公益社団法人中越防災安全推進機構復興支援から防災へ
きおくを未来へ繋ぐ

  • グローバル人材の育成・確保

中越地震からの復興を目指し立ち上がった中越防災安全推進機構。防災・災害復興支援を専門とする中間支援組織として、日本の災害支援・復興支援に果たした役割は大きい。2024年で中越地震から20周年。2007年に発足した同機構は、地域に根ざした活動を継承し、防災の産業化を目指しているという。今回、事務局長の諸橋和行さんからお話を聞くなかで、JICA海外協力隊の経験者が災害支援の現場で重要な役割を果たしていたことが分かった。当機構でマネージャーとして活躍する元グアテマラ隊員の河内毅さんの思いも交えてご紹介する。

地域に根ざした活動を受け継ぐ

もし2004年の新潟県中越地震が起きなかったら、当機構は存在していなかったでしょう。阪神・淡路大震災と比較すると、中越地震の死者数や被害額は桁違いに低かったものの、過疎高齢化の進む中山間地帯を襲ったことで、復興対策において過去に例がない深刻な課題が生じました。そこで、長岡市を拠点にする3つの大学、1つの高専、1つの国立研究所が力を合わせて被災地の復興を目指す気運が高まり、当機構が関係機関や復興人材を取りまとめる中心的な役割を担う組織として誕生しました。

また、当機構の成り立ちを語る上で忘れてはならないのは、「中越復興市民会議(以下、市民会議)」という任意団体の存在です。中越地震では、行政と地域住民の架け橋となる中間支援組織の存在が高く評価されていますが、市民会議のメンバーも震災復興の過程で被災地に足しげく通い、地域住民主体の復興を支援してきました。

草の根レベルでの活動の限界を補う目的もあり、やがて市民会議が当機構へ合流することとなりました。今となっては、地域おこし協力隊という制度も生まれ地域振興における人材採用に重きが置かれていますが、当時は、災害復旧といえばハードが優先。こうしたなかで、復興人材の育成が重要視されそこに公的資金が投入されたこととしては、当機構の事例が先駆けだったように思います。

このように、当機構はにわかに立ち上がった組織ではありますが、もともと地域に根ざして様々な課題に取り組んできた人たちが関わっていることに特徴があります。私と河内さんとの出会いも当機構が最初ではなく、雪氷災害の専門家たちが始めた「越後雪かき道場(以下、雪かき道場)」の活動がきっかけでした。

中越地震の翌年、長岡市は20年ぶりの豪雪に見舞われ、全国からボランティアが駆けつけてくれました。しかし、雪かきは雪に不慣れな地域の人は雪かきの即戦力にはならないことから、ボランティアの受け入れをすることができませんでした。だったら、ボランティアたちに雪かきを指導する仕組みを作ろうということで雪かき道場が立ち上がりました。このとき、私はまだ東京のシンクタンクに勤めていて、長岡市と二拠点生活をしながら、ライフワークとして雪氷災害の課題に取り組んでいました。一方で、地域づくりをしたいと長岡市にやってきたのが河内さんでした。やがて、長岡市を拠点に復興や災害といったキーワードで活動を続けるなかでお互いに顔なじみとなり、現在は、当機構の職員として共に仕事をしています。

事務局長の諸橋和行さん

復興支援から地域の防災
担い手育成へ

復興から防災へ、事業の視点が移ろうとしていた頃、2011年の東日本大震災が発生しました。当機構も、「東日本大震災ボランティアバックアップセンター(以下、バックアップセンター)」を開設し、長岡市から物資や人材を効率的・効果的に被災地へ届けるチーム支援の仕組みを構築。その後、市内に設けられた避難所の運営や、そこでの被災者支援の仕事も担うようになりました。また、陸前高田市に拠点を置き、住み込み型の復興支援にも取り組みました。

先に述べたとおり、当機構の活動には、地域の課題を解決したいという思いを持つ人たちが集まっています。これにより専門性を持って機動力を発揮できる人材がいることが強みですが、東日本大震災のときは、バックアップセンターに常駐して調整業務を行える人材が不足していました。そこで、希望の光となったのが帰国直後の協力隊経験者でした。

当時、バックアップセンターの運営において中心的な役割を果たしていたうちの一人が、協力隊経験者である私の妻でした。彼女のアイデアで、全国の帰国隊員にヘルプを呼びかけたところ、期待どおり3人が手を挙げてくれました。私自身、日頃から妻や河内さんと接していても、彼らのなかで協力隊経験がどう活かされているのかほとんど気づくことはありませんが、災害支援と協力隊活動との間には共通のマインドがあり、協力隊経験者の彼らはそのことをよく分かっていたのでしょうね。

残念ながら東日本大震災以降も、全国で自然災害は後を絶ちません。そのたびに、私たちは中越地震の経験を活かせることを望んでいますが、そこには国や県・市などの行政との連携が欠かせないことを経験として学んできました。2015年に起きた熊本地震では、限られた予算のなかで何ができるか考えていたとき、当時の市長から電話があり「熊本市から正式な要請はないが支援に行くので協力してほしい。」ということで、すぐに避難所運営の人材を長岡市から送ることができました。

また、復興に関わる知見は、ボランティア元年といわれた阪神・淡路大震災からの積み重ねによるものだということも忘れてはならないでしょう。長年、復興活動に関わっていると、こうした知見が脈々と受け継がれていることを実感する一方で、自分たちの経験を活かされないもどかしい思いもしてきました。それは多分、災害の規模や被災の状況が異なり、災害が起きてはじめて分かることが少なくないからだと思います。

こうした経験を踏まえ、全国では珍しい防災活動の中間支援組織としてこれから私たちが力を入れていきたいのは平時の活動です。中越地震の記録を伝えるアーカイブセンター「きおくみらい」と災害の教訓を踏まえて地域の防災力を強化するための「地域防災力センター」、そして地域の担い手を育成する「にいがたイナカレッジ」の3つが、現在の大きな事業の柱となっています。

JICAボランティア経験者から

マネージャー 河内毅さん
(グアテマラ/森林経営・村落開発普及員/2002・2005年度派遣)

地域に根ざした活動を継承し
防災の産業化を目指したい

現在、私が関心を寄せて取り組んでいるのは、防災の産業化です。災害が発生すると、行政だけでは解決できない様々な問題が発生します。そこで、当機構がこれまで直面してきた事例をもとに課題を洗い出し、企業と協力して事前にできる対策づくりに取り組んでいます。

例えば、物流におけるラストマイルの問題です。災害が発生すると物流が混乱し、物資が被災地に届かないことがあります。この問題を行政だけで解決することは難しいのですが、物流の専門的な知見を持つ民間の物流業者を結びつけることで解決につなげられる可能性が高まります。私達が直接的に物流の課題を解決することは難しいですが、行政と企業の間に入り、そのコーディネートをすることにより、災害時の課題の解決につなげていきたいと考えています。また、ローリングストックの促進にも取り組んでいます。避難所では食料が足りず、避難してきた人たちに十分に行き渡らないということが起こります。これは、日頃からご家庭でも食べたら補充することで常に家庭に備蓄がある状態を作ることができれば緩和できる問題です。これを実現するために行政による啓発だけでなく、店頭でもローリングストックのポスターなどを展示して啓蒙してもらうなど、企業と連携した取り組みを進めています。

こうした動きを、新潟県内だけに留めるのではなく、新潟県発の防災のあり方として全国に広めていきたいというのが、私が目指していることのひとつです。現在、新潟県は「防災産業クラスター形成事業」という産官学連携のプラットフォームづくりを進めています。県が音頭をとり、そのなかで当機構がコーディネーター役として立ち回れることは大変ありがたいです。しかし一方で、地域に根ざして活動してきた私たちからすると、痒いところに手が届かないもどかしさも感じています。予算がもっとあれば解決できるといってしまえばそれまでですが、そこには自分たちの知見の無さもあるのではないかと考えています。

例えば、ローリングストックを啓蒙するためには、必要性を訴えるだけでなく、ムーブメントを仕掛けるパブリックリレーションも重要な施策です。広告を出せる予算とマーケティングの知見が自分たちにあれば、もっと違う展開が期待できるのではないかと考えています。自己研鑽に力を入れ、防災に貢献できる持続可能な事業の仕組みを作っていくことが現在の当機構や私自身の課題です。

現在10人弱いるスタッフは、全員が前向きな思考で問題解決ができるメンタリティを持っているので、私が何も言わなくても、自然に良い方向に向かっていくのは容易に想像できます。これはまさに、諸橋事務局長が作り上げてきた自主性を重んじる風土の成果です。

しかし、こうした属人性がいつまでも続く保証はどこにもありません。ときには厳しい見方をしてリスクマネジメントをすることも私の大切な役割だと認識しています。そのための第一歩が、センター長を若手に譲ったことにあります。全国に類を見ない防災を扱う中間支援組織としてロールモデルになるためにも、スタッフ全員で膝を突き合わせて、あらためて組織のあり方を見つめ直していきたいです。

マネージャーの河内毅さん

日本の農村に意識を向ける
きっかけとなった協力隊活動

グアテマラの農村では、いつも子どもたちが元気に走り回っているような活発な地域の姿を見てきました。日本とは対照的で素敵だなと思った瞬間、自分自身が日本のことを何も知らないことに気がつきました。そう思ったら、無知な自分が海外の地域開発に関わっていることが恥ずかしく思えてきました。そこで、帰国したら地域に身を置いて、社会起業のノウハウを身につけたいと考えるようになりました。学べる機会を探して巡り合ったのが、社会創造をテーマにする政策学校でした。その中で、農村と都市をつなぐプロジェクトを立ち上げ、そこで出会ったのが新潟県の中越地域でした。

その後、ひょんなことから市民会議のスタッフにならないかと声がかかり、中越地震の復興に携わることになりました。市民会議に入った2007年は、中越地震の仮設住宅が閉鎖され、住民の皆さんが地域に戻って復興が本格的に進められようとしていた時期でした。実際、地域での復興支援という活動はどのようなものかよくわかってはいませんでしたが、協力隊時代に地域住民の声を聞きながら活動を作り上げてきた経験と共通する点があるのではないかと考え、中越に移ることを決めました。

現在の仕事とグアテマラでの協力隊活動は、似ていると感じることはとても多いです。ひとつは復興や地域づくりなどに関わる仲間達です。自発的に様々な活動を行う仲間達と一緒にいると、協力隊の仲間といたときの感覚を思い出します。もうひとつは、田舎に行けば行くほど人々の温かさを感じることです。グアテマラでは、地域を巡回して炭焼きの指導をしたり、住民の生活向上支援のための活動をしたりしていましたが、住民の温かさに助けられることが多々ありました。それは今の活動も同じです。人々の温かさに触れたことによって、私自身も人を元気づけるエンパワメントの力を身につけることができました。その経験は、確実に今の仕事に活かされていると感じています。

私が協力隊活動で学んだことは、異文化のなかで自分の価値観を押し通さないことや、自分から主体的に動くことの重要性です。なかでも、自ら人生を切り開く能動的な生き方を知ったことは大きいです。援助なれという言葉を聞きますが、私がグアテマラで実際に出会った農民たちは、家族を養うためにリスクをとって行動しようとする逞しい人々でした。グアテマラの農民の生きる姿は、私たち日本人が忘れかけている何かを伝えてくれるような気がします。

グアテマラで森林経営と村落開発普及員隊員として活動した
河内毅さん

※このインタビューは、2023年8月に行われたものです。

PROFILE

公益社団法人中越防災安全推進機構
所在地:新潟県長岡市大手通2丁目6番地
事業内容:中越地域の教育、研究機関の集積、中越地震に関する記録や研究活動の推進・支援等
協力隊経験者:1名在籍

HP:https://www.cosss.jp/

 
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