ンボテ★アフリカ、トポ・ナ・コンゴ!

−飯村学JICA職員−

2013年6月14日

♪マルゲリーテ、俺(おれ)の妹。お前は川の岸辺に。俺はその対岸に。俺のケータイはヴォーダコム、お前はセルテル。いまいましい川が二人を隔てる――。

【画像】

アフリカ大陸で2番目の長さを誇るコンゴ川(4,700キロメートル)。日本で一番長い信濃川は367キロメートル

コンゴ民主共和国出身のアーティスト、スタッフ・ベンダ・ビリリ(注1)が歌う「マルゲリーテ」の一節。川向こうの別の国に住む妹を思った歌だ。「コンゴ川を挟んで国が隣り合っている。こちらのコンゴ民主共和国の首都キンシャサから、向こう岸のコンゴ共和国の首都プラザビルまでは、フェリーに乗れば15分。なのに出国に2時間、入国に1時間、官憲のたかりと嫌がらせつき。携帯のローミングがうまくいかずにつながらなかったり、通話料金が高くてロクに話もできなかったり。プラザビルでは平和にタクシーが走り、人も穏やかなのに、キンシャサときたらこのありさまで、というニュアンスを含んだ歌なんですよ」。そう教えてくれたのは、アフリカ部に所属するJICA職員、飯村学(つとむ)(44歳、東京都出身)だ。

カバン一つで事務所を開設

最西部バ・コンゴ州のマタディ空港。滑走路というよりは草サッカー場

時は2007年4月、飯村は、カバン一つでコンゴ民主共和国(以後、コンゴ)の首都キンシャサに降り立った。混沌(とん)と喧(けん)騒の中で、がらんどうの事務所を電球1個から仕立てていく仕事に着手した。この街では、基本、前払いをしなければ商品は手に入らない。でも、いったん払ったら商品を持ってこない。どうやって納品させるかが腕の見せどころ。飯村に課せられたミッションは、支離滅裂の中でゼロから事務所を開設し、事業が展開できるような体制を整えること。そして新規に事業を立ち上げ、軌道に乗せること。同国は、一連の民主化のプロセスを終えていたが、前月には、街中で銃撃戦が繰り広げられ、多くの死者が出たばかり。蜂の巣のような銃痕をあちらこちらに残すキンシャサで、早期に事業を始めるための基盤整備は最優先事項だった(注2)。

世界中のアフリカ・スペシャリストに「難攻不落」といわしめ、強烈な個性と魅力を放ち続ける国、コンゴ。アフリカの中部に位置し、日本が6個すっぽり入るほどの広大な国土を持ち(注3)、アフリカで唯一、国内に時差がある。そんな国土に昔から固定電話網がない。広大なジャングルの中に州都が点在しているが、地図上あるように書かれている道路がない。未舗装の道は雨が降ると川のようになって移動を阻む。灼(しゃく)熱の太陽と赤道直下の激しい降雨が植物相を育て道を寸断する。大きく弧を描いて流れるコンゴ川の航行は重要な輸送交通手段だが、いつどこにたどりつけるのか定かではない。残された交通手段は今にも落ちそうな飛行機。通信手段も、当時はまだまだ不安定だった携帯電話に頼らざるを得なかった。

けもの道のその先に

劣化が進むキンシャサの道路。ひとたび雨が降れば川となる

現地スタッフもいない、コンゴ政府による承認もない、ゼロの状態から事務所の立ち上げはスタートした。まずは物件。市内中心部の未舗装道のその先に、建築中のアパートを発見。この物件、裏手が「けもの道」に接続しており、たどっていくと日本大使の公邸につながっている。建物は、3ヵ月に一度といわれる銃撃戦が起こっても、公邸に裏道から逃げこむことができるという、当時としては願ってもない「好立地」にあった。アパートは完成前だったが、キンシャサに選択肢はそう多くないため、現地判断で契約交渉を先行した。

サービス皆無、料金割高と、絵に描いたようなアウェー感の漂う国営ホテルに滞在しながら発見した、建築中の事務所

2007年当時、政府はできたばかりでとても機能しているとはいえない状況だった。通常のアフリカの国であれば、高官、特に次官や局長あたりと話をすることで物事は進むものだが、当時のコンゴでは、大臣と話さなければ何一つ決まらない。ところが、固定電話もなく、現地の人脈形成もこれからの状態では、お目当ての大臣に会うために、何日も「待ち伏せ」するしかなかった。これまでフランス語圏のアフリカ諸国で多くの仕事をしてきたが、こんな経験は初めてだった。「コンゴは、この3、4年でインフラ整備も進み、すっかり見違えるようになりました。でも、当時はうまくいくことが何一つないような日々。分泌されるアドレナリンがエネルギーとなり、飛び回っていたという感じでしたね」

こうしてJICAのコンゴ民主共和国事務所は2007年8月に開設。新たに雇用した現地スタッフと共に、事務所の灯をともした。その後2年半、初代所長として「平和の定着」「経済開発」「社会サービスへのアクセス改善」を柱とした復興支援に携わった。同国での数々のミッションは困難を極めたであろうことが容易に想像できるが、それを語るときの飯村の瞳はキラキラと輝き、水を得た魚のように生き生きとしている。それもそのはず、この地は、長旅の末、ついにたどり着いた飯村にとっての「約束の地」だったからだ。

変革!採用のおにいさん

マリ西部で住人と対話(手前左)

コンゴへ赴任する前は、西アフリカのセネガル事務所に2年半ほど勤務し、その中で西アフリカの政情・治安を広域的に見る機会に恵まれた。アフリカの多くの国で、民主化や紛争の問題が継続していた当時、「半分趣味」の、政治、治安、歴史などのコンテクスト(背景)にどっぷりと浸り、自身の「アフリカ萌え」の原点にもなった。

それ以前の4年間は、人事部で「採用のおにいさん」を務めた。一般企業と肩を並べ、50万人の学生から優秀な人材を確保する、市場での真剣勝負だ。確保した人材の質・量と、学生による人気ランキングを数値目標として、「カタい」といわれていたJICAの採用システムを一新。「1対2,000の大規模説明会を1回」から「1対100の説明会を20回」へ、説明なしで職員との生の対話だけをコンテンツとした「じゃいカフェ」の開催、コンテンツを充実させたニュースメール「じゃいナビ」の配信と、応募者の徹底フォロー、採用市場への「マーケット・イン」など、数々の変革をもたらした。

ゴラン高原でばったり

飯村は1994年に社会人採用でJICAに入るまで、自衛官としてミサイル部隊に所属。当時、JICA唯一の自衛隊出身者だった。

転職後の最初のポストを勤め終えた1995年、総理府(現内閣府)国際平和協力本部事務所に出向した。陸・海・空の自衛官や、警察・海上保安庁と席を並べ、PKOや人道救援活動の派遣、法律・制度の運用などに携わった。当時は、シリアとイスラエルの間に位置するゴラン高原に展開する「国連兵力引き離し監視隊(UNDOF)」への自衛隊の派遣、戦争状態となったザイール(現コンゴ)からルワンダへ難民が一斉に帰還する際の人道支援などが大きなテーマだった。「出張で訪れたゴラン高原では、偶然、学生時代にずいぶんしごいた後輩とずいぶんしごかれた先輩が私をお出迎え。世の中って小さいなと思いました」

人生の転機――自衛隊との出会い

思い起こせば、高校を卒業してふらふらしていた夏の終わり、路上で「キミ、自衛隊に入らないか、どうせなら防衛大学校も受けてみないか」と強く勧められた。国土防衛の志などなかったが、このまま流浪していても始まらないので、受験をすることに。一次試験は二日にわたる筆記試験だったが、二日目にはさっぱりわからず戦意喪失。しかし辛くも一次試験を通過した。その後の二次試験は、身体測定。文系でも理系でもなく「体育会系」を自認するだけあって、あっさり突破。今日のルーツとなる、それはそれは厳しく、外界から隔離された4年間が始まることになる。

防衛大学校のカリキュラムは、一般大学と同様の教育課程に、戦史や戦略論などの「防衛学」、実際の自衛官として必要な基礎知識や行動様式、指揮官としての心構えを身につける「訓練」から成る。飯村は在校中に受けた「軍事戦略論」や「現代戦史」の講義にひどく好奇心を駆り立てられた。中でも「アルジェリアの独立」「中央アフリカのボカサ皇帝」「ザイールのモブツ独裁」など、アフリカの事例が強烈な印象として残った。講義の中で見え隠れするのが「フランス外人部隊」。飯村は、歴史がつくられる、最前線の現場に立つ彼らの存在に影響を受け、アフリカの地にあこがれる。それがフランス語をまじめに勉強し始めたきっかけでもある。

モノレールで拾った運命

航空団での訓練

2年生になると、陸・海・空のいずれかに進路を選択するのだが、視力が抜群で、身体も「航空適性合格」と判断され、航空要員に割り当てられる。パイロットとして戦闘機乗りになる道筋だったが、多くの人と働く環境の方が自分に合っていると感じ、部隊での勤務を希望。結果、空飛ぶ自衛隊ではなく、地を這(は)うミサイル部隊に配属された。

この部隊は、北海道の広い草原と牧場に囲まれた、のどかな田舎に駐屯。対領空侵犯のための24時間警戒監視と機動展開を任務とする部隊で、休みの日でもそうそう田舎町を離れられない環境にあった。ミサイルの運用、訓練、部隊での共同作業など、つらくともモチベーションのわく業務だったが、当時はインターネットも携帯電話も普及しておらず、情報から遮断された環境に危機感を覚えた。

戦闘訓練の合間に

このころ、国際情勢と日本の貢献の在り方にも変化が訪れる。大学時代に遭遇した湾岸戦争では、自衛隊が国際貢献に携わることは許されていなかったが、やがて、国連PKO参加の道が開かれていく。また、1993年7月には北海道南西沖地震が起こり、所属部隊も大きな被害を受けた。これらがキャリア意識に大きな変化をもたらし、世界の最前線で働きたいと、転職を考えるようになった。後に帰京が許された際、空港から乗車したモノレールで拾った転職誌。JICAの社会人採用の広告に「アフリカ」「途上国」「国際緊急援助隊」の文字を見つけ、迷わず応募した。

目指すは歌って踊れるアフリカ専門家

TICADでは日仏通訳も務める(中央)。写真は田中明彦JICA理事長(左)とマッキー・サル・セネガル大統領

現在は、アフリカ部で、フランス語圏の20ヵ国を担当している。もちろん愛する第二の祖国、コンゴも含まれる。先ごろ行われた第5回アフリカ開発会議(TICAD V)の期間中には、フランス国際ラジオ放送(RFI)から、TICADにおけるアフリカに対するメッセージや、サヘル危機などについて取材を受け、フランス語圏アフリカで広く放送された。

プライベートでは海や自然が大好きで、週末に時間があれば夜も明ける前から海に向かう。古いものに魅力を感じ、ヴィンテージものや機械に目がない。愛車は49年落ちのワーゲンバス、かれこれ4代目だ。座右の銘は「二兎(と)追うものは一挙両得」。「欲張りですから、実際は、二兎では済まないですが」。タイトルにもある「ンボテ」はリンガラ語(注4)で「こんにちは」、「トポ・ナ」は「こよなく愛せ」という意味。最近は、アフリカプロモーター「ンボテ★飯村」を名乗り、自称「芸能活動」を展開。個人ブログでの発信を含め、アフリカ自体の広報活動にも余念がない。

「アフリカについて伝えられる情報は、あまりにも偏っているように感じている。良いこと悪いことも含めて、実際目にし、つき合ってきた等身大のアフリカについて伝えていきたい。今後は、『歌って踊れるアフリカ専門家』を目指します」



(注1)ポリオで下半身不随となった車椅子ミュージシャンとストリートチルドレンから成る8人組のバンド。2010年の来日公演の際には、通訳(ボランティア)を含め、飯村が講演・映画上映プロモーターを務めた。
(注2)コンゴ民主共和国は、1960年のベルギーからの独立とともに動乱に突入。1998年には隣国を巻き込む国際的紛争に発展。和平プロセスを経て2006年に新憲法が公布された。同国の東部地域では武装勢力が残存し、紛争状態が継続している。
(注3)約235万平方キロメートル(サブサハラ・アフリカ最大、世界第11位)。銅、コバルト、タンタライト、金、ダイヤモンド、スズ、石油などの豊富な鉱物資源に恵まれているが、一人当たりのGNI(国民総所得)は108ドルと世界最下位。
(注4)コンゴ民主共和国、コンゴ共和国、アンゴラ、中央アフリカなどで、1,000万人以上が使うとされる言語。アントニオ猪木でおなじみの「ボンバイエ」もリンガラ語。