派遣国の横顔   ~知っていますか?
派遣地域の歴史とこれから[ブータン]

信頼と期待を受け
悩みながら紡いだ成果

先達への高い評価の中、派遣された隊員たちは、さらなる高みを目指して活動した。

平山修一さん
平山修一さん
建築施工/1993年度1次隊、シニア隊員/建築/2002年度0次隊・神奈川県出身

PROFILE
GNH研究所代表。一般社団法人ブータン・ハピネス倶楽部代表理事。一級建築士、一級土木施工管理技士。建設会社に勤務し、日本の高度成長を支えた職人たちから、知識と技術をたたき込まれる。「日本の経験を途上国に生かしたい」と協力隊へ。任期を終え復職した後、転職し、シニア隊員、地方行政に関する技術協力のJICA専門家などとしてブータンに長く関わる。現在、国際協力専門員としても活躍中。著書に『現代ブータンを知るための60章 第2版』(本誌P21へ)ほか。

白木伸子(旧姓 庵原)さん
白木伸子(旧姓 庵原)さん
家畜飼育/2009年度3次隊・宮城県出身

PROFILE
獣医師。獣医学部に在学中、同じ繁殖学研究室で過去に協力隊に参加し、家畜の飼育に関わった先輩から経験談を聞き、興味を持った。卒業後、大動物専門病院での勤務を経て協力隊に参加。ブータンでの協力隊活動から帰国後は動物用の医薬品を扱う会社に勤務。セミナーや講習会でブータンの家畜飼育の様子や活動について話すこともあった。結婚後は北海道に移住し、夫婦で畜産業を営んでいる。

堀内芳洋さん
堀内芳洋さん
柔道/2014年度1次隊・神奈川県出身

PROFILE
中学・高校時代、柔道に打ち込む。インドネシアに道場をつくり、子どもたちに柔道を教えている日本人がいることを知り、現地を訪問。その後、柔道着を持ってアジアを旅するようになる。ネパールの児童養護施設では、停電中も懐中電灯の明かりをともして柔道に打ち込む姿を見て、感銘を受けた。協力隊参加後も選手を帯同して国際大会などに参加し、2019年に東京で開かれた世界選手権でもブータンの選手のコーチを務めた。

山中睦子さん
山中睦子さん
スリランカ/婦人子供服/1988年度1次隊、SV/スリランカ/文化/2007年度0次隊、SV/ブータン/手工芸/2018年度3次隊→2021年度7次隊・栃木県出身

PROFILE
デザイン学校卒業後、アパレル業界の仕事に従事。しかし海外への興味が強く、オーストラリアでのワーキングホリデーなどを経験した後、協力隊でスリランカへ。その後、スリランカで20年近く働き、デザイン関連や国際協力関連の仕事に従事。日本の障害者施設で織物などの指導をしたこともあり、2019年1月にブータンへ派遣されたが、新型コロナウイルス感染拡大のため20年3月に帰国。現在再派遣中。

旧「冬の王宮」の改築に従事
絆深め要請以上の成果に

平山さんが携わった、プナカ・ゾンの改修工事の様子

平山さんが携わった、プナカ・ゾンの改修工事の様子

   ブータンへの協力隊の派遣が始まって5年後の1993年7月、平山修一さんは建築施工隊員としてブータンに赴いた。平山さんが着任したのは、ブータンの古都、プナカ。55年までブータンでは冬期は首都がプナカに移動していた。ブータン各地には役所の機能も兼ねた城「ゾン」がある。かつて冬の王宮でもあった内務省プナカ城改築工事現場事務所が配属先だった。

   平山さんの要請内容は「コンクリート造りの城の改築」だったが、プナカ・ゾンは木造、石積み。コンクリート製の梁を組み込み、城全体の耐震性を高めてほしいとの要請だったが、「木造や石積みの構造計算はやったことがありませんでした」。初めは「新しい技術者が来た」と周りに集まってきたブータン人技術者は一人、また一人と離れていった。近くを流れる川の岸辺でため息をついたことも少なくなかったという。

   わからない部分を埋めるため、隊員連絡所にあった建築技術の本を読み、「ありとあらゆる方に聞きました」。首都勤務の建築隊員や日本の技術者、ブータン政府で働くインド人技術者のもとにも押しかけた。ゾンの改修の全体像を描き、本来業務ではない川の堤防の設計もこなした。日本式の資材管理や工程管理、安全管理などを地道に指導しているうち、「平山は仕事ができる」と周囲の評価も変わっていった。

   平山さんとブータン人の絆は、二つのアクシデントでさらに深まった。

   その一つは、着任半年後に起きた作業員宿舎の火災。多くの作業員がぼうぜんとする中、「水中ポンプで川の水をかけろ」「中に人が残されていないか、声をかけて」と陣頭で指示を出した。火災で私財をすべて失った作業員もいたが、平山さんの的確な指示で助かった命もあった。

   その半年後、隊員会議でティンプーへ上京した帰り、車をチャーターしてプナカへ戻る途中。標高3150メートルのドチュラ峠で異変に気づいた。谷底にバスが落下していた。車内の皆で救出を始めた。スコップを持って通路を整備しながら谷底に下り、負傷者を運び上げた。救出した一人はプナカの高僧だったが、ティンプーの病院へ運ぶ途中で息を引き取った。

   平山さん自身はその一件を周囲に話さなかったが、やがて話が広まり、平山さんはプナカの人たちに仲間として接してもらえるようになった。「目の前のことに対応しただけ。でも、この一件の後からは仕事もやりやすくなりました」。

1994年当時の皇太子(現在のジグミ・ケサル・ナムギャル・ワンチュク国王陛下=左)が公務でプナカ・ゾンを訪れた際の一枚

1994年当時の皇太子(現在のジグミ・ケサル・ナムギャル・ワンチュク国王陛下=左)が公務でプナカ・ゾンを訪れた際の一枚

   その後、積極的に食事は作業員の家で、一緒に食べるようにした。火災の時に着ていた一張羅のダウンジャケットは、火の粉で何カ所も穴があいたが、そのダウンを着続けた。

   改修工事では、案をまとめた後に「もっと内装を工夫してほしい」「この辺りに龍のデザインが欲しい」など、さまざまな要望が出されたが、「現地の人が納得してくれる成果を出したい」と根気強く対応した。「当時の隊員の美学として、皆、『協力隊は黒子。記録に残らなくても、相手の記憶に残ることをやる』という思いで活動していました」。

   工事は任期中に終わるものではなく、平山さんはブータンを離れた。2003年、シニア建築隊員として教育省で、学校の設計に取り組んでいる時、偶然にもプナカ・ゾンの落慶法要が開かれることになり、平山さんも参列した。当時の国王が「なぜこの法要の席に日本人が座っているのか」と聞いた。隣の席に座った村長が「この人がゾンを修復してくれたのです」と答えた。その言葉に、「この仕事をやり遂げてよかった」と感じたという。

   21年、ブータンの留学生を受け入れている長野県の高校から「プナカ出身の留学生がいる」と連絡があった。オンラインで面会すると、その留学生は「プナカ・ゾンを修復した日本人がいたと両親から聞いています」と話した。活動の「記憶」は、しっかりと受け継がれていた。

酪農家の生活向上へ
牛の人工授精の体制改善

   ブータンを代表する料理といえば、唐辛子(ゾンカ語でエマ)とチーズ(同ダツィ)を煮込んだエマダツィ。ブータンの人々はチーズをよく食べる。このため酪農業による乳製品生産は重要であるが、多くを輸入に頼っている。

   2010年、ブータン中央部4県の農業分野の調査研究と普及を担うジャカール農業試験場(農業省所管)に配属、外来種の人工授精の普及により、生産性の低い在来種の品種改良を進め、生乳の生産拡大に取り組んだのが、家畜飼育隊員の白木伸子さんだ。

ジャージー牛の人工授精をする白木さん

ジャージー牛の人工授精をする白木さん

   課題の一つはすぐに見えた。この地域では配属先以外にも人工授精を推進する機関が複数あった。配属先はジャージー種、それ以外はブラウンスイス種、在来種を対象とし、それぞれが対象牛を選定し、種類ごとに異なるスタッフが人工授精を担当していた。このため人工授精のために農家へ行ってから、「これは自分の担当ではない」と作業中止になることがあった。一方、飼育農家も、牛の品種や、どの牛が人工授精の対象かもわかっていない状態だった。これを解決すべく人工授精業務を行う複数の機関を合併し、新たな人工授精サービスセンターを設立させ、地域の人工授精業務を一手に担った。こうして農家まで行って人工授精が行われないという問題を回避した。

   また移動は簡単なものではなかった。雌牛が発情すると農家からセンターへ電話が入る。朝に発情すれば遅くとも夕方までには人工授精する必要があるが、人工授精チーム専用の車があるわけではなく、各機関で4台ほどの車を融通し合わなければならない。出張に出ている車、ガソリンが切れていたり故障していたりする車もある。ドライバーの確保も必要だ。「器材を手に歩いて行ったこともありました」。

   車が入れないところもあり、そうした場合は、中間地点まで農家には牛を連れてきてもらい、白木さんたちは凍結精液が入ったタンクなどの器材を積んで、中間地点に急いだ。

   人工授精は、雌牛の発情を確認した上で、解凍した精液を子宮内に注入し、「種付け」をする。この作業をできるようになるにはトレーニングが必要であり経験の少ないスタッフへの教育も行った。また人工授精後、受胎したかどうかを判定する妊娠鑑定は獣医の資格を持つ人に限られるが、ブータンには獣医を養成する学校はないため、白木さんの存在は大きかった。

   着任して1年が過ぎた11年3月、東日本大震災が起きた。「マダム、大丈夫?」と周囲の人たちが声をかけてくれた。宮城県出身の白木さんが「地元」と答えると、「家族は大丈夫か、とみんなが心配してくれた」という。ジャカールのお寺では「日本の人が早く回復するように」と祈る法要(プジャ)も開かれ、白木さんも参加した。一時帰国する時には、お見舞いと励ましのメッセージを託してくれた。

   2年の任期が終わる頃には、牛の種別に関係なく人工授精するやり方も「このほうがいいよね」と同僚にも理解され、「仕事や技術に対する向き合い方も少し変わってきた」と感じた。

世界で競える選手の育成を目指し
本心抑えて厳しい指導に徹する

   東日本大震災後の2011年11月、ブータンのワンチュク国王が王妃と共に初めて来日した。国会で「このような不幸からより強く、より大きく立ち上がれる国があるとすれば、それは日本と日本国民です」と演説し、被災地となった福島で祈りを捧げたほか、柔道の総本山・講道館を視察した。柔道経験者のワンチュク国王には「柔道を青少年教育に取り入れたい」との思いがあったとされる。

屋外にもマットを敷き、柔道の指導を行った

屋外にもマットを敷き、柔道の指導を行った

   ブータン国王の講道館訪問を知り、「いつかブータンで柔道を教えたい」と思った一人が堀内芳洋さんだった。その2年後、ブータンで初の柔道隊員の募集を見つけて応募。14年7月、柔道の指導と普及のため、ブータンオリンピック委員会に配属され、柔道協会と共に活動した。

   ブータンには隊員派遣の前に日本人の柔道指導者が2人滞在していたが、競技力はまだ高くなかった。「子どもたちとわいわい楽しくやりたい」という気持ちもあったが、ブータンの柔道を前に進めるため、「できるだけ厳しい指導者でいよう」と少し距離を取って接することを決めた。その方針には協会長らも同意してくれた。

   道場には30~40人の子どもたちが通っていた。堀内さんは、基礎的な練習を大切にして、互いに技をかけ合う自由練習「乱取り」もみっちりやった。

   練習には、ブータンの自然や文化を生かしたものも取り入れた。裏山の頂上にある寺院まで険しい道を駆け上がり、道場まで戻るというトレーニングもその一つ。「お祈りもできて、体も鍛えられるので、一石二鳥でした」。

   厳しい指導を実践したが、ブータンの国民性は、「人を押しのけてでも勝つというような価値観とは正反対でした」と堀内さんは言う。リレー選手の選抜に漏れた生徒が「私、やりたかったのに」と言うと、選ばれた選手が譲ってしまうこともあったと聞いた。

   モチベーションを高めるため、次に堀内さんが重視したのが、実戦の経験を積むことだった。対戦相手を求めて向かった遠征先は、以前から私的に交流のあったネパール。結果は四つのメダルの獲得、と順調な滑り出しだったが、同時に悔しさも味わった。互いに高め合う相手の存在と自分たちの可能性を知った子どもたちは、その後の稽古にも一層の熱が入ったという。

ティンプーの寺院で年に1度行われるツェチュ祭の様子

ティンプーの寺院で年に1度行われるツェチュ祭の様子

   支援を受け、シンガポールや日本にも行った。試合後は、録画した試合の映像を見せて、練習に生かすようにした。国外遠征は、柔道の普及にも効果的だった。国外の試合に出場すれば、メディアでも報道された。柔道普及のために、近隣の学校や多くの人が集まる「日本週間」(日本大使館、JICAブータン事務所などが共催)で、デモンストレーションもした。伝統的な柔道の形に、音楽や器械体操、寸劇の要素も取り入れ、現地の人が関心を持つように工夫した。

   厳しい指導がブータンに合っているのか、悩むこともあったが、その成果を確信できたのは任期が終わってからだった。帰国直後の16年8月、ブータンの世界柔道連盟とアジア柔道連盟への加盟が承認された。国外遠征を含む活発な活動が評価された形だ。公式大会に参加できるようになり、19年に東京で開かれた世界選手権には3人の教え子が出場した。さらに21年の東京オリンピックにも1人が出場し、健闘を見せた。

   帰国の際、空港まで見送りに来てくれた教え子たちに「本当はもっと仲良く接したかった」と本心を打ち明けようとしたが、迷った結果、「厳しい先生」のまま、ブータンを後にした。当時の選手たちは現在、指導者として次の世代の育成に当たっている。そのうちの一人が協会長にこう言ったという。「あの時、コーチがなぜあんなに厳しかったか、今はわかる」。日本の柔道の技術と心は、堀内さんが離れた今も、ブータンで受け継がれている。

障害者施設でぬいぐるみ製作
甘えを排して品質追求

   首都ティンプーにあるNGO運営の障害児・者職業訓練学校「ダクツォ職業訓練センター」に配属され、ホテルに卸すぬいぐるみなどの開発と製作の指導をしているのが、手工芸隊員の山中睦子さんだ。「好きなことをやって皆さんに喜ばれて本当に楽しい」と声を弾ませて話す。

上:ぬいぐるみに綿を詰め、民族衣装のゴを着せる生徒ら。下:ヒョウの目と鼻はファブラボの3Dプリンタで作った

上:ぬいぐるみに綿を詰め、民族衣装のゴを着せる生徒ら。下:ヒョウの目と鼻はファブラボの3Dプリンタで作った

   2019年にブータンに最初に着任した時は、バッグや財布のデザインや製作に関わった。しかし、販売や受注には、なかなか結びつかなかった。

   そんな中、ぬいぐるみを教えていた先生が病気のため休職することになり、上司から山中さんへぬいぐるみ製作指導の打診があった。これまでぬいぐるみの製作経験はなかったが、平面を立体にする仕事をしていたため、応用ができた。

   山中さんのぬいぐるみは、国連開発計画(UNDP)担当者の目に留まり、ブータン国内にある高級ホテルからの発注につながった。

   最初から、ゾウのぬいぐるみ1000個という大量発注だった。ホテルの土産物店に置かれるのではなく、アメニティとして客室に置かれ、納品した分の金額がもらえるという。

   前任の先生の頃から少しずつ別のホテルにぬいぐるみを卸していたが、数量はわずかで、障害者が作った商品だからと、品質に重きを置いていなかった。このゾウの受注は配属先の誰にとっても、品質、数量共に初めての経験だった。生産者は同僚の先生たちと生徒、そして卒業生だ。山中さんは誰もが簡単に作れて一定の品質基準を満たせるようにと試行錯誤で試作を繰り返し、型紙を作り、縫製方法も熟慮した。

   裁断を間違えないよう、生地ごとに型紙の色を変え、柄合わせの位置なども型紙に指示した。目や口の刺繍の位置、耳の位置なども専用の定規を作り統一させた。そうした準備が功を奏し、1000個分がかつてない早さで納品でき、その後も継続発注されている。

   今ではブータンを代表する動物のターキンやオグロヅル、複数の絶滅危惧種や、ブータンで助け合いを意味する4種類の動物(ゾウ、サル、ウサギ、キジ)などのぬいぐるみも商品化された。

   学校には、幼児から40歳くらいまで、身体障害、知的障害、自閉症、ダウン症など、約40人の障害者が通ってくる。障害の程度や適性を見ながら担当する作業を決めている。あるダウン症の男子は、ぬいぐるみに綿を詰めた後に、口を留める作業を担当した。作業に慣れ、「僕、こんなに上手になったよ」と自慢げに話しかけてきたことがあった。「すごくかわいらしかったし、嬉しかったです」。

   ブータンでは、日本ならすぐに入手できるようなボタンやフックのような小物が、手に入らないことも多い。そんな時に、3Dプリンタを活用してパーツを作成してみようと、デジタルものづくり工房(ファブラボ)との連携も試みた。JICAが支援している科学技術単科大学(CST)内のファブラボCSTと連携し、ゾウの目や、国王誕生日の贈答品として短い納期で注文を受けたトラの目・鼻を作った。

   納品に行ったスタッフがホテルから「ずいぶん質が変わって良くなったね。前とは違うね」と声をかけられた。山中さんの同僚からも、こんな声があがっている。「忙しくなったけど、製品の質も上がって、仕事が楽しくなった」。

   残る任期、山中さんは工業用ミシンなども導入し、さらに成果を高めていきたいと考えている。


ワンチュク国王も参列して派遣35周年式典
「日本や協力隊には愛着」のお話も

右:記念式典時の派遣中隊員28人と、ジグミ・ケサル・ナムギャル・ワンチュク第5代国王(前列中央)、ロテ・ツェリン前首相(前列右から3番目)、中村俊之JICA理事長特別補佐(前列右から2番目)、カルマ・ハム・ドルジ人事院長官、鈴木浩在インド対ブータン大使(前列左から3番目)、山田智之JICAブータン事務所長(前列左から2番目)左:ブータン国王へのJICAブータン事務所による事業説明

右:記念式典時の派遣中隊員28人と、ジグミ・ケサル・ナムギャル・ワンチュク第5代国王(前列中央)、ロテ・ツェリン前首相(前列右から3番目)、中村俊之JICA理事長特別補佐(前列右から2番目)、カルマ・ハム・ドルジ人事院長官、鈴木浩在インド対ブータン大使(前列左から3番目)、山田智之JICAブータン事務所長(前列左から2番目)   左:ブータン国王へのJICAブータン事務所による事業説明


   ブータンへの協力隊派遣35周年を記念し、歴史と成果を振り返る式典が2023年10月27日、JICAブータン事務所の主催で開かれ、ブータンのジグミ・ケサル・ナムギャル・ワンチュク第5代国王も参加された。日本側は、派遣中の海外協力隊員28人が1人は和服、他はブータンの正装である民族衣装、ゴまたはキラを着て参加。来賓は合わせて140人にも上った。

   ワンチュク国王は「先代国王の命により、13歳で公務を始めましたが、最初の公務がJICA海外協力隊の記念式典への参加でした。この時、多くの日本人ボランティアと交流し、彼らのブータンへの貢献の様子を知ることができました」というエピソードを交え、「日本や海外協力隊へは特別な愛着を抱いている」とお話しされた。

「今回の式典でお話を聞くまで存じ上げなかったことですが、あらためて親近感を深く感じました」(JICAブータン事務所・山田智之所長)

ブータン国王から派遣中ボランティアへのお話の様子

ブータン国王から派遣中ボランティアへのお話の様子

   式典では、派遣中の隊員による発表、写真パネルやビデオによる協力隊事業の説明、田中明彦JICA理事長のビデオメッセージの紹介なども行われた。ワンチュク国王はこれらに耳を傾けた後、28人の隊員、一人ひとりに直接、声をかけられた。隊員の指導を受けている生徒による柔道のデモンストレーションや隊員によるソーラン節のパフォーマンスも披露された。

   式典には手工芸隊員の山中睦子さんも参加した。山中さんが指導し、絶滅が危惧される動物への関心を高めるために配属先の障害者たちが作ったレッサーパンダのぬいぐるみも会場に飾られていた。ワンチュク国王は、ぬいぐるみを手に取り、「もらっていいか?」と聞かれた。「もしかすると、お生まれになったばかりのソナム・ヤンデン王女がそのぬいぐるみで遊ばれるかもしれません」(山中さん)。

   国王も参加した式典の様子は、メディアやSNSで広く伝えられた。山田所長は「こうした式典に国王が参加されるのは、おそらく初めてのことと思われます。非常にありがたく、名誉なことだと考えています」と振り返る。

Text=三澤一孔 写真提供=ご協力いただいた各位

知られざるストーリー