派遣から始まる未来
進学、非営利団体入職や起業の道を選んだ先輩隊員

実家のキウイフルーツ農園を継ぎ
持続可能な農業を追求

平野耕志さん

第1回JICA海外協力隊 帰国隊員社会還元表彰
SDGs実践賞

平野耕志さん
ザンビア/村落開発普及員/2011年度4次隊・静岡県出身


ザンビアで見いだした農地の役割
生きる力を育む農業を掲げ、地域活性化を目指す

ザンビアで共に活動したカウンターパートや診療所スタッフの面々と。「2年間のザンビアでの経験が現在の活動の核になっています」

ザンビアで共に活動したカウンターパートや診療所スタッフの面々と。「2年間のザンビアでの経験が現在の活動の核になっています」

   静岡県掛川市に広がる茶畑の中にあるキウイ観光農園「キウイフルーツカントリーJapan」。東京ドーム3個分の広さを誇る園内には約80種類1200本ものキウイの木が育ち、家畜飼育などと組み合わせた循環型農法が取り入れられている。この農園を中心に、農業の新たな役割を提案しながら地域活性化を牽引しているのが代表の平野耕志さんだ。

   日本のキウイ栽培のパイオニアで、循環型農法などの先進的な農業にも取り組む両親の次男として生まれた平野さんは、そこに集まる海外の農業研修生や地域の人々を見て育った。当然のように農業や海外に興味を持ち、地元の農業高校から東京農業大学短期大学部に進学。派米農業研修生としてアメリカでも1年半学び、掛川に戻って直面したのは日本の農業の現状だった。

「農家の後継ぎだった同級生の多くが離農し、耕作放棄地は増え、見慣れた美しい茶畑の景色は変わり果てていました。実家を手伝いながら、地域を何とかしたいと田植えや茶摘みの体験イベントを企画したりもしましたが、人が集まらずに大赤字。解決策もなく、自分の理想とする農業を模索する日々が続きました」

学生のアイデアから生まれたキャンプサイト

学生のアイデアから生まれたキャンプサイト

   未知の世界で新しいアイデアを得たいと応募したのがJICA海外協力隊だった。任地はザンビアの首都ルサカ。コンパウンドと呼ばれる低所得層の密集居住地区で、地区内の農地での野菜・果樹栽培を通じた栄養指導や収入向上支援に携わった。

「活動の中で、貧困層ほど栄養が偏り、生活習慣病を患ったり、命を落としたりする現実を知りました。どんな予防薬や特効薬があっても食べ物がなければ命は救えない。農業は命の土台なのだと気づきました」

   同時に、農地はザンビアの人々にとって暮らしの一部でもあった。手作りの十字架を置いて礼拝をしたり、髪を切ったり、時には子どもが宿題を持ってきて勉強していたりもした。

農園では常時2~3種類のキウイが食べられ、キウイの食べ放題やBBQ、動物の餌やり体験などのアクティビティが楽しめる

農園では常時2~3種類のキウイが食べられ、キウイの食べ放題やBBQ、動物の餌やり体験などのアクティビティが楽しめる

「赤ちゃんをおぶった5歳の女の子が畑で火をおこして調理する姿に驚きました。日本では火を扱った経験の乏しい子がたき火に触れてやけどしたりするのに、この違いは何だろうと。自分がやりたいのは、栽培して出荷するだけの農業ではなく、人々の集う場となり、若い世代の生きる力を育む農業なんだと確信しました」

   2014年に帰国した平野さんは、〝耕す畑から、人の集まる畑へ〟をコンセプトに活動。農業に興味がなくても楽しければ人は集まるはずだと、ザンビアで見た光景をヒントに、音楽祭やヨガ、青空美容室などの体験イベントを積極的に開催した。同時に、持続可能な地域づくりを目指し、近隣の農家や行政、大学、企業を積極的に巻き込んでいった。

   22年には、掛川市やアイ・シー・ネット株式会社グローバル事業部と連携し、県外の中学生を対象にした3泊4日の探究学習型の修学旅行を開始。若者と農業の接点をつくり、就農意識の向上も図る考えだった。

「生徒たちは掛川の現状を取材し、最終日に課題解決のためのビジネスモデルを発表します。修学旅行生の誘致に疑問を抱いていた農家さんも、生徒たちと話す中で自分たちの農業の意義に気づいてくれるようになりました。僕よりも県外の人、それも若い人が褒めてくれるほうが響くのです」

一緒にソーラーシェアリングの設備を造った静岡県立磐田農業高等学校 の学生たち。金属の架台に細長い太陽光パネルを設置し、下部にも光が 届くようにする仕組みである

一緒にソーラーシェアリングの設備を造った静岡県立磐田農業高等学校の学生たち。金属の架台に細長い太陽光パネルを設置し、下部にも光が届くようにする仕組みである

   平野さんが学生のアイデアを元に始めた農園内のキャンプ場も新たな客層を掘り起こした。修学旅行で来た若者が、その後もインターンとして農園の手伝いに来てくれるなど、新たなつながりも生まれている。

   現在は、掛川市や地元の高校と共同でソーラーシェアリング(※)事業にも力を入れる平野さん。効果を検証しながら徐々に拡大し、得られた知見を、日本のみならずアフリカなどの途上国の農家の経済的負担軽減にも役立てたいという。

「先代からの循環型農法で水や肥料を賄い、さらに太陽光発電で電気も賄うことができれば〝完全SDGs型〟の観光農園になります。将来、農薬や資材を多く使った大規模農業に行き詰まりが生じた時に、別の選択肢として一部でもマネしてもらえたらいい。持続可能な農業経営の手法として、世界に広まればと思います」

※ソーラーシェアリング…農地の一時転用許可を受け、農作物に必要な日光を遮らないように間隔を空けるなどして太陽光パネルを設置し、営農を続けながら発電する仕組みのこと。


平野さんの歩み

1987年、静岡県掛川市で代々続く農家の次男として生まれる。

「いつも家には海外からの農業研修生が当たり前のようにいたので、子どもの頃、周りの人に『あなたの家にはどこの国の人がいるの?』と聞いたりしていたそうです」

2007年3月、東京農業大学短期大学部卒業後、派米農業研修生として渡米。

「アメリカでは大規模農園の経営者から、農業は落ち目で、ハードな仕事だと聞かされました。向こうでも〝ファーマー〟は好んで就く仕事ではないとのイメージが強く、やはり農業の置かれた状況は厳しいのだなと感じました」

2012年3月、協力隊員としてザンビアへ。

「国際協力NGOのAMDA-MINDSやザンビアの保健省が管轄するジョージ・アムダコミュニティセンターで活動しました。野菜栽培の指導や食育のほか、駐車場経営やティラピアの養殖、養鶏、キノコ栽培、PC教室などにも挑戦し、センターの運営資金や診療所への寄付に充てました。時には意見がぶつかることもありましたが、現地の人の声を尊重することが大事だと思います」

2014年3月、帰国。翌年から静岡大学大学院で農業マーケティングを学ぶ。

「ザンビアで地位の高い人と話す時、短大卒とわかると相手にされないという経験がありました。今後、自分のやりたいことを形にするためにも、大学院に行くことは必要だと考えました」

2020年、実家の農園を継ぐ。短期の農業専門家としてネパールやマダガスカルなどでの技術指導も行っている。

「先代のやってきたことを受け継ぎつつ、自分がやりたいことの基盤をつくっていきたいです。まだ両親も元気なので、向こう10年間が自分のために挑戦できる勝負の時期でしょう。また、若い世代のためにも、自分はファーマーだと声を大にして言っていきたいと思います」

Text=秋山真由美 写真提供=平野耕志さん

知られざるストーリー