バック・カントーよ、グッバイ・フォレバー!

(出展:2010年4月23日付けラオドン(労働)オンライン紙新しいウィンドウを開きます

2010年7月14日

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毎月一度、私はロンアン省からカントー市で行われる職場の会議に参加するために、行きと帰りの往復でカントーフェリー(南部弁ではバック・カントーと呼ばれ、フランス語の“bac(バック=渡し舟”から由来)を利用してきた。

去る4月の初めは、私がフェリーを利用する最後の機会となり、ついに永久の別れとなった。私が職場に戻る来月の初めにはもうフェリーを使うことはできない。デルタ地域の住民誰もがこの100歳にもなるこの船着場に多少なりとも思い出を持っており、「バック・カントーの夜行便に間に合うように、急いで」は誰もが覚えている伝統民謡の一節である。

他にも少なからずたくさんの思い出がある。足場を渡ってフェリーに上がると、後方には少しの余念と懐かしみを残し、前方には広大なデルタの幸せと将来が広がっていた。

バック・フェリーに間に合うように

私がカントー・フェリーで初めて渡ったのは1980年代の後半、カマウへの出張の時だった。カントー・フェリーに近づくにつれて、シェル社のどのガソリンスタンドにも彼らの願いを込めたスローガン“バック、フェリーに間に合うように”が掲げられており私は目を奪われた。フェリーで渡り終えたころには、そのスローガンの意味にしみじみと感じ入ったものだ。

当時、ホーチミン市と西部を行き来する人々の最大の願いは、フェリーの混雑を免れることだった。カマウから戻るなり、母親からいつも“フェリーの混雑に巻き込まれなかった?”と聞かれたものだ。

あの時期、西部はドイモイ路線で急速に成長を始め、フェリーの車両は日に日に増加していったが、船着場は相変わらず数十年前の古いままだった。

向こう岸へ渡るのは週末で、私が乗った車はCai Von町、現在の国道1号線がカントー橋連結道路に接続する地点でいつも渋滞に巻き込まれていた。5時間近くかけて少しずつ進み、やっとの思いで車はフェリーに乗り込んだ。

当時のフェリーの船上は今ほど“さびしい”ものではなかった。フェリーでは酒、ビールも含めあらゆる種類の飲食品が販売されており、宝くじや新聞の小売さえいた。それらの一つに車のガラス拭き“サービス”があり、ある身体障害者が松葉杖を使って車のガラスをトントンと叩いて合図をするなり、勝手にタオルでガラスを拭き始めた。車のドライバーは頼みたくなくても、お金を払わざるを得ない。もしお金を払わなければ、ガラスが割られることになるかもしれないのだから。

私はふと、自分の人生にカントー橋が見えれば!と願っていた。カマウから戻る際、さらに混雑が増していた。増水で川の流れが強くなり桟橋のケーブルが切れてしまったため、フェリーの運航が中止され、私はカントーに一泊を余儀なくされた。そんな折、暇つぶしに船着場近くの砂浜(今のスタジアムの辺り)に出て、釣りをしている様子を眺めていた。増水すると上流から魚がたくさん流れてきて、大勢の釣り人で賑わっていた。

私はベトコン帽を被る一人の年老いた釣り人に注目して話を聞いてみた。彼はNinh Kieu地区に住み、毎日ここで釣りをするうちに、釣りが彼の生涯の職業になったのだという。

彼いわく、フェリーより10歳年下とのこと(彼は1928年生まれ、フェリーは1918年から運行を開始)。釣りあげたボンラウから針を外しながら、彼は「私はフェリーより後に生まれたけれど、フェリーより先に亡くなるんでしょう。」と冗談を交えていった。私も調子に乗って「それはわからないですよ。将来カントー橋を架かってフェリーが亡くなっても叔父さんはまだ健在かもしれませんよ。」と返すと、すかさず彼は「もし私が生きているうちにこの川に架かる橋が見られたなら、死んでも後悔しないよ。」といった。

橋の下で

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そんなやり取りがあった彼と、カントー・フェリーを最後に利用した際に偶然再会した。彼は私のことを覚えていなかったが、私は釣り竿とベトコン帽ですぐに彼を思い出した。

彼はPham Van Be(ファン・バン・ベ)といい、10年近く前から“586”新市街地に移り住んでいる。82歳になった彼は、自宅からそれほど遠くないこのカントー橋の下で、まだ毎日釣りを続けている。

「死んでも後悔しないよ」と言ったときの会話は覚えていないようだが、彼はカントー橋開通の日を“母が市場から帰ってくる”のと同じように待ちのぞんでいた。開通するその日は南岸から北岸に歩き、帰りは子供たちに迎えにきてもらうつもりだそうだ。

彼は釣りに引っかかったばかりの手の平ほどの魚を外しながら、「4〜5キロあると聞いたがそれぐらいは歩けますよ。この橋の完成は、私たちにとってとても大きな幸せなのですよ。」と続けて言った。

Beさんの周りに、真っ白のスポーツ服を着ている10人あまりの老人が魚釣りを見に集まっていた。彼らはBinh Thuy(ビン・トゥイ)地区の「健康サイクル・クラブ」のメンバーである。以前、彼らは毎朝BinhThuy地区内の道路で自転車を漕いでいたが、カントー橋への連結道路が出来てからはコースを変えて、橋の袂を到着地点としている。

グループの中には80歳を超える方が二人いる(Nguyen Van Tam(グエン・ヴァン・タム)さん、Duong Van Hai(ズォン・バン・ハイ)さん)。Tamさんの話では、カントーフェリーが1915年から起工され、1918年にサイゴンからカントー、RachGia(ラクザ)を結ぶ道路の完成とともに運航を開始した。最初の船着場は当時の知事公邸の近くにあったが、その後現在の場所に移動した。

Tamさんの記憶では、1950年代にはここに屋根なしフェリーが6隻あり、1隻が2台のバスまで載せられる容量であった。Tamさんは「カントー橋が開通する日、私たちのグループは自転車で橋を渡ります。坂がきついところは押すし、疲れれば座って休みます。」と語った。

Tamさんによると、クラブで最高齢のVo Thanh Giang(ボ・タイン・ザン)さんは87歳だったが、残念ながら数ヶ月前に亡くなった。「2008年に橋が完成していれば、彼の念願が叶ったのに」とTamさんはひどく残念そうに話してくれた。

カントーの人々には、毎日の朝夕はカントー橋の下、ハウ川の河川敷で涼む習慣が出来た。Le Hai Dang(レ・ハイ・ダン)夫婦(Xo Viet NgheTinh通り在住)は数日に一度、Le Van Kham(レ・バン・カム)君(小学1年生)と Le Van Tuong(レ・バン・ツォン)君(小学3年生)の二人の子供を橋の下までバイクで連れてきて凧揚げをさせている。Tuong君は「ここは風がよく吹くので凧がよくあがるし、きれいな橋も眺められます。」と言うと、Kham君は「この橋は高くて怖いです。僕はフェリーで渡った方が楽しかったです。」と話してくれた。

その朝、カントー橋の南側で結婚式が行われた。花嫁は橋の北側にあるビンロン省Binh Minh(ビンミン)地区から迎えられた。Le Van Tao(レ・バン・タオ)新郎は、新婦のNguyenThi Man(グエン・チ・マン)さんと3-4年前に知り合い、橋の開通を待って式を挙げる予定だったが、開通まで時間がかかったため、新婦側の家族に結婚式を早めるよう催促されたこともあった。

「そんな結婚式もいいかも。フェリーで花嫁迎え式を写真に収めていたら、子孫はずっとフェリーを想像できたかな」とTaoさんは話してくれた。

赤色の別れ(注1)

Tay Do(西の都=カントー市の別名)を離れ、私は最後のカントー・フェリーに乗り込んだ。週末なので、両岸の船着場では車両がひどく込み合っていた。数えてみると10台のフェリーが忙しく行き来していた。船着場の雰囲気は、橋の開通が数週間後に迫っていることなどまったく感じさせないかのようにとても賑やかだった。船長は、西部の雰囲気漂う名前のThachSon(タク・ソン)さん。私が想像していたほど船長は「寂しい役」を演じてはいなかった。

Sonさんによると、彼の家族は2世代に渡ってフェリーを運転している。彼の父親はフランス占領時代から、彼は1980年から運転している。彼の二人の子供はもうすぐ大学を卒業する予定。

彼は、嬉しさ半分、寂しさ半分といった様子で「多くの同僚がVam Cong(ババム・コング)フェリー、Co Chien(コ・チェン)フェリーに移りますが、私は高齢のため退職を申請しました。少し寂しいですが、楽しみのほうがずっと大きいです。デルタ地域の数百万人は今後、“川を渡るにはフェリー頼み”がなくなるのですから。」と話してくれた。

「フェリーは使命を終えましたが、私もそうです。これからは近代的な橋と私の子供たちの時代です。」

以前は約300世帯がフェリーの北側で雑貨、おかし、飲み物などを売っていた。また、同数程度の行商人がフェリーに頼っていた。ここ数年、フェリーが改善されたために混雑が解消され、商売も日に日に難しくなっていた。現在では100人ほどの行商人しか残っていない。

ゆでトウモロコシを売るLe Thi Ut(レ・チ・ウット)さんは、以前My Thuan(ミトワン)フェリーで売っていたが、My Thuan橋が出来てからカントーフェリーに移った。船着場での商売は日に日に難しくなっている。車は長時間停車しないため、行商人から購入する乗客が少なくなっているからである。彼女は以前から転職を考えていたが、今はフェリーの引退まで引き伸ばそうと考えている。まだ新しい職業は決めていない。

「やることは一杯あるさ。行商より貧しくなることはないよ。」とUtさんは言う。Cai Von地区の人民委員会は、人々が自力で転職できるよう手助けをしている。新しく設立したBinhMinh Me Kong社は、1500名の一般労働者が必要としているが、採用する労働者が不足していると逆に心配している。

同じくそのフェリーの上で、Nam Roi(ナムロイ)ザーボン合作社(My Hoaコミューン、Binh Minh地区)のTran Van Sang(チャン・バン・サン)主任に出会った。彼はCanTho側に納品して戻っている途中だった。Sangさんは、カントー橋の連絡道路がMy Hoa(ミホア)地区を通過するため、ザーボンで有名なことの地域に絶好のチャンスをもたらすことになると言う。「川による隔たりがなくなり道路が繋がったため、たくさんの観光客を迎えることができる。また、NamRoiザーボンをより遠くに運ぶことができるようになるため、今は栽培が間に合わないと心配するほどだ。」My Hoa地区ではカントー橋によるチャンスを活かすべく、多くの観光スポットが整備されている。

フェリーが岸に着き、国道1号線上の最後の船着場と永久の別れになるのはとても感慨深い。この船着場では多くのお店が閉店し、行商人も以前のように熱心に声をかけてくることはこない。

私がフェリーと別れた日は、偶然にもかなりの渋滞で、Cai Von町まで5-6キロ続いていた。それにもかかわらず、ドライバーたちが疲れた様子やのろのろした様子を見せることはなかった。彼らはおそらく「今度が最後だ」と自分に言い聞かせているに違いない。彼らはまもなくハウ川橋の上で風を切りながら軽快に走ることになるだろう。

新聞記者 キー・クアン(Ký Quan)氏より

(注1)有名な詩のタイトル