株式会社イートラスト防災と環境の分野で時代を見据えた変革を起こす社長と
それを支えるJICA海外協力隊経験者

  • グローバル人材の育成・確保
  • 開発途上国でのビジネス展開

新潟県長岡市で長年、地域の防災・環境に寄与してきた「株式会社イートラスト」。携帯電話が身近になりはじめた時代に、通信技術を応用した防災システムを社長自らが考案。安価で簡易な防災システムは、瞬く間に海を越え、今も開発途上国の河川を見守り続けている。そんな画期的なアイデアを生み出した社長の酒井龍市さんに、海外事業を支えるJICA海外協力隊経験者について話を伺った。

変革の鍵は“できない”ではなく
“どうしたらいいか”で行動すること

弊社は、新潟県長岡市において、防災や環境に関わる分野で電気工事と無線工事を手掛けてきた2つの会社が経営統合し、2007年に設立されました。本社は東京都においていますが、本店というかたちで長岡市を拠点に事業を続けています。

統合する少し前の2000年頃、携帯電話の回線をうまく利用できたらもっと利便性の高い防災システムが作れるのではないかと閃き、現在、海外でも使われているクラウド型防災カメラ監視システムの原型が誕生しました。当初は、信濃川の支流を見守るために試作したシステムですが、その後、改良を重ね、今では全国の河川に約2300台を設置するに至っています。海外でも、スペックや規模はそれぞれ異なりますが、フィリピン、バングラデシュ、ミャンマー、ブラジルなどで類似のシステムが導入されています。

当監視システムが誕生した背景には、1999年~2000年に起こったいわゆるインターネット・バブルがあります。多くの企業がホームページやメールなどの導入に躍起になっていた時代です。私たちも、この流れに乗って「何かできないか」と頭を悩ませていました。長岡市ですから、名産のお米を使っておにぎりでも売ろうかと真面目に話し合ったこともありましたね。

そうしたなか、たまたま市内の水門を無線でコントロールする仕組みが作れないかという相談が、弊社前身の株式会社酒井無線に届きました。それで、そういうことであれば無線ではなく、携帯電話向けのネットサービスのほうが良いのでは、とお返事したのがはじまりです。ちょうどカメラ付き携帯電話が主流となり、個人でも写メとよばれる静止画のやりとりが盛んに行われはじめた頃だったので、画期的なアイデアだと受け入れてくださいました。

今となってはイノベーションなどといわれますが、ずっと携帯電話の通信技術に関心があった私にとっては、あまりにもシンプルな発想だったので、当時のみなさんの反応にはとても驚いたのを覚えています。この相談を受けたとき、既に従来の無線技術では水門のコントロールに限界があることが分かっていました。しかし、そこで「できない」と言わずに「どうしたらできるか」を考えたことで道が切り開かれたのだと思います。

当監視システムの海外展開がスタートしたのも、「できない」といわなかったことがきっかけです。ある大学の先生が、当システムは大規模な工事を必要としないから開発途上国での運用に適しているのではないか、という気づきを与えてくれました。当時、途上国の事情や語学に長けた社員はほとんどいませんでしたが、新潟県中越地震や東日本大震災を経験した弊社としては「防災のためにお役に立ちたい」「経験と技術があれば何とかなる」という気持ちで社員をかき集め、長岡市とともにJICA草の根技術協力事業に応募し、採択となりました。

代表取締役社長の酒井さん

“できない”では通用しない海外事業の厳しい現実
胆力のある協力隊経験者に期待したい

弊社が協力隊経験者を採用するきっかけとなったのが、JICA草の根技術協力事業でスタートした海外事業です。それまではずっと、日本の地方にしか目を向けてこなかったので、海外展開はまったく視野に入っていませんでした。しかし、フィリピンにおける防災システムのパイロット事業に関わったことで、これまで自分たちが専門でやってきた防災や気象は世界共通の課題だということに気づかされました。そして、その市場に当社のような中小企業が立ち向かうためには、自信がないから「できない」では通用しないことを学びました。

現在、当社でこうした海外事業を支えてくれているのが、協力隊経験者の鈴木さんです。弊社に限らず、日本のすばらしい技術を世界に伝えていくためには、胆力のある協力隊経験者はその役目を担うのに相応しい人材だと思います。

ところで、酒井無線を立ち上げたのは私の実父です。防災無線の修理に勤しむ父親の背中を見て育った私は、気がついたときには防災がライフワークとなっていました。今は東京の本社に席を置いて社長業に専念していますが、時間があれば地方に出かけ、水門を見ながら橋の上でお客様と話すといった日々を過ごしています。

そうしたなかで考えさせられるのが、防災システムがどれだけ普及しても、災害はなくならないという現実です。私たちにできることは、減災です。災害で人が傷ついたり、財産を失ったりすることを少しでも食い止めることが当社の使命だと思っています。そのためには、自分たちがいまできることを精一杯やっていくしかありません。イノベーションは起こそうと思って起こるのではなく、ひとつ一つの努力の積み重ねのなかで生まれるもののはずです。海外展開についても少しずつ成果を出していければ良いと、そのように思っています。おそらく協力隊というのも、現地の人に向き合って、自分ができることを少しずつ積み重ねていく活動なのではないでしょうか。そうした経験を、当社の事業に活かせてもらえたら嬉しいです。

長年、当社は電気・通信の会社と名乗ってきましたが、今の社員には、防災や環境の会社だと胸を張っていうよう伝えています。もはや電気や通信の技術は、ツールに過ぎません。防災や環境の会社として、これからも社会に必要とされる存在であり続けたいと願っています。

JICAボランティア経験者から

海外事業部 鈴木賢さん
(ウガンダ/村落開発普及員/2009年度派遣)

異文化の暮らしに興味をもち協力隊に応募
バイクで走り回って活動していた2年間

ウガンダから帰国して10年ほど経つので、協力隊の記憶も段々とうすれてきました。日本とはまったく異なる生活環境でしたから、あの2年間はまるで夢のようです。新卒での参加でしたが、その分、技術的なことや人間関係において先入観なく活動に臨めたので、若い頃に参加できたことはとても良かったと思っています。

私は、大学時代に経済学を専攻していて、なかでも開発経済に関心がありました。1年生のときに、2週間ほどのスタディツアーで、マレーシア、インドネシア、シンガポールを巡り、それぞれの土地の暮らしに興味を持ちました。当ツアーでは、証券取引所のような経済に関わる施設を訪ね歩いていたのですが、カリキュラムの合間にふらっとひとりで街に出てみたことがあったんです。そのときに屋台で食事をしたことや、現地の人とジェスチャーを交えて会話したことが、途上国の暮らしや開発経済に惹かれるきっかけとなりました。

その後、大学の先生の影響もあって、4年生の春に協力隊に応募しました。一度は不合格になったものの、秋に再度チャレンジし、村落開発普及員隊員としてウガンダに行くことが決定しました。スタディツアーでのローカル体験が、海外にてひとりで行動することへの自信となり、のちの協力隊経験に引き継がれていった気がしています。

ウガンダでは、首都カンパラから200kmほど離れたトロロ県ナコンゲラ郡で活動をしていました。交通の便も良く、バスを乗り継いで5時間ほどで到着する地域ですが、首都の人に聞いても知っている人はほとんどいないくらいの田舎町でした。最初の思い出は、着任したのが雨季だったので、「オコース(現地語で“雨”という意味)」というあだ名をつけられたことです。ちなみに、現地では“オ”ではじまる名前が多いのが印象的でした。これが任地周辺の部族特有のものなのかどうか、今となっては知る由もないですが、協力隊に参加しなければこうした土着の文化や風習に触れることすらなかったと思うと、とても貴重な経験をさせてもらいましたね。

任地は、住民のほとんどが零細農民という第一次産業中心の地域でした。当時、換金作物としてネリカ米というアフリカの気候に合わせて改良された稲の普及プロジェクトが進行中で、収量をあげるための灌漑施設の整備が私に与えられた主な任務でした。農業のことはほとんどわからなかったので、自分にできることは住民のニーズとプロジェクトのゴールを擦り合わせていくことだと考え、貸与されたバイクでひたすら各地の農家を巡回する、そんな2年間を過ごしました。

ウガンダで村落開発普及員として活躍した鈴木さん

日本人というだけで注目の的
子どもに自分の名前をつけてくれたことが一番の思い出

なんでも楽観的に捉えていたので、大きな苦労はなかったです。なにかひとつ挙げるとしたら、任地では日本人が私ひとりだったので、どこへ行っても好奇の視線を向けられたことはストレスでした。特に、屋外にトイレがある家で暮らしていたので、用を足しに外へ出るたびに近所の人たちの注目の的になるんですよ。私の苗字「鈴木」が、バイクの「SUZUKI」として誰もが知る日本語だったことでも、とても注目されました。

ただ、親しくしていた農家で子どもが産まれたとき、その子に「SUZUKI」という名前をつけてくれたことがあり、私の名前からとったと聞いたときは胸がいっぱいになりましたね。一生忘れられない思い出です。

こうした現地の人たちとの暮らしや、協力隊活動を通して学んだことは、理解しあえる人と出会うことの大切さです。私の場合、配属先の同僚がきっかけをつくってくれて、各地に点在している農家と縁がつながりました。それでも、そこから先は自分の力で対話を重ねていくしかありません。それぞれの思惑や期待が錯綜するなかで、よき理解者を見つけることは容易なことではありませんでしたが、その結果出会った人がプロジェクトを導くキーパーソンになりました。

この経験は、現在の仕事にも大いに生かされています。昨年、当社初となるマレーシアの案件を担当したのですが、現地の業者を探すところから指示を出して進めるところまで、協力隊の活動と同じだなと思いながらやっていました。信頼関係を構築するためには、業務上の契約関係から一歩踏み出す必要があることをよくわかっていましたし、実際そのように行動できたのは、協力隊経験があったからこそだと実感しました。

今後は、自分の担当案件を、少しずつ国内から海外に広げていきたいです。もちろん、日本でも災害が頻発する状況において、多くの自治体で当社製品が減災の一助となっていることにはたいへん誇りを感じています。特に当社は、既成品ではなくカスタマイズした製品を納入するので、各地の状況に向き合って提案し、それがお役に立っていることには、とてもやりがいを感じています。ただ、当社が誇るクラウド型の防災カメラ監視システムのような製品は、海外にこそもっと需要があるのではと思ってやみません。当社の製品をもってウガンダの任地に戻る日を夢みて、頑張って仕事をしていきたいと思います。

海外事業部の鈴木賢さん

※このインタビューは、2023年2月に行われたものです。

PROFILE

株式会社イートラスト
設立:1935年
所在地:東京都台東区台東1丁目3番5号 反町商事ビルディング 6階
事業内容:国土交通省をはじめとした自治体の防災通信システムの構築、維持管理
協力隊経験者:1名在籍

HP:https://www.etrust.ne.jp/

 
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