キーコーヒー株式会社大事なのは「多様性」と「主体性」
JICA海外協力隊とキーコーヒーは相性がいい。

  • グローバル人材の育成・確保

全国各地の喫茶店で見かける「キーコーヒー」の看板。同社のフラッグシップともいえるコーヒーはインドネシア・トラジャ地方の自社農園を中心に、周辺の協力農家とともに生産している「トアルコ トラジャ」だ。1978年に発売されたロングセラー商品だが、現在はコーヒーの生産地の多くで収穫量が不安定化。気候変動の影響によるもので、このままでは2050年にはトアルコ トラジャを含む世界各地にあるアラビカ種の栽培適地が2015年比で50%にまで減少するとされている。同社では、生産地の土壌保全などを図るとともに、国際的なコーヒーの研究機関であるワールド・コーヒー・リサーチやインドネシアのコーヒー・カカオ研究所とタッグを組んで品種改良の試みを続けている。また、JICAの民間連携事業「中小企業・SDGsビジネス支援事業」1では、トラジャ地方のコーヒー生産者の実態を調査し、持続可能なコーヒー生産の実現を目指している。この取り組みの中心人物であり、JICA海外協力隊経験者でもある同社取締役 会長の川股一雄(かわまた・かずお)さん(1980年度派遣/バングラデシュ/養鶏)に話を伺った。

世界の食糧危機に関心をもった青春時代
電気すら通っていない場所で養鶏場作りに奔走

私が中学生だった1972年、国際的なシンクタンクであるローマクラブが「成長の限界」と題した報告書を発表しました。「人口増加や環境汚染などの現在の傾向が続けば、100年以内に地球上の成長は限界に達する」という警告です。栃木県で真面目な青春時代を過ごしていた私は、高校1年生でこの「成長の限界」をテーマに校内で発表をしたのを覚えています。特に食糧危機に関心がありました。

実家が養鶏農家だったこともあり、大学は農学部に進みました。第一専攻が熱帯での育種、つまりは品種改良による食糧増産。第二専攻は畜産でした。当時、途上国では動物性たんぱく質の確保が急務とされていて、淡水魚の養殖と養鶏が注目されていました。

私は第一専攻で大学院に進むことを考えていたのですが、その試験の前にJICA海外協力隊に合格。ボランティアでは品種改良に携わることは出来ないため、養鶏の要請があったバングラデシュに派遣されることになりました。今から40年以上前、1980年のことです。

当時のバングラデシュは、パキスタンから独立して10年足らずの時期でした。私の配属先は、世界銀行が8割出資している国立農業銀行でしたが、実際の職場はその銀行が融資している企業。中古車や医薬品を日本から輸入するのがメインの事業で、新規事業として養鶏場を今から作るというのです。予定の土地もあったのですが、そこには電気すら通っていませんでした。

私は、カウンターパートのアラストゥー・カーンさんと一緒に、担当省庁などに電気を通してもらう交渉に行くことから始めなければなりませんでした。彼は社長の甥っ子で、ダッカ大学の学生。社会人経験すらない若者二人がそんな大掛かりな交渉で成果を出せるはずがありません。結局、養鶏場を作る基盤すら作ることが出来ませんでした。焦燥感と徒労感にかられる、思い通りにいかない日々でしたね。


1民間企業が有する優れた技術や製品、アイディアを用いて、開発途上国が抱える課題の解決と企業の海外展開、ひいては日本経済の活性化も兼ねて実現することを目指す事業。企業の企画提案をJICAが採択し、双方間で業務委託契約を締結し実施する。現在は、①ニーズ確認調査、②ビジネス化実証事業、③普及・実証・ビジネス化事業のメニューがある。

取締役・会長の川股一雄さん

挫折ばかりの強烈な体験
社会の矛盾や不合理に耐える力を育む
悟ったのは

そんな私を救ってくれたのは、現地の農業高校に配属されていた協力隊の同期隊員でした。「川股、お前はオレんところに来て養鶏を学生に教えろ」と誘ってくれたのです。品種改良をした雄鶏を近隣の農家に配り、雌鶏と交配させ、その卵をふ化させて優秀な鶏を増やす計画。しかし、農家は配られた雄鶏を絞めてすぐに食べてしまっていました。彼らは貧しくて、鶏を育てる余裕すらなかったのです。

生活面でも強烈な経験をしました。当時、首都ダッカでもトイレットペーパーを売っている店が10軒ほどしかなく、私が下宿させてもらっていた社長宅でもトイレットペーパーがありません。すぐにA型肝炎になってしまったのですが、その入院中に大統領が殺されるというクーデターが発生し、私たち協力隊員にも退避命令が出そうになったのです。結局、退避はせずに済みましたが、病院で寝ていた身としてはすごく不安でした。

バングラデシュの公用語であるベンガル語は上達しました。なぜなら、社長宅には3歳、7歳、10歳の子どもがいて、朝から晩まで私の部屋に遊びに来ていたからです。子どもは容赦ありませんから、私が変なベンガル語を話すと手厳しく指摘します。そのおかげでベンガル語は流ちょうになりました。

アラストゥーさんの案内でダッカ大学の学生寮にもよく遊びに行き、バングラデシュの将来について学生たちと議論したものです。その時はベンガル語ではなく英語に切り替え、外国の人たちと腹を割って語り合う訓練にもなりました。

そして、一生付き合える友人が出来ました。同期の協力隊仲間はもちろんですが、アラストゥーさんはその後ケンブリッジ大学とハーバード大学でも学び、母国の経産省トップにまで上り詰め、2度も日本に遊びに来てくれたのです。最初は私の実家にご夫妻で泊まり、2度目の訪日の際は富士箱根を一緒に観光しました。

バングラデシュにいたJICAの調整員や、駐在員の方々とも家族ぐるみのお付き合いが続いています。当時の私は、活動が上手く進まないことに苛立っていたらしく、「僕の2年間をどうしてくれるんですか!」と調整員に突っかかっていたとか。「君は若いんだから大丈夫。何とでもなるから」となだめられていたようです。その奥さんたちからは、「あの頃の川股君は全てのことに怒っていたよね」と、未だに笑われています。こうした経験から、厳しい状況にあっても、温かい目線で支援してくれる人たちがいれば持ちこたえられることを知りました。

2年間の協力隊活動は、現地の発展にほとんど役立たなかったと思います。しかし、このように挫折ばかりの強烈な体験は、日本では絶対に経験できなかったことでしょう。おかげで物事に動じることが少なくなりました。社会の矛盾や不合理に出会っても正面から向き合えるようになり、「向き合うための準備はしっかりやる。でも、最後はなるようにしかならない」という姿勢が身に付いたと思います。

社の命運がかかる「多様性」
好奇心や行動力をもつJICA海外協力隊経験者に期待

協力隊での2年間を通じて、身に染みて分かったことが他にもあります。それは、善意だけでは開発途上国を助けることは出来ないという現実です。モノの売り買い、すなわち交易を盛んにしてその国の経済を強くしなければならないと、私は思いました。

弊社との出会いは、JICA青年海外協力隊事務局に届いた求人票を見たのがきっかけです。当時、開発途上国からの輸入品は石油の次にコーヒーでした。コーヒーは、私の専攻でもある農業分野でもあります。また、協力隊の同期隊員に弊社の退職者がいたことも思い出しました。彼は、私が入社して1年後に弊社に復職しています。

協力隊経験を評価してもらい、入社後は私の期待をはるかに超えるチャンスをもらえました。中南米4ヶ月、インドネシア3ヶ月、欧州1年と、これまでに3回も海外研修を受け、弊社の直営農園があるインドネシアのトラジャ地方には農園長として赴任。当時は電気も水道も通っておらず、夜は本当に真っ暗になるようなところでしたが、4年弱無事に務めることが出来ました。

コーヒー豆は、事業ベースには日本国内で栽培することが出来ません。そして、コーヒーの味の大半は豆の良し悪しで決まってしまいます。コーヒー以外の弊社取扱い品目である紅茶、チョコレート、ココアにも同じことが言えます。つまり、国外の各産地とのつながりを大事にすることは、弊社にとってのキーサクセスファクター(重要成功要因)であり、社員にはそれだけ多様性が求められます。実際、弊社で私の近くに座っている社員10名のうち半数は外国籍です。開発途上国の現場で活動してきたJICA海外協力隊経験者にも、今後はぜひ加わって欲しいと思っています。

世界中のあちこちに平気で行き、一人でも動き回れるような人財が弊社にはいます。それはまさに協力隊です。もちろん、コンプライアンスなどのビジネスマンとしての常識は必要ですが、それは入社してから学んでもらえれば十分です。協力隊とキーコーヒーは相性がいい。この40年間で私が実体験してきた感想です。

私が中学生の頃に抱いた地球環境への危機感は、いよいよ待ったなしの状況です。世界の課題としてSDGsが掲げられるなか、私たちは世界中の人々とタッグを組み、その生活の維持と向上にも留意しながら、主体的に行動しなければなりません。私たちと一緒に働いてくれる協力隊経験者の皆さんを、いつでもお待ちしています。

入社後インドネシアのパラダマン農園に駐在した川股さん

※このインタビューは、2022年12月に行われたものです。

PROFILE

キーコーヒー株式会社
所在地:東京都港区西新橋2-34-4
協力隊経験者:1名在籍

HP:https://www.keycoffee.co.jp/

 
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