「一所懸命」に和風の流儀で世界の課題解決に貢献

−田中啓生JICA職員−

2013年7月18日

「途上国からの要請があれば応えるという受け身の姿勢ではなく、こちらから働きかけて案件をつくることで、世界が直面する問題の解決に貢献したい」と語るのは、田中啓生(ひろお)JICA産業開発・公共政策部次長兼資源・エネルギーグループ長(46歳、岡山県出身)(以後、敬称略)だ。

途上国の基幹電力系統の整備に注力

地熱資源が豊富なリフトバレーにあるケニアのオルカリア第2地熱発電所

新興国や開発途上国の経済成長に伴い、世界規模で増え続けるエネルギー需要に対応するため、JICAは従来の支援方針を見直した。これまで積極的に行ってきた未電化地域に太陽光パネルを設置するといった事業は、なるべく民間に活躍の場を譲り、JICAは今後、途上国の基幹送電系統の整備に、より一層注力していくという内容だ。2012年2月、現職に就いた田中が、グループを率いてこの方針をまとめた。

今後、途上国では先進国をはるかに超える膨大な新規の電力需要がある。電力分野には、官民や他ドナーを含めて多くのプレーヤーがひしめいているが、それぞれの強みを生かして効率的に事業に取り組む必要がある。「JICAは、日本の資金力と技術力を駆使しなければ解決できない問題に注力していくことが、自らを一番生かせる道。途上国の基幹電力系統を、日本の非常に効率のいい技術やシステム運用能力で整備すれば、二酸化炭素の排出量を大幅に削減できます。また、基幹電力系統の整備で電気を利用できるようになる人は膨大な数に上ります。幸い、小型の風力発電や太陽光パネルの設置などは、近年、積極的に参入してきた民間企業やNGOなどに任せられる状況にあります」と田中は明確な方向性を示す。

「急がば回れ」の支援

JICA入構直後の鉱工業開発調査部時代、モンゴルの地方電化計画調査のために厳冬期のゴビ砂漠を訪れた

田中はエネルギー分野だけでなく、資源分野の方針も中心となって作成した。2010年、中国がレアアースの輸出制限を行ったことから、日本は必要な資源が入手できないという危機に見舞われた。

「JICAは民間の鉱山権益の確保に直接関与することはできませんが、二度とそのような状況に陥らないように、明確な目的意識の下で長い時間をかけて、アフリカをはじめとする資源保有国との強固なネットワーク『資源の絆』づくりに取り組んでいきます」。そのために田中は、今後の日本の資源分野の高等教育をリードしようとする秋田大学と連携して、途上国の人材を育成するプロジェクトを立ち上げた。

秋田大学は来春、国際資源学部を新設。さらに2018年には大学院国際資源学研究科を開設し、日本の英知を結集させるとともに、留学生を積極的に受け入れ、国際的な資源開発分野の教育拠点となることを目指している。そこにJICAがODAによる研修プログラムを展開し、途上国の行政官や技官の幹部候補生を送り込む。将来、自国の資源セクターを担う彼らが日本企業とのパイプ役になることを期待してのことだ。

「急がば回れ。10年、20年後に実施していてよかったと思われるようなプロジェクトになれば」。田中は日本の将来を見据える。

動機に正直に

実家はガソリンスタンドと、プロパンガス、灯油や練炭などの燃料を販売する会社を経営。生まれながらにエネルギーに縁がある。子どものころは、科学や冒険が大好きで人類未踏の領域に挑む宇宙飛行士に憧れた。しかし受験勉強で視力が低下したことから断念。具体的な進路を決めかねて、入学時に学部が限定されない北海道大学へ。実家から遠く離れた場所で自立したいという気持ちにも合致した。3年時から、やはりエネルギー問題に興味を抱き、機械工学を専攻。大学院まで進んだ。

「人生最大の岐路は、就職を決めるときでした」と田中は振り返る。国家公務員試験に合格していたにもかかわらず、米国とフランスに本社を置く物理探査と油井サービス分野の最大手「シュルンベルジュ」を選んだ。周囲から公務員を勧められ、田中の心は大きく揺れたが「世界中から集まった同世代の中で自分がどこまで通用するのか、チャレンジしたい」という最初の動機に正直になり、安定という誘惑に打ち勝った。

北海油田で同僚と(左端が田中)

シュルンベルジュでは、スコットランド沖の北海油田に4年弱、フィールドエンジニアとして勤務した。海上油田のリグ(掘削装置)で、最先端技術を用いて掘削位置を計測したり、放射性物質を用いて物理探査したり、時には非常に危険な発破作業を買って出たりもした。通常の油田労働者は3週間の交代制だが、特殊技能を擁するフィールドエンジニアは人件費が高いため、仕事のあるときだけ呼ばれ、非常にタイトなスケジュールで働かなければならない。56時間ぶっ通しで働いたこともある。時にはリグからリグへの移動で、自分一人のためにヘリコプターがチャーターされたこともあった。日本から遠く離れた場所での過酷な労働が田中の心身を鍛えた。

もともとシュルンベルジュに就職したのは、武者修行のつもりだった。偶然、そこで知り合ったインドネシア人の同僚の父親がJICAの研修で日本を訪れたと聞き、JICAの存在を知る。学生時代に行政の道を考えていたこともあり、エネルギー問題の解決を含めた開発援助の仕事に興味を持った。ちょうど次の進路を考えていたころ、学生時代の友人からJICAの社会人採用の情報を聞き、応募した。

ODAの真骨頂を間近で 

1996年、JICAに入構し、前職の経験からか鉱工業開発調査部(当時)に配属された。その後1998年から約3年間、インドネシア事務所でも資源エネルギー開発と中小企業支援に携わる。転機は2002年、アジア第一部(当時)でインドネシアの「経済政策支援プロジェクト」の日本側事務局を担当したときだ。

経済政策支援プロジェクトの全体会合

「かかわるメンバーが日本を代表する有識者たち。これまでの仕事とは次元が違いました」。プロジェクトが相手国だけでなく国際社会に与える影響の大きさや、メンバーの能力や見識に圧倒された。それまでの技術論や手続き論中心の世界から、産業政策や経済政策、そして政治経済学的な配慮にも及ぶ有識者たちの世界観と仕事ぶりに大きな影響を受けていった。

「経済政策支援プロジェクト」は2001年9月、アジア通貨危機の影響で経済が破たん寸前だったインドネシアのメガワティ・スティアワティ・スカルノプトゥリ大統領(当時)が、小泉純一郎首相(当時)との会談で、支援を要請したことからスタートした。

インドネシアの円借款は当時、累積4兆円近くに上っていた。債務不履行に陥らないよう、白石隆京都大学教授(当時)、浅沼信爾(しんじ)一橋大学大学院教授(当時)や伊藤隆俊東京大学大学院教授をはじめとする6人の教授陣が、インドネシアの主要閣僚から成る大統領アドバイザリー・チームと丁寧に対話しながら、マクロ経済政策の軌道修正と国際社会の信認を失わない貿易・投資政策を促した。

「あくまでもアカデミックな立場で助言する姿勢を貫きつつ、相手国の立場で政治と経済状況を正確に把握して助言する。極めて高度に工夫された教授陣の働きに感銘を受けました。このような政策支援は危機に陥った国を立て直す支援として理想的だと思いました。国際通貨基金(IMF)や世界銀行、米国もこの支援には一目置いていました。相手国の懐に入って一緒に考える和風の流儀を高度なレベルで実現した、真に知的な日本のODAだと感じました」と、当時を振り返る田中の言葉には力がこもる。

また、プロジェクトの事務局も中尾武彦財務省国際局開発政策課長(現アジア開発銀行総裁)や大串博志インドネシア日本大使館一等書記官(現衆議院議員、元首相補佐官)などの精鋭で固められていた。「30代半ばで、そういった人たちと仕事ができたことで、大きく視野が広がりました」と言う。その後、JICAに勤務しながら東京都立大学大学院(現首都大学東京)で経営学修士号、早稲田大学大学院で国際政治経済学修士号を取得。工学と合わせて三つの修士号を持つ。技術者としての知識と経験に加え、政治、経済にも明るい貴重な人材が誕生した。

目の前の仕事に全力を尽くす

1997年、厳冬期の北アルプス西穂高岳の西穂独標付近で

趣味は登山と旅行。基本的にアウトドア派だ。学生時代はバックパック一つで米国やチベットを1〜2ヵ月かけて回った。田中にとって米国への旅は、憧れの終わりの始まりの旅だったという。「物心ついたころから圧倒的なアメリカの影響を受け、アメリカに憧れを抱いて育ちましたが、日本は物質的な豊かさでも精神的な豊かさでも引けを取っていない、もはやアメリカは憧れを抱く存在ではないと肌で感じました」。これからは独自の文明を、自信を持って発展させればいいと悟った。

JICAに入構以来、約20年が経つ。学生時代から公益のために働くことに意義を感じていた田中は、和風の流儀で世界の課題解決に貢献できるJICAの仕事に喜びを見いだしてきた。「ODAの役割もJICAの在り方も、時代の変遷で大きく変化してきました。正直、将来の方向性はわかりません。これまで与えられた場所でベストを尽くしてきたように、少なくとも、これからも目の前の仕事に対して『一所懸命』に全力を尽くしたい」と語る。その姿勢にはブレがない。