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【阪神・淡路大震災から25年】受け継がれる災害医療支援のノウハウ:海外から国内へ、日本から世界へ——災害派遣医療チーム(DMAT)の誕生 (前編)

2020年1月9日

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(左)日本国内の災害緊急医療に対応する災害派遣医療チーム(DMAT)
(右)海外の災害医療支援に活躍する国際緊急援助隊(JDR)

未曽有の都市直下型地震だった阪神・淡路大震災から今年で25年が経ちます。近年、台風などの自然災害が多発するなか、日本の災害派遣医療チームDMAT(Disaster Medical Assistance Team)の名前が広く知れ渡るようになりましたが、このDMATが、阪神・淡路大震災をきっかけとして生まれたことはあまり知られていません。

そして、DMATの発足にあたり、支援のあり方についてモデルとなったのが、JICAに事務局があり、当時すでに国外で活動していた国際緊急援助隊(JDR:Japan Disaster Relief Team)の知見でした。現在、DMATとJDRは、ともに所属する医療関係者も多く、国内での災害医療支援のノウハウが海外に、そして海外での経験も国内に活かされています。

阪神・淡路大震災から25年、DMATとJDRの2つの組織に長く深い関わりを持つ、小井土雄一医師(東京都立川市・災害医療センター)と冨岡譲二医師(鹿児島市・米盛病院)に伺いながら、日本の災害医療支援が歩んできた道のりをたどります。

災害現場に駆けつけて救急治療を行うDMAT

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東日本大震災の際に自衛隊機で宮城県に駆けつけたDMAT

DMATとは大規模な災害や事故現場に派遣されて救急治療を行う医療チームで、近年はメディアで取り上げられる機会も多く、その姿を目にすることも増えています。チームは医師、看護師、業務調整員を基本とする4~5名で編成され、全国に1,686チーム、14,204名の登録隊員がいます(2019年3月末現在)。

「2018年には大阪北部地震や西日本豪雨、北海道胆振東部地震など、2019年は九州北部豪雨災害をはじめ、台風15号と19号などでDMATが出動しています。15号では約100チーム、19号では約260チームを派遣し、断水や停電した病院の支援や、入院患者さんの避難搬送などの活動にあたりました」と現在、DMAT事務局長を務める小井土雄一医師は語ります。

「なぜ、このDMAT発足のきっかけが、阪神・淡路大震災だったのか——。それは、日本では1000人を超える命が失われるような大災害は、1959年の伊勢湾台風以来、阪神・淡路大震災まで発生しておらず、国内での災害緊急援助の必要性について積極的に論議されることがあまりなかったからです」

小井土医師は25年前を振り返ります。

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日本の災害医療の死者数
伊勢湾台風(1959年)以降、大きな災害に見舞われることなく平穏な期間が続きました。しかし、1993年の北海道南西沖地震、そして1995年に阪神・淡路大震災の発生により、災害医療の必要性が議論されるようになったのです

※1 平成7年死者のうち、阪神・淡路大震災の死者については、いわゆる関連死919人を含む(兵庫県資料)
※2 平成31年3月1日現在。平成30年の死者・行方不明者は内閣府取りまとめによる速報値
出典:昭和20年は主な災害による死者・行方不明者(理科年表による)。昭和21~27年は日本気象災害年報、昭和28年~37年は警察庁資料、昭和38年以降は消防庁資料をもとに内閣府作成

未曽有の大震災が発生 JDRに協力要請が 

1995年1月17日、まだ夜も明けきらない午前5時46分、淡路島北部を震源とするマグニチュード7.3の阪神・淡路大震災が発生。神戸市を中心とする被災地では高速道路やビルが倒壊し、神戸市長田区では大規模な火災が容赦なく人々を襲いました。

通信や電気、水道から道路に至るまで生活インフラがことごとく寸断されたばかりでなく、病院や診療所も甚大な被害を受け、さらには多くの医師や看護師、救急隊員や消防士らも被災者となってしまったのです。

「当時、日本には、1979年のカンボジア難民の医療支援から連綿と続く国際救急医療チーム(JMTDR:Japan Medical Team for Disaster Relief、現在のJDR医療チーム)がありましたが、JMTDRはあくまで国外で活動する医療チームであり、法律上、国内では活動できなかったのです。しかし、未曽有の大震災発生を目の当たりに、発災直後から現地で医療活動に従事した関係者の中には、このJMTDR登録者も多数含まれていましたし、情報がほとんど届かなかったとはいえ、首都圏や関西・近畿地方などから自らの意志ですぐに神戸へと向かった医師や看護師たちが多くいたのです」と語る小井土医師は前JDR医療チーム支援委員長。1994年、インドネシア・メラビ山噴火の際に熱傷治療の専門家としてJDRチームに参加していました。

事態の深刻さから、発災2週間後、当時の村山富市首相よりJICAに対してJMTDRへの協力要請が入りました。それまであり得なかった出来事でした。それを受け、JMTDRは訓練の一環として支援活動を実施。登録医師や看護師など延べ31名が3班交代制で、2月4日~20日の期間、東灘区の神戸市立御影小学校を拠点として診療活動を行ったのです。

しかし、未曽有の大都市直下型地震は、後に「防ぎえた災害死」が多数あったであろうことも判明します。防ぎえた災害死とは、平常時なら実施されるはずの適切な急性期治療が行えなかったために亡くなること。その数は少なくとも500名と推計されています。

そんな現状から、国内で活動できる災害派遣医療チームの必要性が明らかになったのでした。

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JDRを土台にしてDMATが誕生 

「あの日から、すべてが変わりました。大規模災害時の国や地方自治体の危機管理体制や国内災害医療システムの構築が喫緊の課題となったのです。つまりは、日本の災害医療の大きな転換点となったともいえるのです」と小井土医師は言います。

厚生労働省は即座に有識者会議を設置。また、災害医療の国内学会として、同じ年に日本集団災害医療研究会(現「日本災害医学会」)が発足しました。こうした流れの中、国立病院機構災害医療センターの辺見弘先生らの尽力があって、国内初の災害派遣医療チーム東京DMATが2004年に、2005年には全国の都道府県で日本DMATが創設されました。

DMAT設立の中核を担ったキーパーソンにはすでに長年にわたりJDRに携わってきた医師や専門家たちが大勢おり、初期のDMAT人材育成にもJDRの研修プログラムが活用されるなどしました。

「つまり、阪神・淡路大震災の教訓から生まれたDMAT(日本国内向け)は、いわばJDRを土台にして作られたといっても過言ではありません」

小井土医師は言葉に力を込めます。そして、DMATとJDRはお互いに 知見を共有しながら、災害緊急援助体制の強化を図っていくようになったのです。

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(左)2015年のネパール地震の被災地で診療用の十字テントを設営するJDR医療チーム隊員ら
(右)十字テント内での手術の様子。JDRの医療チームは、WHOから「外来患者への初期医療や巡回診療」を行えるタイプ1と、「手術および入院機能」をもつタイプ2、さらには「透析、外科」を備えるスペシャリストセルという複数の能力を有するチームとして認証を受けています

(※以下後編に続きます)