「この空とつながっている、あの人のために」 −いつでも医療にアクセスできる環境を!日本でも、アフリカでも−(1)

2010年5月19日

 徳島県にある特定非営利活動法人TICO(ティコ)は、アフリカのザンビアやカンボジアを中心に医療・農村開発などの国際協力活動を行っているNGOです。代表は元青年海外協力隊員である吉田 修さん(1989年〜1991年まで、アフリカのマラウイで医師として活動)。吉田さんが院長を務める「さくら診療所」には、「国際協力を続けたい」という医療関係者が集まってくるようになってきました。

 現在、TICOはJICA草の根技術協力事業(パートナー型)を2案件実施中。また海外での協力活動はもちろん、日本国内においても広報活動や開発教育、国際理解教育、国際教育などを積極的に行っています。

 今回は、JICA草の根技術協力事業としてザンビアで実施しているプロジェクトの専門家として、プロジェクト当初の立ち上げから尽力された医師の田淵 幸一郎さんにお話を伺いました。

Q1:田淵先生は青年海外協力隊(以下、協力隊)に参加されていますが、参加したきっかけについて教えてください。

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配属先へとつながる道

 はっきり覚えていないのですが、たぶん高校生の頃に、青年海外協力隊員の活躍を扱ったテレビ番組を見て、漠然と「将来こんなふうに開発途上国で仕事がしてみたいな」と考えていたのだと思います。具体的にどういう仕事をしてみたいということがあったわけではありません。
 大学進学にあたっても、国際協力はまったく意識せずに、高校時代に化学が好きだったので、もう少し勉強してみたいといった程度の理由で理学部に進みました。あっという間に卒業後の進路を考える時期になり、当時はバブル経済の絶頂期でいくらでも大企業に就職できたにもかかわらず、営利企業で働くことに何となく抵抗があって、研究が特におもしろかったわけでもないのですが、そのまま大学院に残ることにしていました。
 ところがある日、学内で協力隊の募集説明会が開かれていて、それに参加して「あ、こういうことがやりたいと思っていたんだ」と思い出したのです。教授に相談もせずに協力隊に応募しました。応募してしばらく経った卒業式の謝恩会の日。担当教授に「大学院でもよろしくお願いします」と挨拶したのですが、その日、アパートに帰ったら協力隊の合格通知が届いていました(笑)。

Q2:協力隊員として、どちらの国に、どういった活動内容で行かれていたのですか?

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協力隊員として活動していたドンコクロム農業中等学校 Donkorkrom Agric Secondary School

 1990年7月から1992年8月まで、西アフリカのガーナに理科教師という職種で参加しました。ドンコクロムという村の学校で、日本の中学・高校くらいに相当する学年の理科を教えていました。首都からバスを乗り継いで、途中船で湖も渡って、1日がかりでやっとたどりつくような僻地です。もちろん電気も水道もなくて、いわゆる協力隊冥利につきる場所でした。ガーナの隊員の任地の中でも3大僻地のひとつに挙げられていて、現地ガーナにあるJICA事務所の方にも「暮らしているだけで十分だから」と励まされました(笑)。
 学校で唯一の理科教師でしたので、ともかく穴をあけないようにひたすら授業をやっていました。ガーナの学校教育は板書ばかりのことが多いので、なるべく実験実習を多く取り入れる授業をしようと工夫していました。
 仕事を終えて村のバーへ出かけて、地平線に沈む夕日を眺めながら、灯油で動く冷蔵庫で少しだけ冷たくなったビールを飲むのが一番の楽しみでした。休みのときは、日本から持ち込んだ折りたたみ式カヌーで湖を渡ったり、リアカー引いて徒歩旅行したりと、仕事より遊びの方が実は思い出深かったりします。

Q3:隊員活動を終えられて、帰国後の進路についてどのように考えていたのですか?

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協力隊員時代の田淵先生

 ガーナにいた頃は、帰国後は新聞記者になりたいと思っていました。ガーナ隊員が在ガーナ邦人やJICA関係者向けに発行する雑誌の編集長をやったり、自分でも記事を書いたりしていたのが楽しかったです。理系でしたから、自然科学を扱った記事を書くことで、世間に「科学と社会の接点」が作れたらいいなと思っていました。当時はインターネットもない時代でしたが、隊員に配布されていた月刊誌「新聞ダイジェスト」という雑誌に載っている、マスコミ業界受験のための記事を唯一の情報源に勉強していました。実際、帰国後は、いくつか新聞社を受験したのですが、幸か不幸か受かることはありませんでした。
 もちろん、国際協力もおもしろい仕事だと思ってはいましたが、大学新卒で特に専門技術もなく、ひきつづき自分が活躍できる場がイメージできなかったので、帰国後すぐに続けて国際協力の分野で仕事をすることは考えていませんでした。

Q4:それではなぜ、医師になろうと思ったのですか?

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協力隊員時代:村の人たちと

 ガーナに赴任するときはバブルの絶頂だったのですが、帰国してみるとバブルがはじけていました。不景気だからと就職先を妥協するのもいやで、振り返るとモラトリアムの延長なのですが、とりあえず工学部の大学院に進学することにしました。国際協力とも関係のない研究分野で、毎日暗室にこもって、細菌に色々な光を当てるような実験を繰り返していました。やはり、「とりあえず」で始めた研究生活が長く続くわけがなく、暗室の中でガーナの夕日を思い出すようになりました。またアフリカで仕事をしたいけれど、今から手に職をつけるためにはどうしたらいいのかを考えて、「医師になる」というのもまた「思いつき」だったのでしょう。
 大学院を卒業して、無職で受験勉強をするのはさすがに許されませんので、サラリーマンをしながら医学部受験しました。10歳年下の子と競争して、センター試験は高校生のときよりもいい点数が取れましたし、小論文の試験では新聞記者をめざした経験が役に立ちました。どこで過去の経験が役立つかわからないものですね。
 ガーナの学校で教え子がマラリアで突然亡くなったり、といったそれらしいエピソードがないわけではないのですが、実際はもっと現実的な理由が大きかったです。途上国で活躍の場があるのはもちろんのこと、日本で働くにしても選り好みしなければ食いっぱぐれない(まだ「日本の医師の数は足りている」といわれていた頃です)ということです。
 JICA本部にある青年海外協力隊事務局に問い合わせてみると、当時で40人くらい協力隊帰国後に医師になった人がいたそうです。今は医学部の社会人入学がしやすくなっていますので、数百人になっているのではないでしょうか。ところが意外なことに、医師として国際協力の仕事に戻ってくる人にはほとんどお目にかかりません。必ずしも国際協力に戻るために医師をめざす訳ではないのでしょうが、ちょっとさびしい気もします。

Q5:さくら診療所、吉田修先生との出会いは?

 私はアフリカに戻るために医師になろうと思ったので、医学生のときも卒業後に国際協力に携わるにはどういう道があるかを情報収集していました。とあるメーリングリストで「国際協力に関心のある医師/看護師募集」というのを見かけたのがさくら診療所との出会いでした。見学しに行くと、まださくら診療所は開院間もない頃で、TICO代表でもある吉田修先生が一人で外来診療されていました。診察室が2つあるのですが、「一つは空けておくから、医者になったら来てください」と言われたのを覚えています。それが現実になるとはそのときは考えませんでした。TICOの活動はおもしろそうでしたが、なじみのない四国にあるさくら診療所で働くのはまた別の話だと思ったからです。
 医師になってからは特にTICOやさくら診療所ともコンタクトすることもなく、東京で病院勤めや保健所勤務をしながら、アフリカへ戻る助走期間を過ごしていました。「そろそろアフリカかな」と考えていたところで、偶然、吉田先生と再会したのです。吉田先生が東京で、協力隊看護師OG会で講演をされるというのを知って出かけて行きました。

吉田先生:「そろそろザンビアへ行きますか?」
田淵:「はい、行きます。」

即決しました。吉田先生は、私が即決するとは思わず、軽い誘いのつもりだったようですが(笑)。


(注:田淵先生は2010年3月31日までさくら診療所に勤務されていました。現在は関西医科大学にお勤めです。)

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