一般財団法人日本宇宙フォーラム人と宇宙のつなぎ役「一般財団法人日本宇宙フォーラム」
中東・国際協力・宇宙、異色の経歴を持つJICA海外協力隊経験者

  • グローバル人材の育成・確保
  • 研究・教育プログラムの強化

JICA海外協力隊経験者の青木定生さんは、現在、一般財団法人日本宇宙フォーラム(以下、JSF)宇宙利用事業部で総括担当役を務めている。協力隊では、イエメンとヨルダンの2か国を経験し、いずれも写真隊員として活動した。学生の頃から中東に憧れて、協力隊へ参加。帰国後は、写真の技術と海外経験をかわれて、設立間もないJSFに入職した。今回、異色の経歴を持つ青木さんにお話を伺った。

日本宇宙フォーラムのあゆみと役割

JSFは、「人と宇宙をもっと身近に。」をテーマに掲げる非営利組織です。JSFでは、日本における様々な宇宙開発プロジェクトを支援し、宇宙実験のテーマ募集や研究者支援、ロケット打ち上げ時の広報支援、宇宙普及活動など、多岐に渡る活動を行っています。

1992年、毛利衛氏が日本人宇宙飛行士として初めてスペースシャトルで宇宙に飛び立ちました。また、1994年には向井千秋氏が宇宙へ向かい、女性初の日本人宇宙飛行士が誕生しました。こうして国民の宇宙への関心が高まりはじめ、子ども向けの絵画や作文コンテストなど各地で様々なイベントが実施されるようになりました。これに伴い、人々と宇宙を繋ぐ役目を担う団体結成の話が科学技術庁(当時)を中心に持ち上がり、JSFが誕生しました。

1998年、国際宇宙ステーション(以下、ISS)の建設がスタートしたことを機に、JSFはターニングポイントを迎えることになります。日本政府としてISSで行う宇宙実験計画を立てるためには、大学などの研究機関と宇宙開発事業団(当時。以下、NASDA)を繋ぐ研究者集団が必要であるということになり、JSFがそれらの支援業務を担う中心的な組織となっていきました。同時に、高度な後方支援を担うため、有識者らと対等に意見を交わす必要性から、博士号を持ったスタッフが多く集められるようになりました。ISSにある宇宙実験棟「きぼう」では、長きにわたって多くの科学実験が行われていますが、その支援を担っているのがJSFです。JSFの名前が表に出ることはほとんどありませんが、宇宙航空研究開発機構(以下、JAXA)と研究者たちを繋ぎ、縁の下で実験の円滑な遂行の一助となっているというがスタッフたちの自負でもあります。

2013年、JSFは一般財団法人となりました。近年、日本では宇宙ビジネスに関心が集まり、衛星画像利用など宇宙ビジネスを扱うスタートアップ企業が次々と誕生しています。また、独自に人工衛星を打ち上げる民間企業も増えてきました。現在のJSFは、こうした新しい宇宙事業に対して起業活動を支援するなど、国の方針に沿って宇宙ビジネスを盛り上げていく役目も担うようになりました。また、最近ではアジアの国々で宇宙産業強化に向けた取り組みも進んでおり、ベトナムでの宇宙事業支援などのODA事業にも参画しています。このように、JSFでは、産・学・官のネットワークと経験を活用して宇宙ビジネスのフォーラムとなることを目指し活動を続けています。

宇宙利用事業部総括担当役の
青木定生さん

カメラマンからJSF職員へ
宇宙に関わり続けて30年

JSFは、宇宙利用事業部、事業創造部、広報普及事業部の3部署と総務部で構成されています。私が所属するのは宇宙利用事業部で、岡山県にある2か所の宇宙観測施設の運営に関わっています。岡山県は瀬戸内海気候のため晴天率が高く、光学観測には最適な環境とされているのです。ひとつは光学望遠鏡で宇宙デブリと小惑星を観測する「美星スペースガードセンター」といい、ISSの建設が始まった同じ年に着工した長い歴史のある施設。もうひとつは2002年に建設がスタートしたレーダで宇宙デブリを観測する「上齋原スペースガードセンター」です。いずれも、2017年にJAXAへと移管されましたが、NPO等と連携しながらJSFにて観測及び研究プロジェクトの業務支援を続けています。

これらの施設の役割は、宇宙デブリや地球近傍小惑星の観測です。宇宙デブリとは、人工物が宇宙空間で破壊されたりして生じた破片や廃棄物のこと。地球近傍小惑星とは、太陽系内の小天体のうち、地球に接近する軌道を持つものを指します。それぞれ衝突や落下で重大な事故や被害をもたらす可能性があるため、観測や研究が重要視されています。このため365日の観測体制を維持し、一部では自動化を採用しつつ、美星スペースガードセンター人は力で観測を続けています。

このなかでの私の役割は、観測員が事故なく安心して業務に専念できるよう様々なフォローを行うことです。今はアメリカが力を持っている宇宙デブリの研究ですが、最初にその危険性を提唱したのは日本の研究者だといわれています。2000年前後には宇宙デブリを扱ったSF漫画も連載されていたほどです。とはいえ、人類はまだまだ宇宙デブリを除去するまでには至っていません。宇宙空間は公共財ですから、これからは宇宙デブリの削減に世界が協力すること、そしてそこに民間のスタートアップ企業の力が試されてくるのではないでしょうか。

さて、岡山県では年に2〜3回程度、JSFと地元の科学博物館が協力して子ども向けの実験教室を運営しています。こちらも私の担当なので、観測施設の運営と併せて数か月に1回は岡山県を訪れています。偶然、当地での業務をとおして出会った方が協力隊のサポートにも関わっていたことは、協力隊経験者の私にとってはとてもうれしい出来事でした。

私がJSFに入職したのは、今から26年以上も前。2度目の協力隊派遣でヨルダンから帰国した数か月後のことでした。当初は、国際協力を続けたくてJICAへの就職も希望していましたが、協力隊向けの進路相談などでJSFの求人を知り興味を持ちました。当時のJSFは、国民の宇宙への関心を高めていこうと盛り上がっていたので、スタッフにも専門性に拘らず機動力を持って動ける人材が求められていたのだと思います。写真についても、今では本格的な専門スタッフが担当するようなことも、協力隊経験だけあれば十分だという感じでした。もしかしたら、私は文系ではありますが大学院を出ていたので、それなりにスキルがあると思われたのかもしれません。

入職してしばらくしてから、NASDAの国際部に配属となりました。世界の宇宙事業に関する情報を集めNASDAのイントラネットで公開したり、調査活動に関わりました。協力隊でアラビア語を使っていた私は英語に苦手意識があったので、NASDAでの仕事ではたびたび苦戦させられました。写真という職種で活動していた私にとって宇宙はまったくの畑違いではありましたが、今ではすっかり宇宙特に宇宙デブリが自分の専門分野となり、JSFでも一番の古株になりました。

アラブ圏に魅了され協力隊へ
中東2か国で経験した協力隊の思い出

私が協力隊を志したのは、大学生の頃でした。研究者になるつもりは無かったのですが、アラブ圏が好きで研究のため大学院へ進学しました。その頃は、中東に行きたいと思っても今ほど目立った活動をしているNGOも少なくて、協力隊しか選択肢がなかったのだと思います。しかし、そのまま協力隊に参加しても帰国後に仕事に在りつけるか不安があり、一度はIT系の企業に就職しました。1年半程勤めた後、大学院の恩師の紹介で議会史を編さんする仕事へと転職。そこで働きながら、夜間に写真の専門学校に通いました。こうして協力隊に行きたいと思ってから随分と時間が経ってしまったのですが、運よく考古学に関する写真の知識も得られ、中東・イエメンの国立博物館の募集に応募して、派遣が決まりました。

私がアラブ圏に魅了されたのは、中東諸国の歴史が日本の歩みと共通していると感じたからです。西洋の観点から東洋を見ることをオリエンタリズムというのですが、同様の視点で中東を捉えると、中東が置かれている状況を俯瞰でき外交政策にまで掘り下げることができるのです。とはいえ、所詮は机上の学問に過ぎません。イエメンに到着した日、空港のトイレで紙ではなく左手を使うことを促されたとき、はじめて知識が現実になったことを実感しました。私が協力隊で経験した中東2か国は、アラビア語であってもそれぞれ少しずつ異なります。お互いが相手の言葉を方言だといっていたり、西欧諸国と絶妙な関係を保って政治を動かしていることを知ったり、足を踏み入れなければ分からなかったことは多かったです。

イエメンに派遣されてから1年半経った1994年の5月、北部と南部との内戦が勃発します。滞在していた首都サナアでは、少し前からきな臭い動きがあり、当時の調整員から警戒したほうが良いという話が出ていた矢先の出来事でした。近くでミサイルによる被害が相次ぎ、ある日、住んでいたアパートに兵士が押し寄せてきて部屋を開けるよう指示されました。それから2〜3週間のうちに、ドイツの飛行機で他の日本人と共に国外に脱出することとなりました。イエメンでは、博物館の所蔵物を撮影し、管理台帳を作るという仕事を行う予定でいたので、完成することなく帰国となってしまったのはとても心残りです。

活動半ばでの帰国となってしまった私は一時帰国扱いとなり、何人かの隊員と共に再派遣を待つこととなりました。残念ながらイエメンに戻ることは叶わず、数か月を日本で過ごした後、新規でヨルダンへの派遣が決定しました。ヨルダンでは、王立自然保護協会に所属して、記録や広報のために自然保護区の写真を撮影することに従事しました。自然保護区は、ベドウィンという民族の居住地域でもあり、彼らのキャンプに滞在するエコツーリズムなども盛んに行われていました。今でいう、グランピングの走りではないかと思います。ここで私は、外国人が容易に乗ることができないヨルダン軍のヘリコプターで野生動物の調査に同行したり、イスラエルとの国境近くを低空で撮影したり、貴重な経験をさせてもらいました。楽しい思い出ばかりですが、自然保護区の一部が地雷源だったこととは知らず、破壊されたトラックを見たときはさすがに恐怖を感じました。

2か国の協力隊活動をとおして、私は、日本とは時間の感覚が違うなかで、相手に歩調を合わせることや、全体がうまくいくように調整することの大切さを学びました。その経験は、現在に至るまで随所で活かされていると思います。スペースガードセンターの担当になってしばらく経った頃、岡山県にある観測施設の望遠鏡が不具合を起こし、大規模な改修作業が必要になったことがありました。海外製の製品を日本で修理するということで、国内メーカーの技術者や研究者を募ってプロジェクトチームが結成され、その調整を私が担当することになりました。年齢が上のメンバーを相手に、門外漢の私がプロジェクトを纏めることができたのは、やはり協力隊での異文化経験があったからだと今となっては振り返ることができます。

イエメンとヨルダンで写真隊員として活動した
青木さん

※このインタビューは、2023年8月に行われたものです。

PROFILE

一般財団法人日本宇宙フォーラム
所在地:東京都千代田区神田駿河台3-2-1 新御茶ノ水アーバントリニティビル3F
事業内容:宇宙の開発に係る科学技術及びその他の科学技術の振興に関する事業
協力隊経験者:1名在籍

HP:https://www.jsforum.or.jp/

 
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