株式会社キタック人間は協力し合って生きている
社会に必要な役割を担うのは仕事もボランティアも同じだと気づいた

  • グローバル人材の育成・確保

日本列島の恵まれた気象条件と複雑な地形によって、私たちは豊かな自然と四季の移ろいの恩恵を受けている。一方、多くの活火山や台風による天災にも見舞われる国土でもある。近年は地球温暖化の影響もあり、集中豪雨などによる洪水や土砂災害も頻発している。また、高度経済成長期に整備された道路やダム、橋梁、トンネル、上下水道などの土木建造物が老朽化し、少子高齢化と人口減少が進む中での適切な補修とメンテナンスも急務となっている。新潟県で「地質調査業」と「建設コンサルタント業」とを営むキタックは、地質の調査・解析、土木建造物の企画、構想・計画、設計、施工管理、メンテナンスなどを担当している。主な顧客は、官公庁による公共事業で、実際の施工以外のほぼすべてに従事しており、各分野の専門技術者が多数在籍している。また、1973年の創業当時から国際援助に尽力している企業でもある。地域に根差しながらグローバルな視野をもつ同社の取り組みとJICA海外協力隊への期待について、創業者であり新潟県国際協会理事長でもある中山輝也さんと取締役で技術管理部門副統括の大塚秀行さんに話を伺った。

冷戦下の1979年
文化大革命後の荒廃した中国を助けるために旅立った

起業して6年ほど経った1979年、中国との技術交流プロジェクトに誘われました。ダム地質の技術者として当時すでに20年のキャリアがあった私は業界で多少の存在感があったのだと思います。その頃の中国は10年も吹き荒れた文化大革命の直後です。ただ事ではない貧しさを目の当たりにして、「なんとかしなくてはダメだ」と強く感じたのを覚えています。

新潟選出の田中角栄総理が日中国交を正常化したのは1972年です。しかし、厳しい冷戦は続いていました。日本の世論も中国に対しての技術協力に対して好意的とは言えず、私も得意先から「なぜ、共産主義国へわざわざ行くのか」と言われたりしました。

私よりもっと前の時代、中国との往来そのものが極めて困難だった頃に、交流に努力されていた先人がいました。その一人が佐野藤三郎さんという方です。佐野さんの苦労に比べたら、私の体験などは些細なものです。佐野さんは中国政府の要人との会話でも一歩も引かない自説を披露。そんな人柄に中国側も好感を持ち、信頼を深めたのではないでしょうか。

代表取締役会長の中山輝也さん

貪りの心を抑える知足の精神
足るを知るところから協力が生まれる

中国黒竜江省との技術交流はその後も続き、1989年には新潟県対外科学技術交流協会を設立しました。中国だけでなく、ロシアや韓国とも技術交流を行い、近年はモンゴル国への技術協力にシフトしています。著しい発展を続けているこの古くて新しい国との交流を楽しんでいるところです。また、日本技術士会の技術移転団としては、ミャンマーやカンボジア、ラオスにも行っています。

弊社のような地方企業がここまで主体的に国際協力を行うことは珍しいかもしれません。しかし、少しでも余力があれば協力するべきだと私は思っています。それにはやはり先ほどお話した佐野さんの影響が大きいです。不惑と言われる40歳代に入ってからのお付き合いですが、私にとってはまさに人生の師との出会いでした。

商売は時代の流れから外れてしまったら終わりです。決して油断をしないように自分と社員を戒めています。一方で、私の好きな言葉は「知足」です。足るを知ること。貪りの心を起こさず、腹八分目で満足するべきなのです。知足から協調や協力の心が生まれると私は信じています。

道路、ダム、橋梁、トンネル、上下水……
「造る」時代から「マネジメントする」時代へ

新卒で弊社に入り、道路や河川・砂防ダムなどの調査・設計に携わり続けています。35年間以上も前向きに働き続けられている理由は、やはり「好きだから」ですね。子どもの頃から数学は得意で、計算をしながら図面を描いていく仕事に魅力を感じ続けてきました。仕事に苦労はつきものですが、携わった構造物ができ上ったときの達成感はひとしおです。

ただし、現在はものを「造る」時代から「使う」時代を経て、「マネジメントする」時代に入っています。具体的には、点検、調査、補修設計、維持管理などです。私が入社して橋の設計に関わった頃は「造る」仕事が7割でしたが、現在は維持や補修の仕事が7割。ほぼ逆転し、時代の変化を感じています。

時代は変わっても、人と気持ち良く協力して仕事を進めていくことの大切さは変わりません。途上国という異質で過酷な環境でも活動した経験がある渡部さんには「ちょっとしたことではへこたれない」「何があってもうまく回してくれる」強さを感じています。人付き合いも上手で、彼が嫌いな人や彼のことを嫌いな人はいないと思うほどです。仕事で毎日顔を合わせている私も、渡部さんとはよく一緒にお酒を飲みに行っています。

弊社の特徴は、自分がやりたいことがやりやすいこと。風通しがいい社風です。会社の外にやりたいことを見つけて退職する人がいても、今後もどこかでつながると考えています。変な慰留はしません。そして、縁があれば外で経験を積んだ分だけレベルアップして弊社に戻って来てくれます。実際、「出戻り」組が3人もいて、各部署で活躍しているところです。渡部さんと同じようにJICA海外協力隊として活躍した経験のある方の入社も歓迎します。

取締役 技術管理部門 副統括の大塚秀行さん

JICAボランティア経験者から

水工砂防部 水工下水道課長 渡部悟さん
(ミクロネシア/土木/1992年度派遣・マレーシア/河川・砂防/2005年派遣)

先達に憧れて協力隊へ
ミクロネシアの「助け合って生きる」精神に感動

新潟市西区の出身です。工業高校を出てから、建設関連の会社に就職し、27歳のときにJICA海外協力隊に現職参加1させてもらいました。県内から出たことがなかった私が思い切れたきっかけは、NHKの特集でアフリカの象を助ける日本人がいることを知ったこと。こんな活動があるのかと衝撃を受けたことを覚えています。同じ新潟県の柏崎市出身の西川さんという協力隊員でした。

先日、西川さんの協力隊同期の方を通じてお会いできました。30年前に憧れた人と会えたのはOBOG会があってこそです。私自身、「新潟県青年海外協力協会」の会長を務め、現役隊員も含めた人たちとの出会いを楽しんでいます。

1992年に赴任したのはミクロネシアです。私は当時から川の洪水予防の構造物を専門としていましたが、現地で担ったのは港や空港です。米軍によって作られたものを整備したり新設したりする必要があり、ミクロネシアには調査や設計の技術者が足りませんでした。「設計は日本人がやってよ」と頼りにされ、英語が苦手だった私がアメリカの技術書を懸命に読んで取り組んだのはほろ苦い思い出です。

ミクロネシアで学んだこともあります。それは、助け合って生きる精神です。役所も縦割りではなく、例えば道路がボコボコになったりしたらみんなで力を合わせて直していました。小さな島国だからこその家庭的な雰囲気なのだと思いますが、とても感動したことを今でも覚えています。


1現在の職場を退職せずに、 所属先に身分を残したまま休職してJICA海外協力隊に参加すること。

水工砂防部 水工下水道課長の渡部悟さん

国際交流について語り合えた家族の食卓
かけがえのない2年間

結婚相手も海外協力隊の同期です。一男一女に恵まれましたが、当時は新潟で洪水などがあると復旧作業に追われて帰宅すらできない生活でした。長男が幼稚園に行きたくないと言い出し、家族にストレスを与えてしまっていたことに気づいたのです。そのときの上司が理解ある人だったこともあり、環境を変えるためにも今度はマレーシアに現職参加することができました。

当時は家族の随伴が可能だったので、私たち家族にとってはかけがえのない2年間になりました。民族や宗教など差別をしないマレーシアの教育を受けられた子どもたちは、私と違って英語も堪能に。何よりも家族の食卓で国際交流について語り合えました。いま、長男は台湾に住みながら働いていて、長女は大学で建築科に進み国際協力にも興味を持ち続けています。

マレーシアで任されたのは、私の専門でもある河川の整備です。河岸にロングハウスと呼ばれる高床式住居を建てる部族が、河岸浸食によって住む場所を失いつつあると知りました。私が思い出したのは、新潟の信濃川河川流域に明治期から伝わる「粗朶沈床(そだちんしょう)」という工法です。木や枝を組んだものを敷き詰めることで、川底が侵食されるのを防ぐことができます。このアイディアは協力隊の2年間では実現できませんでしたが、工法の存在を伝え、その後も現地の同僚との情報交換は続いています。

マレーシアで河川・砂防隊員として、ミクロネシアで土木隊員として活動した渡部さん(写真はマレーシア)

協力隊経験が仕事観を変えた
「こなす」から「使う人の生活を想像する」

キタックに転職したのは、49歳のときです。大塚さんの前任者に誘っていただき、多様性を認める社風に心惹かれました。いま、同僚にはセネガル人、中国人、モンゴル人がいます。中山会長が新潟県国際協会の理事長をしていることは知りませんでしたが、国際協力というご縁があったのかもしれません。

2度の協力隊経験で「人間は協力し合って生きている」と痛感しました。それぞれが自分の役割を果たし、協力することで社会が成り立っているのです。若い頃の私は、公共事業に携わるときも「家族を養うために自分の仕事をこなせばいい。役所の仕事を請け負っている」という意識がありました。今は違います。「この構造物を使う人はどんな生活をしているのか」を心に留めるようになりました。

ライバル企業や協力会社、お客さんである官公庁との接し方も大きく変わりました。「ライバル企業は半分敵だ」ぐらいに思っていた意識が消え、自分の技術などを惜しみなく教えられるようになったのです。すると、こちらが困ったときも助けてくれます。協力会社に対しても「お金を出しているのだから頑張れ」なんていう態度は取りません。忙しそうだったりすると「あとはこっちでやるから」と仕事を引き受けたりしています。また、役所も単なるお客さんではありません。県民の生活に欠かせない公共事業を一緒に進めるパートナーとして捉えるようになりました。

JICA海外協力隊の活動はボランティアとして位置づけられます。でも、仕事と同じく社会に必要な役割を担っているのです。全力を尽くさなければならないことは変わりありません。JICA海外協力隊での経験は私の仕事観を変えてくれました。

※このインタビューは、2023年2月に行われたものです。

PROFILE

株式会社キタック
設立:1973年
所在地:新潟市中央区新光町10番地2
事業内容:総合建設コンサルタント業
協力隊経験者:複数名在籍

HP:https://kitac.co.jp/

 
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