保健システム強化プロジェクトの陰にこの人あり

−杉下智彦JICA国際協力専門員−

2015年2月19日

ケニアで青少年の保健リーダー育成活動中

現在、JICAが各国で支援している開発協力の一つに、保健システムの強化がある。人々が保健サービスにスムーズにアクセスできるよう、保健行政のマネジメントやシステムの開発、保健行政官の能力強化などに取り組んでいる。その先駆けとなったのが、2000年に始まった「タンザニア・モロゴロ州保健行政強化プロジェクト」だ。

「日本や欧米とアフリカでは、保健医療を取り巻く社会的、文化的背景が異なります。妊産婦死亡率や5歳未満児死亡率、医療サービスへのアクセスなど、アフリカが抱える保健医療の問題を改善するためには、まずは社会システム全般にアプローチする必要があると考え、保健システムの強化という手法を採りました」。プロジェクトの創成期にかかわった杉下智彦JICA国際協力専門員(49歳、埼玉県出身)はそう語る。

マラウイで見たアフリカの現実

ゾンバ病院のスタッフたちと杉下(後列右)

杉下が最初に国際協力の現場に立ったのは、1995〜98年、30歳で青年海外協力隊としてマラウイに赴任したときだ。配属先は、首都リロングウェから400キロメートル離れた国立ゾンバ病院。当時、マラウイの成人のHIV感染率は4割に迫る勢いだった。病院に入院している患者の7割が感染者という現実。日和見感染(注1)を併発している末期患者もいれば、感染者が交通事故で運び込まれることもあった。しかも、450床のベッドに対して入院患者は1,000人以上。一つのベッドを二人以上で使っていたり、廊下に寝かされていたりは当たり前。手術が成功しても、縫合部が治らず再縫合の毎日。半数の患者はエイズで亡くなったという。

杉下の活動内容は病院の外科診療の支援。しかし、当時マラウイ国内には外科医が5人しかおらず、ゾンバ病院では杉下が唯一の外科医だった。杉下は、4人のクリニカルオフィサー(準医師)を指導しながら、マラウイの現状と病院側からの強い要望を受けて、自ら手術室に入ることもあった。任期の2年半に杉下がかかわった手術は3,100例、看取(みと)った患者は7,000人近くになる。唯一の外科医ということもあり、一般外科だけではなく、救急外傷、産婦人科、整形外科、泌尿器科、脳外科なども任され、多い日には一日21件、24時間近く手術室にいた日もあったという。「HIV感染者には手術をしないほうがよいという声もありましたが、現場で共に働くスタッフたちはみな、HIV感染者であろうとなかろうと、治療をするという意見で一致していました」と杉下は振り返る。

痛切に感じた西洋医学の限界

杉下がアフリカでの医療活動に興味を持ったのは、中学生のときにテレビ報道でエチオピア大飢饉を知ったのがきっかけだ。自分と同じくらいの子どもが死にかけているのに、誰も手を差し伸べようとしない、そんな世界の不条理に衝撃を受けた。「医師になってアフリカに行き、人々を救いたい」という夢を持った。しかし、マラウイでの現実は、杉下が予想していた以上に深かった。象徴的なものとして、杉下は「呪いの文化」を挙げる。「アフリカでは、死の原因が呪いにあると考える人もたくさんいます。呪った人を集団リンチで殺してしまう事件も数多く見てきました。また、病気になる原因を親族の悪行にあるとする考えもあります。『子どもが麻疹(はしか)になった原因は父親にある』と、父親に熱湯をかけて子どもを治そうとするケースにも遭遇しました」

また、エイズという未曾有の脅威に対面したマラウイでは、その治療法として伝統医療に頼る人も多かった。こうした中、杉下はアフリカの伝統医療を理解しようと、医療活動の合間を縫っては、伝統医療の祈祷師(ウィッチドクター)のところに通いつめ、どんな治療をしているのか、どういう薬を処方しているのかを聞いて回った。その中には、伝承や民話などチェワ族(注2)特有の世界観に源流を持つものがあることに気づいたという。

「病気の原因が病原体や遺伝子にあるという西洋医学の考え方は、彼らの前では無意味。マラウイには独自の世界観に基づく伝統医療が息づいていて、西洋的な病因論で教育された医師としてできることは、ほんの少ししかないということに気づきました。最新の医療技術で病気やけがを治しても、社会の医療システムや人々の意識が変わらないと、患者は適切な医療を受けられない。社会のシステムを変えるためには、医療人類学や社会学的な視点を持つことが必要だと感じました」

転校のたびにネットワーキング力をつけていく

ケニアで開催された国際会議で、ケニアの保健医療分野の第一人者、ミリアム・ウェレ博士(後列中央右)、青年海外協力隊員と共に

杉下は子どものころから好奇心が旺盛だったという。父親の仕事の関係で日本中を転々とし、小学校だけでも5回も転校しているが、「おかげで、いろんな人たちとネットワークをつくるのが得意になったし、いろいろなことに関心を持つようになりました。それは今の仕事にも生きているかもしれませんね」と笑う。

特に今の自分に影響を与えているのは、小学校高学年から高校までを過ごした松山市(愛媛県)での経験だ。大自然の中でアウトドアスポーツやキャンプに夢中になる一方、仲間と読書会を開いて社会貢献に関する本を読んだり、講演会に参加したりするなど、知的好奇心を満たしていった。両親の引っ越しに伴い、中学3年からずっと一人暮らしであったというから、自立心も旺盛だったといえるだろう。

東北大学医学部に入学した1985年には、アフリカ難民救済を目的に、多くの国のミュージシャンが参加したチャリティーコンサート「ライブエイド」が開催された。当時、ロックバンドに参加していた杉下は、音楽の力で世界を変えられること、そして医療以外にもさまざまな支援の可能性があることに心を躍らせた。

またこのころ、民話や伝承に興味を持ち、日本各地を訪ね歩いたり、大学では死生学に関心を持ち、医学部の仲間を集めて勉強会を開いたりもした。こうした経験は、アフリカの呪いの文化や伝統医療を理解する上でも役立ったという。

偶然目にした隊員募集に即応募

東京の聖路加国際病院での研修医時代は、外科、救急、産婦人科、泌尿器科、整形外科、内科、小児科すべてを学んだ。とにかく早くスキルを身につけ、アフリカに行きたいと思っていたからだ。しかし、当時は情報が少なく、アフリカで長期にわたって活動できるような医師の募集は見つからなかった。そうこうしているうちに、東北大学病院心臓外科の医師として忙しい日々が始まった。杉下はそうした日々にやりがいを感じる一方、アフリカが遠くなってしまったようで、焦りも感じていたという。

しかし、出合いはある日突然やってきた。「ある大きな手術が終わったある日、燃え尽きた気分でいたら、たまたま、目の前に『君を待っている人たちがいる』という青年海外協力隊のポスターがあったんです。『これだ』と思い、すぐにJICAの東北支部を訪れ、募集職種に医師があるのを確認するとその日のうちに申し込みをしました」。誰にも相談せずの決断だった。迷いは一切なかったという。当然、周囲からは反対されたが、杉下の心は変わらなかった。「医局から反対される中で唯一、教授だけが応援してくれました。実はその教授も若いころにアフリカに行きたいと思っていたけれど、行けなかったと。アフリカから帰ってこないつもりで行け、と励まされました」

【画像】

スーダンで助産師教育施設を訪問し調査を行う

医療人類学を学ぶため英国へ

マラウイでの2年半を経験した杉下はその後、米国で公衆衛生学を、英国で医療人類学を学んだ。医療人類学とは、「病気は文化や社会が規定する」という考えに基づく社会学のことだ。「学生時代から民話や伝承、そして死生学に興味があり、人間にはそういう世界観が大切だと感じていましたが、それと医療とは別のものだとずっと思っていました。けれどマラウイでの経験を通して、その二つは同じところにあるものだということを実感し、もっと学びたいという欲求が出てきました」

英国から帰国した杉下は、JICAの誘いを受け、プロジェクトのチーフアドバイザーとして、アフリカにかかわることになる。それが、「タンザニア・モロゴロ州保健行政強化プロジェクト」だった。

そして、保健システムの強化へ

コミュニティー保健サービスに関する対話集会で住民の生の声を聞く(ケニア)

タンザニアで保健システムを強化する際に杉下が重視したのは、住民を指導する立場にある保健行政官のリーダーシップを育成することだった。

2002年に杉下がタンザニアに赴任した当時、保健行政官たちは、先進国や国際機関など、援助する側のドナー(注3)に言われるままに活動することに慣れ、自分の能力を信じられず、依存体質になっていた。そこで、リーダーシップ育成のためのプログラムを考え、研修を実施した。「自信を持って仕事ができるようになると、仕事の楽しさがわかってくる。そうすると、仕事ぶりがどんどんよくなっていくんです。『JICAのように肩を押してくれる援助機関は初めてだ』とよく言われました。私たち専門家は、行政官に指示するのではなく、行政官が自ら行動できるように触媒(カタリスト)になることが重要だと感じました。このような手法はのちに『カタリスト的アプローチ』と呼ばれ、個人育成から組織強化、制度づくりという段階的アプローチとしての『キャパシティ・デベロップメント』というJICAの特徴的な支援アプローチとなりました」

同時に、保健行政官が地域住民の声に耳を傾け、それを政策に反映させる能力を身につけることも重視した。「日本もそうですが、住民の声を聞いているといいつつ、形だけで実際は聞いていないことが多いんです。そうならないように、行政官を現場に連れ出し、自分の目で見て、頭で考えて、耳で聞いて、動ける環境をつくりました。自分がやったことで現場が改善されたというフィードバックを実感できると、行政官のモチベーションはさらに上がります」

こうしてタンザニアのプロジェクトで確立された研修プログラムは、リーダーシップマネジメント強化プログラムとして、その後のケニアでの技術協力プロジェクトや第三国研修(注4)を通じてアフリカの26ヵ国に広がっている。「保健行政官が生き生きと、自信を持ってプロジェクトに取り組んでいるのは、私個人も非常にうれしい。そういうプロジェクトは、成果も出ています」と杉下は力強く語る。

社会起業家としても夢の実現に踏み出す

タンザニアでマサイ族の小児検診を支援

杉下は現在、JICAの保健医療分野のアドバイザーとして、各国の保健システム強化プロジェクトの立ち上げにかかわる傍ら、女性が安心して出産できるクリニック「SU*TE*KI」のアフリカでの事業化に向けて精力的に動いている。「SU*TE*KI」は、最新の医療技術と地域の助産師の双方の力を生かして、安全な自然分娩を促進するとともに、出産から子育て、さらに美容や健康まで、美しく健康でありたいと思う女性を生涯にわたってトータルにサポートするクリニック。ソーシャルフランチャイジング(注5)という手法を用いて広く展開することで、人々の自立発展につなげていくことを目指している。自然分娩にこだわるのは、母子の絆や地域の人たちの触れ合いを貴ぶ文化を大切にしたいから。そこには「出産を通して『いのち』を大切にする社会を創造したい」という杉下の強い思いがある。

ケニアで幼い娘と飛行機に乗ったとき、突然、泣き出した娘を、同乗していた周りの人たちが代わる代わるあやしてくれたときのことが、今も忘れられない。「日本では迷惑な顔をする人が多いと思いますが、アフリカの人たちは違う。男性も女性も、子どもを社会で大切に育てるという考えが根づいています。だから、泣いている子どもを放っておく人は一人もいないんです。こういう文化を絶対になくしてはいけない。だからこそ、安全に子どもを出産できる仕組みをつくりたいと思っています」

「SU*TE*KI」のアイデアは昨年、社会起業大学が主宰したソーシャルビジネスグランプリの社会起業家部門でグランプリを受賞するなど、日本でも注目を集めている。現在はプロボノ(注6)活動で、アフリカを支援するNPOを立ち上げる準備をしているところで、今年中にはケニアとタンザニアにクリニックを開設する予定だという。日本から現地のクリニックに投資できる仕組みづくりも検討中だ。

「本当の開発とは、現地の人たちと一緒になって考え、その国の人たちが自分たちで解決できるような能力や技術を高めることだと思っています。大量消費や経済至上主義ではない幸せの形は絶対にあると信じているので、それをみんなで模索していきたいと願っています」


(注1)免疫力が低下したときに、病原性の病原体に感染し発症するさまざまな感染症や病気のこと。
(注2)マラウイの主要部族で、マラウイ、ザンビア、モザンビークに暮らしている。「グレワムクル」と呼ばれる仮面の舞踊などで知られる。
(注3)援助を受ける国(開発途上国)に対し、援助する側(国、機関、NGO、企業、個人など)を総称して「ドナー」と呼ぶ。
(注4)過去に日本の技術支援を受けた途上国の機関が、他の途上国から研修員を受け入れて技術指導を行い、日本はそれを資金面や技術面で支援するというもの。
(注5)社会的貢献を目的とする企業の成功モデルを複製していくこと。
(注6)職業上で身につけた知識や技能を生かして行うボランティア活動。