2019年12月4日
2019年のノーベル経済学賞を受賞したのは、米マサチューセッツ工科大学(MIT)のアビジット・バナジー教授とエステール・デュフロ教授、米ハーバード大学のマイケル・クレマー教授の3名です。受賞理由は、バナジー教授らが、途上国での貧困解消に向けた効果的な政策を確かめるため、フィールド実験に基づいた革新的な研究を実施したことです。
JICAは教育開発プロジェクト「みんなの学校」などで、このフィールド実験を活用したプロジェクト評価(インパクト評価)を行い、その結果を生かし子どもたちの学力向上といった成果が生まれています。
今回の受賞を機に、JICAが具体的に現場でどのような政策にこのフィールド実験を活用し、成果を上げているのか、人間開発部基礎教育第二チームの小塚英治課長(JICA研究所上席研究員)に聞きました。
このフィールド実験とは、ランダム化比較試験(Randomized Controlled Trial: RCT)(注1)という手法を用いて、特定の政策の効果を科学的に測定するものです。
注1
RCTとは、ある政策の対象となる集団と対象とならない集団を無作為(ランダム)に選んで結果を比較し、政策の効果を検証する実験のこと。
我々が「効果がある」と信じている政策について、途上国でフィールド実験を用いて分析すると、必ずしも効果がないという結論が出ることが少なくありません。例えば教育分野では、学校に補助金や教科書・教材を供与する政策がよくみられますが、フィールド実験の結果、補助金や教科書・教材の供与だけでは基礎学力向上に効果がなく、教員研修など追加的な介入が必要であることがわかっています。
バナジー教授とデュフロ教授らがMITに設立したアブドゥル・ラティフ・ジャミール貧困アクション・ラボ(J-PAL)には、世界の著名な開発経済学者が集まり、科学的なエビデンス(根拠)に基づいた政策形成・実践を推進し、現実の開発政策にも大きな影響を与えています。
「みんなの学校」とは、コミュニティと学校が協働して子どもの学習環境を改善する住民参加型プロジェクトで、2004年にニジェールで始まり、2018年末現在、セネガル、マリ、ブルキナファソ、コートジボワール、マダガスカル、ガーナのアフリカ7ヵ国、約4万5000校で実施されています。
2008年にJICA研究所が設立された際、東京大学の澤田康幸教授(JICA元客員研究員)が研究代表者となりブルキナファソの「みんなの学校」の基礎モデル(注2)を対象に、RCTに基づくフィールド実験を開始しました。その結果、児童の就学率や教員の出勤率が向上したことに加えて、コミュニティと学校間の信頼関係が向上したことなどがわかっています。
注2
基礎モデルでは、コミュニティが選挙で学校運営委員会の中心メンバーを選び、その委員会が中心となって、コミュニティが学校を取り巻く課題を理解し、学校と一体となってその課題解決のための活動を実施する
2012年には、ニジェールでみんなの学校の応用モデル(注3)を対象としたフィールド実験を開始しました。このモデルでは学校運営委員会に対する補助金供与や能力強化研修(児童の学力試験結果をコミュニティに共有することの重要性や、教育の質改善に必要な方法を学ぶもの)を実施しました。実験の結果、補助金供与だけでは児童のテストスコアは改善しなかったのですが、能力強化研修により児童のテストスコアが大幅に向上することがわかりました。
注3
応用モデルとは、基礎モデルに学力改善や栄養改善などの取り組みを加えたもの
児童の基礎学力向上のため、みんなの学校では、バナジー教授らがこれまでのフィールド実験で得たエビデンスの「活用」にも取り組んでいます。具体的には、彼らが研究対象としてきたインドのNGOプラサムと連携し、Teaching at the Right Level(TaRL)というアプローチを、みんなの学校に取り入れています。
TaRLとは、公立の一般的な学校教育の方法と異なり、年齢別ではなく子どもの習熟度別にクラスを分けて教育を行う手法です。バナジー教授らはプラサムと連携してさまざまなフィールド実験を行い、その中でTaRLが子どもの読み書きスキルの向上に非常に効果が高いことを実証しました。
みんなの学校の専門家はこのTaRLのアプローチをプロジェクトに組み込む取り組みを行っています。マダガスカル1,650校18万人、ニジェール101校1万人の子どもを対象に試行したところ、子どもの平均点が大幅に上昇したことがわかり、今後もモデルの改善を進めていく予定です。
みんなの学校が、なぜ途上国の教育現場で成果を上げているのか、その理由の一つが学校とコミュニティの信頼関係を強化するアプローチだからです。
教育開発の国際的な議論では、コミュニティが学校を監視するアプローチの方が学力向上に効果的だという意見もあります。途上国では学校に来ない教員が多く、短期の契約で教員を雇用しモニタリングする方が、教員にインセンティブを与えられるという研究があるためです。しかし、このアプローチでは学校とコミュニティの対立を生み、教員組合の反発を全国規模で受けることもあります。
一方、「みんなの学校」は、コミュニティが学校を監視するのではなく、学校を支援する取り組みです。プラサムとの連携で開発した学習改善アプローチで、さらに子どもの基礎学力を向上させられるのか、その効果は中長期的に持続するのかという点は今後検証する必要がありますが、大きなポテンシャルを秘めていると考えています。
最低限の読解力や算数のスキルを習得できていない子どもは、世界全体で6割、アフリカでは9割近くに上るとされ、「学びの危機(Learning Crisis)」と呼ばれています。驚くべき数字ですが、教員が学校に来ない、子どもが教員の言葉を理解できない、学校に教科書も教室もないなど、日本では当たり前の条件がほとんど揃っていない途上国の現場を見れば、容易に解決できない問題であることがわかります。
この問題を解決するために、国際社会は資金の動員を呼びかけていますが、資金を有効に活用する政策がなければ資金が無駄になります。教育分野では世界で数多くのフィールド実験が実施され、エビデンスがどんどん蓄積されていますので、国際社会が協力してエビデンスに基づいた政策を実施していくことが重要だと思います。
JICAとしても、さまざまなエビデンスを適切に取り入れてプロジェクトの内容を改善するとともに、それを世界に発信していきたいと思います。基礎教育分野では、みんなの学校だけでなく、エチオピアで教員研修、エルサルバドルで教科書開発を対象としたフィールド実験も実施しています。
より大きなインパクトを生み出すためには、パートナー機関との連携も重要です。JICAは、2018年6月にJ-PAL及びプラサム、2019年8月に世界銀行と基礎教育分野で業務協力協定を締結し、プロジェクトや研究などにおいて連携を強化することに合意しました。一人でも多くの子どもたちが「学びの危機」から脱却できるように、我々も途上国やパートナー機関とともに、できる限りの貢献をしていきたいと考えています。