「人」を通じた援助−「信頼醸成のための農業・農村開発プロジェクト」(ボスニア・ヘルツェゴビナ)−

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大泉泰雅専門家(写真右)。紛争時に破壊された水道がプロジェクトにより15年ぶりに復旧し、喜ぶ地元の女性と

ボスニア・ヘルツェゴビナ東部のスレブレニツァ市で、2006年3月〜2008年3月までJICAが実施したプロジェクト「スレブレニツァ地域の帰還民を含めた住民自立支援計画」は、民族紛争により難民・国内避難民となった人々が再び郷里で生活を始められるよう、農業を通じて住民の経済的自立を促進し、ボスニア系とセルビア系住民の融和のための地域社会を築く支援を行った。

2008年からは実施地域を拡大し「スレブレニツァ地域における信頼醸成のための農業・農村開発プロジェクト」として、2011年までの予定で実施。現在は、スレブレニツァ市12地域において、ハーブ生産・加工、温室野菜、マッシュルーム、イチゴなどの生産や、養蜂、牧草地再生事業などの19事業に加えて、紛争により壊され、15年以上放置されている飲用兼農業用水道の整備なども行う。

「住民から感謝されなければ、そのプロジェクトは成功とはいえない」。この地に住み、二つのプロジェクトに携わる農村開発の専門家、大泉泰雅さんは言う。民族融和を促すプロジェクトが地域の人々にどう受け入れられているのか、また専門家としてどのような点を重視しているかを聞いた。

—最初のプロジェクト、「スレブレニツァ地域の帰還民を含めた住民自立支援計画」の、2006年開始当初の様子を聞かせてください。

スレブレニツァ市は1995年に大虐殺があった場所注1で、支援のため各国ドナー(援助団体)が入ったのが2000年。「ボスニア系住民が被害者でセルビア系住民が加害者」というのは、国際世論が作り上げた構図で、実際はどちらも被害者であり加害者。多くのドナーは、ボスニア系住民が被害者だからと彼らに多く援助し、セルビア系住民への援助は少ないのです。

(注1)旧ユーゴスラビアからの独立に伴い、ボスニア・ヘルツェゴビナでは、1992年にボスニア系、セルビア系、クロアチア系の住民による苛烈な民族紛争が起こった。デイトン合意により紛争は1995年12月に終結したが、直前の1995年7月に、スレブレニツァ市では多くのボスニア系住民がセルビア系の武装勢力によって虐殺された。犠牲者は8,000人以上といわれる。

一般的な紛争ならば、侵攻してきた人間がその土地の人間を攻撃するものですが、この地域ではそれまで一緒に住んでいた人間が殺し合いを始め、皆が逃げた。逃げた人々が郷里に帰ってきたら、「これからは一緒に仲良く住みなさい」とドナーがやってきて、ボスニア系住民にだけ支援した。多くのドナーは相手の意向を確認せずに物資供与だけ行い、その後、技術協力をするドナーもおらず、物資を渡してさようなら。ドナーの人々は現地に入らず、遠隔地から援助するだけだった。私は最初に両地元住民から「ドナーは嫌いだ」と言われ、JICAもドナーなので、支援方法を間違えばこっちに石が飛んでくる、と思いました。

しかしプロジェクトを始めてから、私が専門家としてその土地に住み込んで事業をしたこと、民族に関係なく地域の復興を目的とし、特にボスニア系、セルビア系住民双方に平等な支援をしたことが受け入れられ、「日本人は違うことをやっている」「JICAは他のドナーと違う」という理解が広がり、住民も徐々に受け入れてくれました。

—住民の変化を感じたのはいつごろでしたか。

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生産者のラズベリーとイチゴの産地の視察研修

プロジェクト開始当初は、宗教絡みや民族を意識した嫌がらせが、両民族間でよくありました。例えば、2007年9月に地元住民が待ち望んでいたスケラニ道路の舗装が完成して開通式が行われたとき、セルビア系住民がセルビア正教(キリスト教の一派)の教会行事を開通式に合わせて行い、それを知ったボスニア系住民(イスラム教徒)が嫌悪感を抱き、式典に参加しなかった。合同で開通式を行えば、民族融和のきっかけにもなり得た行事でした。

プロジェクト開始から2年以上が過ぎた頃、目に見えた嫌がらせがなくなってきました。皆がJICAを信用するようになり、私が、彼らが最も話したくない民族融和について話しても聞く耳を持つようになった。しかし、住民の心の中には、お互いの不信感がまだ残っていると思う。現在のプロジェクト実施期間の3年間で、双方の不信感をいかに解消できるか、というのが今のチャレンジです。

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果樹の苗木を持つ子ども。最初のプロジェクトはプラムの植樹から始まった

−現地は自然環境に恵まれ、農業に適した場所だそうですが。

プロジェクト開始前の2005年8月に事前調査に行き、報告書に「こんな自然環境が良いところでなぜ農業支援が必要なのか」と書いたほどに恵まれていた。元来農業を主な産業としていた地域であり、単純な農業の技術協力・移転は必要としていなかったため私の仕事はあまりなさそうでしたが、これは農業というよりむしろ平和構築を目指した技術協力プロジェクトだと言われたので、それならばやってみようと思いました。

プロジェクト開始前に現地に赴き、いくつかの現地NGOを集めてJICAの事業方針を説明し、どういったことを行うべきかを考えるよう課題を与えた。その3、4ヵ月後にそれを吸い上げ、彼らの要望を取り入れてプロジェクトのプランを作り上げました。

−これまでに経験されたプロジェクトの仕事とは大きく異なるものだったのでしょうか。

それまで、私の業務は農業の専門知識だけあれば十分だったのですが、最近では人間の安全保障注2などの基礎知識も必要になっている。たとえば、住民がトマト栽培をやりたいという要望を出してきたら、気候・社会・経済などを合わせて総合的に検討し、実施途中でどのようなことが起こるのかを予想し、加えて受益者の民族バランスを考慮したうえで可能かどうかを判断できなければその分野の専門家とはいえない。作物栽培技術など専門知識だけで技術協力をやれたのは、20年くらい前までです。

専門家としての個々の技術などは、この時代、インターネットでいくらでも身につけられる。これからの専門家は、専門知識や技術のほか、どのように開発するか、民族融和につながるか、事業を通じて住民の意識がどう変化するかなど、全体を見渡す視点が必要になっています。

(注2)「人間の安全保障」とは、紛争や災害、感染症、貧困、教育・保健医療などの社会サービスの欠如など、生活や生存、尊厳を脅かす要因から人々が守られ、人間らしい生活を送ることができる状態。JICAは、開発途上国の政府が人々を脅威から保護し、人々のニーズに応えられるための体制や能力強化にかかる支援や、人々が自ら問題を解決し、生活を改善できるよう、地域社会や人々の能力強化への支援など、その実現に向けた協力を行っている。

−常にそういう視点を持ってこられたのでしょうか。

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トンネルを利用したマッシュルーム生産事業。このトンネルは、民族紛争前に日本の支援で建設されたダムの試掘トンネル

これまで経験したプロジェクトのうち、ネパール以外では業務調整員をしていました。業務調整員はプロジェクト全体を見て、計画が目的にかなっているかを見極めるのが仕事。銭勘定をするだけではない。私は「援助の哲学」と言っているが、青年海外協力隊員だったころから「援助とは何ぞや」を考えながらやってきました。

専門家として、なぜ援助があるかを見極めて、仕事をやっていかねばならない。偶然日本に生まれたから援助する立場にいるんです。もしボスニアに生まれていたら、今ごろは殺されていたかもしれない。何をするときも「これをやったら相手はどう思うか」を考えること。援助をすれば相手が必ず喜んで感謝するだろうと思うかもしれないが、そんなことは絶対ないんです。この姿勢は絶対持たなければいかんと思う。

たとえば、プロジェクトのカウンターパート(相手側機関)などの役人は、JICAの支援に対してお礼を言うが、それは社交辞令。腹を割って話せば、すべての人がそうはいかないと思います。

一方で、プロジェクトの受益者である農家や地域住民が、プロジェクト事務所や自宅まで支援に対するお礼を言いに来てくれたなら、そのプロジェクトは本当に成功だと思う。私はこれまで30年間に八つのプロジェクトを経験しましたが、住民から感謝されたことは2回しかありません。

ボスニア・ヘルツェゴビナのときは、2007年9月末の寒い日に、紛争により養蜂を15年間中断していた農家の男性が、プロジェクトの支援で養蜂を再開できたお礼を事務所まで言いに来た。もう1回は約30年前の協力隊員時代、任期が終わりネパールの任地を離れる前日に、農民が2昼夜かけてヒマラヤ山間を歩いて「こんなのができたよ」と、大根を下宿まで届けてくれた。当然、どのプロジェクトでも努力しましたが、それほど住民から本当に感謝され納得されるプロジェクトをつくることは難しい。

−プロジェクト開始から3年経ち、今はいかがでしょうか。

今では、住民はいつプロジェクトが終わるのかを心配するほどになった。しかし彼らはドナーに頼りすぎているので、今のうちから自分たちでどう生きていくかを考えなければいけない、と話しています。

−さきほど出た「援助の哲学」を具体的に。

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プロジェクトではイチゴを有機栽培しており、今年の春、市場では他の2倍の価格で売れた

支援はとにかく真摯(しんし)にやること。相手の言いなりにやるのではない。ときには相手に厳しくしても、それなりのことをしていれば、相手もついてきてくれる。真剣に話し、怒るときは確実に怒る。しかしきちんとフォローし、サポートをする。

私は「援助は『人』である」と考えています。例えば日本の支援によって橋が完成し、相手国から感謝をされても、すべての人が日本人に対して感謝しているわけではない。もし現場監督の態度が悪ければ、橋の完成に喜んではいても、日本人に対して感謝していないかもしれない。支援の金額の大小にかかわらず、その方法が間違っていれば援助の効果はない、と思います。

たとえプロジェクトが期待した成果を出せなくても、真面目に一生懸命やっていれば住民から感謝の言葉がくる。それがあれば、そのプロジェクトは成功だと言えると思います。もともと、われわれは自然・社会共に過酷な条件の地域で活動しているのです。事業が予定通り進まないことは相手側も分かっています。その環境の中で努力し、熱心に活動を行うことが彼らの心に残る、この成果は物的成果と同じように重要なのです。つまり援助は結果とともに、過程が極めて重要なのです。

<プロフィール>
大泉泰雅(おおいずみ・やすまさ)
1950年、三重県生まれ。1975年に青年海外協力隊員としてネパールに派遣され、1985年までシニア隊員注3、農業普及専門家としてネパールで活動。その後、タイ、フィジー、スリランカ、フィリピン、インドネシアで農業プロジェクトの業務調整員を務める。
2004年、第1回JICA理事長表彰を受賞。「帰還民を含めた住民自立支援プロジェクト」は、2007年、スレブレニツァ市から特別功労表彰を受けた。
(注3) 青年海外協力隊員経験者の専門分野での派遣。2005年10月1日以降、派遣は行われていない。

文責:広報室広報デスク 相原理歩