で「ありがとう!」と手を振ってくれ、それに対し私は「必ず戻ってきますから」と叫んだことを思い出しました。あの人たちは今どこでどんな生活を送っているんでしょうか。

渡波小学校に通う子どもたちは、近隣の学校の校庭に仮設校舎を建て、バス通学をしています。もともと幼稚園から中学校までが同じ敷地内にあったその運動場に、渡波小・中が仮設校舎を建てたので、現在は同じ敷地内に5つの学校が併設している状態です。

渡波の子たちは、「間借りさせてもらってる」という負い目を感じ、もともといた子たちは「狭いな」と感じる。校舎は涼しいのに、仮設は暑い。1つしかない体育館で、一日に何度も行われる卒業式。そんな中でイザコザが起こらないはずもなく、誰の責任でもないのに、通常ではない生活にみんなが我慢を感じ、ストレスとなり爆発する。こんな小さな学校で起きていること、同じような問題がたくさんの場所で起きているんだと思います。

宮城県気仙沼市−人々の生活は一瞬にして変わった

協力隊OGの勤務先

ハローワーク気仙沼

気仙沼特産の海産物もスーパーで買えるようになった

香川出身の青年海外協力隊OGが現在、市の嘱託看護師として働いています。派遣国で震災を知った彼女が、帰国後なぜ気仙沼で働くようになったのか、どんな仕事をしているのか、震災後に県外から入った人の思いを聞くために、彼女に会いに行きました。

彼女は看護師として、気仙沼市内の仮設住宅を巡回し、住民の健康相談を行っています。無理を言って仕事に同行させてもらいましたが、仮設住宅一つとっても支援の入り方やコミュニティ形成などにおいて、問題はたくさんあるなぁと感じました。これまで縁もゆかりもなかった気仙沼市に住み、「被災地」で自分ができることに悩み、疑問を抱きながら気仙沼のために一生懸命働いている彼女をとても尊敬します。

私にも何かできることはないかと訪れた一軒の職業紹介所。香川から来たこと、地元の皆さんのご迷惑にならない程度に何かお手伝いできることはないかと尋ねたところ、返ってきた返事は「仕事はたくさんあります」という回答。被災者の就労場所がないんだと思い込んでいた私には驚きの事実でした。

その方がおっしゃられていたのは、震災後、人々の生活は変わった、ということ。失った物の多さ、一瞬にして変わってしまった生活環境はもちろん、次から次へと入る支援の手−どうなれば復興したと言えるのか、誰が言うことが正しいのか、私たち自身はどうなりたいのか?めまぐるしく移りゆく動きに、ついていくことすらままならない状況だと。

気仙沼市のボランティアセンターで、現在募集中のボランティアがあるのか尋ねたところ、週末に団体のみ予約で受け付けているとのこと。予約なしでは仕事もできないボランティア。仕事がないということはいい方向にとらえていいのかな?やっぱり急に行って、1日だけ何かをしようなんて、その調整業務や手間を考えると、迷惑にしかならないのかもしれない。誰のためのボランティア活動なんだろうと、切なく感じました。

宮城県気仙沼市大島−懐かしい顔ぶれ

気仙沼大島は夏空が広がっていた

夏草の中で建物の基礎だけが残る

そんな思いで再訪した気仙沼大島。
島の住民で結成された「おばか隊」は事実上解散し、災害対策本部もボランティア受け入れなどの役目を終え、今は震災後にできた縁を頼りに個人的にボランティアに入っている人たちがほとんど。1年ぶりの懐かしい顔ぶれとお酒を飲んで笑って過ごせる時間−これでいいのかな?と思う気持ちと、これでいいんだな、と思う気持ちと。

海沿いを車で北上する中で見えたものは、リアス式海岸に津波が来たということでした。海面と同じ高さにある場所には何もなく、小高くなっている場所には建物が残っている。よくよく見てみると更地に家の基礎だけが並んでいます。ここに家があった証拠ですが、供えられた花と力強く生える夏草が、あの日あったことを悲しく思い出させます。
そこに家を建て直せない人の悲しみ、残った家からそこを見続ける人の痛み、どちらも忘れることなんて出来ないこの現実と寄り添いながら進まなければならない−そう感じられた風景でした。

岩手県釜石市大平−先生たちとの再会

釜石市立大平中学校

老人福祉施設でのボランティア

大平ソーランを披露

大平の仮設住宅

そして最終目的地の釜石へ−。
半年前に香川に来てくれた釜石市立大平中学校の先生たちと懐かしの再会を果たすことができ、香川での思い出話に花を咲かせながらも、震災当時のことも話してくれた先生。
いま私がいるこの場所に、水が溢れ、ほとんどの建物や車が流されたあの日のこと、翌日からご両親を探すために何キロも歩いたこと、それからずっと続いた避難所生活のこと。色んな思いに涙が止まらず、私は貴重なお話が伺えたことに感謝すると共に、心から一生消えることのないこの痛みを少しでも分かり合える関係を作りたいと、安易な気持ちではなく、そう思いました。

私が大平中学校を訪れたその日は、生徒全員でやっているボランティア活動の日でした。生徒たちはいくつかのチームに分かれ、仮設住宅を訪問します。そこで合唱や大平ソーランなどを披露、またお年寄りの御用聞きなど、人とのふれあいをとても大事にして、住民の皆さんに元気を与える活動を続けていました。

大平中学校はちょうど高台にあり、津波の被害を免れたということがよく分かります。今では近くにたくさんの仮設住宅があり、それぞれの仮設住宅は、建設された時期も業者も異なり、場所はもちろん、中の設備などの違いも様々。どんなのでもいいから入りたいと皆が思っていた時とは変わり、「あっちの方がいい」と思う。いい所は人気があり、仮設住宅から仮設住宅への引越しもある。人間だから、どんなに満たされても欲が出てくるのは当然で、だからそれぞれに対応したケアが必要なんだということは分かるけれど、話を聞いていると本当に小さな問題は山積みで、何から手をつけていいのか分からない、というよりも手をつけれることではないんだと思いました。

東北再訪をふりかえって

「人生、だいじょぶだぁ」七夕に願いをかける

あの時から、すでにキレイ事だけではなくなっている現実が、たまにしか訪れない私にも目に見えました。でもそんな事は震災や被災に関わらず、人として誰もが持つ事実で何が悪いとか良いとか私が言うことではありません。
ただ、震災という自分ではどうしようもない突然の出来事から立ち直り進んでいる人たちに、たくさんの人が手を差し伸べている中、同じことをやっても、やる人、受け取る人、環境など様々な状態によって、その成果なんて図りきれないと思います。私には、「支援」なんて大げさなことは出来ないと情けなく思いますが、せめて皆さんの邪魔にならないよう「寄り添って」いきたいと思います。