松岡美幸 連続エッセイ「他民族・多文化国家ブラジル」

職種
日系日本語学校教師
配属先
ブラジル/パルマス日伯文化体育協会日本語学校(パルマス市)
派遣期間
2005年1月〜2007年1月
活動概要
日本人子弟への日本語・情操教育。スポーツを通じた親睦・慈善活動も行なう。

宮城県仙台市出身 日系社会青年ボランティア

エッセイ1 「他民族・多文化国家ブラジル」

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日系人会館でのサッカー大会の様子

「えっ、湯たんぽ?」電話口から、国際協力機構(以下JICAとする)の同期の驚きの声が聞こえてきた。まさかブラジルで湯たんぽを使うことになるとは、想像すらしていなかった。

私は、JICAの日系社会青年ボランティアとして、ブラジルに2年間暮らしていた。私が暮らしたパラナ州パルマスという町は、サンパウロから南西の位置にあり、バスでは13時間程かかる。標高が1,035メートルあり、冬には霜が降りる寒い町だ。外に寝ていた犬の毛がうっすら白くなる日もある。パルマスの人口約4万人の中では、イタリア系移民が多く日系人は約40家族と少ない。その多くは、種芋と林檎栽培をおこない中程度の生計をたてている。

映画館や大型ショッピングセンターがないここパルマスでは、12時を告げる教会の鐘の音を待ちかねたように、学生も勤労者も1時間半の休憩のために自宅へ戻っていく。この間銀行や郵便局、ほとんどの店は閉まってしまうが、家族一緒に昼食をとることに慣れているこの町の人たちにとっては、そのことは、さほど苦ではないように思われる。同じブラジルの町でも高層ビルが林立するサンパウロとは色々な面で異なる点が多い。

若い世代が中心のパルマスの日系人は、ひとつの価値観に固執せずブラジル社会に溶け込み生活している。

ブラジルの伝統的な祭りであり別名「田舎祭り」とも呼ばれている「フェスタ・ジュニーナ」の日には、大人たちは子どもに、つぎはぎだらけのチェックのシャツや麦わら帽子をかぶせ、町の人たちと一緒になって楽しむ。だが、餅つきや厄入り・厄払い、運動会などの日本の行事も今なお大切におこなっている。日系人会館では年に数回ブラジル流にアレンジされた焼きそばを有料で販売し、いつも町の人たちで賑わう。食卓には煮物やのり巻きとともに、フェジョーンやパステーウなどのブラジルの食べ物が違和感なく置いてある。

日系人数が少なく比較的新しい移住地であるパルマスでは、公用語であるポルトガル語を使って生活し、日本語を話す機会はほとんどない。そして2ヶ月に1度遠く離れたサンパウロから、トラックで日本食を積んで来るおじさんを待ち望んでいるような生活のなかでは、日本文化だけに固執していては生活できない。同じ日系人でも暮らしている地域によって生活様式や価値観に違いがあり、そこに世代の違いが加わると、さらに複雑な面が見え隠れしている。

広大な面積をもち、多民族・多文化国家ブラジルは、日本に生まれ育った私に、さまざまな生き方があることを教えてくれた。

自分とは…
自分にとって本当に大切なものとは…

ブラジルは、たくさんの問いを私に投げかけてくれた国でもある。

エッセイ2 「3世代交流から学ぶ子どもたち」

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日系人会館で「子どもの日」を楽しむ様子

「人」という字のごとく、お互い助け合いながらも、もたれ過ぎず逞しく生きている人たち…

私は、国際協力機構(以下JICAとする)の日系社会青年ボランティアとして2年間ブラジルで日本語教師をしながら、そのような人たちに出会った。

来年日本移民100周年を迎えるブラジルでは世界最大の日系人社会がある。その日系人の多くは、長い年月のなかで、日本の風習を大切にしながらもブラジル社会にとけこみ生活している。私が暮らしたパラナ州パルマスの人たちも、生活の中に日本文化とブラジル文化をうまく取り入れながら暮らしている。たくさんの国からの移民を受け入れているブラジルでは、移住当時の日本人が大切にしてきた価値観をそのまま失わず持ち続けていくことは、並大抵のことではない。失われてしまったものもあるだろうが、それは社会に順応する上で仕方のないことなのだろう。

私が暮らしたパルマスの日系人社会でも、ブラジル社会に同化するなかで失ったものが数多くあるに違いない。

しかし、この小さな田舎町には、私が慌しい日本の生活のなかで忘れかけていた大切な生き方が今なお失われずに残っていた。

日系人協会が運営する会館は、3世代がいっしょに交流できる場所である。炊事室があり、その隣は体育館のようになっている会館では、カラオケやバドミントンをする大人たちの脇で、子どもたちはかくれんぼをしている。絵の得意な者は、幼い子どもたちにせがまれ絵を描いている。よちよち歩きの赤ちゃんが転びそうになると、誰というわけではなく自然にみんなが近づいていく。ほどけた靴紐を結んでもらおうと、お年寄りに駆け寄っていく子どもの姿もある。ここにはひとりひとりの居場所があり、誰かのために手を貸すゆとりがある。

子どもたちは生きていく上で大切なものを、3世代が集う日系人会館という場を通じで学んでいるように思う。

「人」にもたれ過ぎたら、倒れてしまう。お互いが適度の力で支えつつ、相手に手を貸すゆとりをもって生きていく姿は美しい。

私は2年間パルマスという町に暮らし、お互い助け合いながらも逞しく生きている人たちに出会い、日本の生活で忘れかけていた大切なものを、思い出すことができた。

エッセイ3 「ブラジルで実感した同郷のよしみ」

ブラジルに着いた日(2005年1月)のことを今でも思い出すことがある。

赴任先はどんなところだろうか…ホテルでの会議を終え、ぼんやりとしていた私の耳に意外な言葉が飛び込んできた。「あなた、宮城県出身なんじゃない?!」これが、県人会の仕事をボランティアで手伝っている加藤節子さんとの初めての出会いだった。

「同郷」という繋がりがもたらす安堵感。日本にいた時には、想像すら出来なかったことだ。話をしているうちに不安な気持ちを隠しきれなくなった私の目には、知らず知らずのうちに涙が浮かんでいた。加藤さんは、そんな私の気持ちを察してくださったのだろう。帰る間際に、「松岡さん!!サンパウロに来た時には県人会に遊びに来なさい。実家だと思っていいんだから。待っているからね」と言ってくださった。

私の派遣先がサンパウロから南西にあるパラナ州パルマスという町で、バスで13時間かかる場所だったこともあり、赴任当初、あの言葉にどれだけ励まされ勇気づけられたことか…その後、ブラジル滞在中の2年間、宮城県人会に度々泊めていただく機会があり、ほとんど知らなかった会の存在について知ることとなった。

県出身者の組織である県人会は、移住者の窓口として置かれた各県単位の県海外協会に対応して設立された。移住者相互の親睦団体として設立された県人会は、ブラジルの現地状況を知らせたり、縁故者の消息を調べることを主な業務としていたが、移住者の激減した1970年代以降は、県費留学生や各種研修生の送り出し、母県からの訪問者の案内、機関誌の発行などをおこなっている。

県人会には、おおらかに、そして豪快に笑う人がたくさんいる。私もそのような方々と一緒に「さんさ時雨」を口ずさんだ。どこの蒲鉾が一番おいしいとか、お正月の雑煮のだしは何が良いとか、同郷の者にしか分からない話で盛り上がった日もあった。県人会の皆さんは、慣れない土地で、口に出せないほどの労苦と辛酸をなめて今日を迎えているはずなのに、いったいこの明るさと、おおらかさは、どこから出てきているのであろうか…異国で立派に暮らしていこうという若き日の誓いが今でも心の奥底にあり、心構えが根っから違うような気がする。

「人種のるつぼ」と言われているほど、たくさんの国からの移民が暮らすブラジル社会のなかでも、日系人の多くは、絶大な信頼と地位を獲得している。多くの2、3世が大学に進学し、ブラジルの南部地方では最大の都市である州都クリチバの市長に日系人が選ばれたこともある。2004年に行われた全国市長・市議会選挙では16名の日系人がサンパウロ州内の市長選で当選・再選を果たしている。

これは、日本人であることを誇りにして日本文化を大切にしてきた人たちの思いが、脈々と続いてきた証しであろう。

「同郷」という繋がりがもたらした人の縁。この出会いを通じて、もっと日本について、そして自分が暮らす地域のことについて知りたくなった。帰国した今、違った角度から自分の周囲にあるさまざまな事を見つめなおすことで、新たな発見があるのではないだろうか…今まで見過ごしてきたすばらしいものが、自分のすぐ近くにあるような気がする。

エッセイ4 「すずめ踊りとブラジル」

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すずめ踊りを初披露

私は、「風土」という言葉が好きだ。風で運ばれてきた種がその土地に根付き、やがて花を咲かせるように、自分も風の人としてブラジルを訪れ、たとえ小さな種でも良いから私に出来る何かを届けたい。そんな思いを持って2年前ブラジルに旅立った思い出がある。スーツケースの中には、日本語教師に関する本の他に、雀踊りの衣装とCD、そして扇子も詰め込んでいた。

お囃子にあわせて踊るすずめ踊りは、小気味良く、サンバの国ブラジルで気に入ってもらえるに違いない。日本にいる時から仲間とともに踊っていた大好きな踊りを、ぜひブラジルに住む人たちとも一緒に踊りたいという思いがあった。

ブラジルには、やぐらを組み、盆踊りを行ってきた日系移住地がある。その踊りの輪の中には、日系人ではない人たちの姿も見られ、盆踊りは今やブラジル社会に深く浸透している。

だが、来年日本移民100周年を迎えるにあたり、移住地の人々は、マンネリ化してきた盆踊りに変わるものを模索していた。このような要望と私の思いが重なり、すずめ踊りを伝える場を与えていただいた。夏休みや休日を利用してバスを乗り継ぎ、国際協力機構(以下JICAとする)の同期が暮らす15時間ぐらい離れた町に行ったこともあった。ブラジルで生まれ育った人たちが、見たこともない踊りを一緒に踊ってくれるだろうか…気に入ってもらえるに違いないという思いはあっても、バスの中で多少の不安がよぎる日もあった。

汗をかきながら共に練習を重ねるうちに、人々の表情が変わる瞬間がある。踊りを受け入れてくれた瞬間だ。この時を境としてますます練習に熱が入る。何度も繰り返し練習をして一体感が生まれる。

サンパウロの東洋人街リベルダーデ商工会の人たちは、毎月行われる祭りの席ですずめ踊りを広めてくれている。現在もブラジルで活動をしているJICA青年ボランティアのメールには、赴任先でそこに暮らす人たちと楽しく踊っている様子が書かれてあった。

私は、大好きなすずめ踊りを通じて異国にたくさんの友を得ることが出来た。地球の反対側に、一緒に汗をかき、お囃子の音にあわせて踊ったたくさんの仲間がいる。日本に帰国した今、今度は日本を訪れる「風の人」たちとの出会いを大切にし、この地に捲かれる種を共に育てていきたい。

エッセイ5 「異国に定着した七夕祭り」

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サンパウロ宮城仙台七夕祭

「ブラジルに暮らしてみたい」

漠然と持ち続けてきた思いは、大好きだった祖母との思い出から生まれたのだと思う。

祖母は、仙台で古くから料亭を経営していた。一年のうちで店が最も活気づくのは、お相撲さんや歌舞伎役者が出入りする七夕の時期だった。祖母と一緒に夜遅くまで吹流しやくすだまを作った記憶が今でも残っている。その七夕が、遠く離れたブラジルの地で開催されていることを知り、私のブラジルに対する興味はだんだんと強まっていった。

サンパウロ宮城仙台七夕祭は、1979年よりサンパウロ市中心部のリベルダーデ地区を中心に毎年開催されている。そして現在では、ブラジル各都市にも広がりをみせる祭りとなった。リベルダーデ地区での七夕には、たくさんの屋台が並ぶ。てんぷらうどんや、お汁粉もある。ブラジル流にアレンジされた日系人が作る焼きそばは好評で、それを目当てにやってくる人も多い。日本の新書は高価なため、古本市を楽しみにしている人もいる。

私は、当日短冊売りのお手伝いをすることになった。

色の異なる短冊を真剣に選ぶ人たち…ある人は平和を願う白を、ある人は恋愛成就を願う桃色の短冊を選んだ。そしてそれぞれの願いを書きこみ、あしばやに笹の葉の方へ去って行った。願いを込める姿には、人種の違いは感じられない。

遠いブラジルの地に七夕祭りを根付かせるために、たくさんの人たちの目に見えない苦労があったと聞いている。資金的なこと、竹の調達、短冊の準備…どれも並大抵の努力では出来なかったに違いない。

異国に暮らす人たちと、日本に暮らす人たちのふるさとを思う気持ちが一つになり、多くの困難を克服したのだろう。私は風になびく色とりどりの短冊を見ながら、目に見えない強い絆を感じずにはいられなかった。

ひとつの祭りが、異なる国で暮らす人々の心をつなぎ、そして現在、多種多様な文化が混ざり合ったブラジルに定着し、ブラジルに暮らす人々の心をつないでいる。

幼い頃から毎年眺めていた七夕祭り。

ブラジルから帰った今年は、新鮮な気持ちで七夕をみることが出来るような気がする。

エッセイ6 「移民100周年とブラジル」

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綱引きでワッショイ!

「先生、どうして日本の中学校ではピアスがだめなの?」

ある時、教え子である日本語学校の生徒の一人が、日本に暮らす友達の手紙の内容に驚き質問してきた。ブラジルでは、赤ちゃんが女の子ならば、生後間もなくピアスをあけている。ブラジルの学校にピアスをしていっても怒られることはまずない。ブラジルで生まれ育った彼女にとって、日本の学校でピアスが禁じられていることが信じられず驚いたのであろう。

ブラジルと日本の文化の違いは大きい。

だが、その違いを認めつつブラジル社会に溶け込み、日本文化を大切にしながら暮らしている人たちがたくさんいる。そのような人たちの中には、自分たちが大切にしてきた日本文化を、教育を通じて伝えていこうと頑張っている人たちもいる。

中南米をはじめ日系社会を中心に行われている日本語教育は、日系子弟のアイデンティティーの形成を意図した子弟教育の一環として、日本語のみならずその背景にある日本文化の継承をも目的としておこなわれている。そのため日本語学校の多くは、運動会や学芸会も行っている。また、多くの教師が生徒の日本語能力と文化理解を高めたいという思いをもって、朗読大会やスピーチコンテストへの参加に対し熱心に指導を行っている。私も国際協力機構(以下JICAとする)の日系社会青年ボランティアとして日本語教育に関わるなかで、生徒をこれらの大会に積極的に参加させていた。桜や四季の移り変わりを扱った内容の時には、写真を見せたり一緒に歌を歌ったりしながらイメージを膨らませて大会にのぞんだこともあった。

来年は日本移民100周年にあたる。1908年の笠戸丸移民を皮切りに、多くの日本人が海を渡り、ブラジルに最大の日系人社会を築き上げた。その後、日本の経済成長とともに移民の数は減少し、逆にブラジルから日本へやってくる人たちの数が増えている。このような状況のなかで、いろいろな問題が挙げられているのは周知のとおりである。

これらの問題を考えると、私はかけっこや綱引きを一緒におこなった子どもたちの顔を思い出す。遠い異国に暮らしながら日本を思い、子どもたちの教育に力を注いでいる人たち、そして「なぜピアスがだめなの?」と不思議そうに語った生徒の顔も浮かんでくる。

文化の違いを理解しようと努力する前に、自分の小さな価値観で判断し、お互い傷つけあうこともあるのではないだろうか。伝えることで、ほんの少しでも何かが変わるなら…伝えたい。

私は、この2年間ブラジルで暮らし経験したことをありのまま、これからも自分の言葉で伝えていきたいと思っている。

エッセイ7 「すずめ踊り 新たな縁に」
(平成19年6月3日 河北新報朝刊「持論時論」掲載)

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みんなで折り紙!「鶴で国旗を作ろう」

ブラジルでは来年、日本人移民百周年という節目の年を迎える。1908(明治41)年の移民船「笠戸丸」での移住以来、多くの日本人が海を渡り、ブラジルへ向かった。そして現在では、世界最大の日系人社会が存在するといわれている。私は、独立行政法人国際協力機構(JICA)の日系社会青年ボランティアとして、2005年1月から2007年1月までの二年間、ブラジルに赴き、日系人社会の中で日本語学校の教師をしていた。

日系人の多くは、多民族・多文化国家ブラジルの社会に溶け込みながらも、今なお日本の風習を大切にしながら暮らしている。そのため、日系人移住地の中には、運動会や盆踊りを行っているところもある。JICAの同期の仲間が暮らしていたサンパウロ州インダイアツーバ市では、日本と同様のやぐらを組み、盆踊りを盛大に行っていた。踊りの輪の中には、毎年盆踊りが行われるのを楽しみにしているという日系人以外の人たちの姿も多く見られ、盆踊りがそこに暮らす人たちの中にすっかり定着していることを感じさせた。

しかし、来年の日本人移民百周年を迎えるに当たって、ほかの日系人移住地では、少々マンネリ化してきた盆踊りに変わる踊りを模索する動きも出てきている。

私は、日本で仲間と踊っていた大好きなすずめ踊りを、ブラジルに暮らす人たちと一緒に踊ってみたいと思い、すずめ踊りの衣装やCD、扇子をスーツケースに詰め込み持参していた。お囃子(はやし)に合わせた小気味良いリズムのすずめ踊りは、サンバの国ブラジルでも気に入ってもらえるに違いないという思いがあった。

このような二つの思いが重なり、赴任中、ブラジル各地ですずめ踊りを伝えることができた。夏休みや休日を利用してバスを乗り継ぎ、15時間ぐらい離れたJICAの同期が暮らす町に行ったこともある。

汗を流しながら共に練習を重ねるうちに、人々の表情が一変するときがあった。すずめ踊りを受け入れてくれた瞬間だ。このときを境としてすずめ踊りの普及にますます熱が入り、その後何度も繰り返し練習をしてブラジルに暮らす人たちとの一体感が生まれた。

日本からブラジルに移住してきた当初は、多くの人たちが慣れない土地で、筆舌に尽くせないほどの労苦と辛酸をなめてきたと聞いている。だが、私が出会った日系人の多くは、おおらかで明るく、ブラジル社会の中で絶大な信頼と尊敬を得て暮らしている。彼らが宮城県の人たちと力を合わせて、1979年に開催したサンパウロ宮城仙台七夕祭りが大成功を収めた。仙台七夕祭りは現地の人たちを魅了し、今ではブラジル各都市に広がりを見せるまでになった。

日本人移民百周年となるのを記念して、仙臺(せんだい)すずめ踊り連盟が来年、踊り手の派遣に協力する予定であることなどを考えると、仙台七夕祭り同様、すずめ踊りも近い将来、必ずやブラジルに定着していくと確信している。来年は、宮城県に暮らす人たちにとっても、ブラジルとの新たな関係が始まる画期的な年になるのではないだろうか。言葉を越えたつながりが生まれていくに違いない。

地球の反対側にある南米の国ブラジルで、まだ出会ったことがない大勢の仲間たちが私たちを待っているような気がする。(投稿)