株式会社かいはつマネジメント・コンサルティング国際開発は「ヒト」に寄り添うこと
「地域づくり、人づくり、組織づくり」

  • グローバル人材の育成・確保

JICA海外協力隊経験者の岡部寛さんが代表を務める「株式会社かいはつマネジメント・コンサルティング」は、社員の半数が協力隊経験者だという。経営者として20年以上にわたり帰国した協力隊員と接してきた岡部さんは、協力隊活動について「若者の自己成長につながる貴重な経験。その経験をその後の人生にどう活かしたいのか、まずは彼らの声に耳を傾けながら育成していくことが大切」と語る。社員が社長に子どもができたことを嬉しそうに報告しにくる、キャリアの悩みを社長に相談できる、そうした風通しのよい企業風土というのは、岡部さん自身の気さくな人柄あってのことだろう。そんな開かれた会社にご夫婦で働く元協力隊員がいるということで、今回、岡部さんと合わせて高梨直季さん、小林三恵さんの3人の協力隊経験者にお話を伺った。

協力隊からコンサルタント、そして経営者へ
やりたいことを実現しながら切磋琢磨しあえる組織をつくりたかった

弊社の社名は、私の修士号に由来しています。私はタンザニアでの協力隊活動を終えた後、しばらく開発コンサルタントとして働いていましたが、国際開発についてより見識を深めたくて退職しアメリカの大学院に進学しました。国際開発という仕事は多様な利害関係者が介在するため、対立構造を招きやすく、マネジメントが非常に困難です。しかし、私はそこに面白みとやりがいを強く感じ、国際開発のマネジメントを生涯の専門にしたいと考えるようになりました。やがて、自分の会社を起こす決意をしたとき、アメリカで学んだ「開発マネジメント」の重要性と専門性を全面に出すべく社名に加えました。

開発コンサルタントとして組織に属して働く道もあったなかで起業を選んだのは、コンサルタント同志がよい雰囲気の中で切磋琢磨し合うことでお互いにプロフェッショナルとして磨きをかけることができるような組織をつくってみたいという思いがあったからです。組織の中で社員は“やらされ感”を持たないようにしたほうがはるかに大きな能力を発揮します。であれば、自分の関心がある案件を社員自身に見つけてもらい、自身の裁量と責任感で業務を遂行する。そしてその成果に応じて報酬を払うようにしたほうが良いのです。それが円滑にできる組織をつくりたいと思いました。

こうして「この指とまれ!」の姿勢で組織を立ち上げたのですが、2001年に有限会社として出発したときは、社員を募集しても誰も気に留めてくれませんでした。最初の応募があったのは、1年ほど経ってからのことです。スリランカでJICA事業に関わる元協力隊員からコンタクトがあり、旅費を半分出して面接に来てもらい社員として採用しました。現在、社員は45人に増えましたが、その半数を占めるほど今でも協力隊経験者には支えられています。

代表取締役代表の岡部寛さん

国際開発の中心にはいつも「ヒト」がいる
幸せを感じてもらうこと、そして自らも幸せを感じることができる組織づくり

実は私は、自分が協力隊だったことをネガティブに捉えていた時期がありました。大規模なプロジェクトを牽引する開発コンサルタントに対して、わずかばかりの協力隊経験や実績は役に立たないと気後れしていたのです。そんな自分に変化が訪れたのは、アメリカ留学から帰国して国際開発の現場に戻ったときでした。自分のなかにある「ヒト」に寄り添おうとする姿勢は、協力隊活動に原点があったことに気がついたのです。

協力隊から開発コンサルタントを経て経営者となった今、考えてみれば国際開発の世界では、必ず中心に「ヒト」がいます。ソフト系開発コンサルタントとしての弊社の強みの一つは、現地の「ヒト」、企業の「ヒト」、クライアントの「ヒト」に寄り添っていこうとする姿勢だと思っています。そしてそれを実現できるようにするために「地域づくり、人づくり、組織づくり」を信念として、途上国の人々に幸福感を持ってもらう組織、その結果自らも幸福感を持てる組織をつくること、それが私の大きな役割の一つだと思っています。

10代のころの私は、野生動物に関心があり、将来は動物生態を写すカメラマンになることを夢みていました。その思いで北海道大学へ進学したのですが、学部選択の時点で人気があった動物系はすべて定員になっていたため、やむなく農業土木を専攻することになってしまいました。しかし、それが後の協力隊参加の礎となり、タンザニアに行って野生動物にも出会えたわけですから、人生とは本当に不思議なものです。

大学卒業を控えたころには、農業土木で協力隊に行こうという思いはほぼ固まっていました。しかし、実務経験がほとんどなかったので、まずは先輩がいる国内のコンサルタント会社で経験を積ませてもらうことにしました。アルバイトで給料も低かったのですが、協力隊に行きたいという思いを汲んでくれて、調査を任されたり、図面を引かせてもらったりと、貴重な経験ができました。

こうしてタンザニアでは農業土木の隊員として活動をしてきました。しかし、横目で大規模なODA事業が進められているのをみて、技術的にも資金的にも協力隊活動の限界を知ったのも事実でした。それで、帰国したらぜひ開発コンサルタントになろうと決意しました。

野生動物への関心と、農業土木での協力隊、開発コンサルタント……今振り返ると、常に何らかの違和感の連続だったのだと思います。例えば、1990年代前半のODA事業は、今ほど住民参加が求められておらず、他国である我々専門家が描いた青写真に従ってインフラ開発を進めるようなことが当たり前に行われていました。それが「何か違う」ということは分かっていても、解決策が見つけられない自分に強い違和感を覚えていました。そのための打開策が、アメリカ留学であり、起業だったのです。

経営者になって20年が過ぎ、しかも協力隊から数えれば40年以上。そろそろ国際開発の現場は若い世代に任せたいと考えています。開発コンサルタントは心技体がすべてしっかり整っていなければ務まらない厳しい仕事です。ただその分、一つの国やそこにいる人々を支援するという壮大な夢を追い求めることができます。社会に対して自分はこう関わりたい、という姿勢を持った若者がどんどん出てくることに期待したいです。

日本の若者が海外に出るきっかけを与え、自己成長を促す機会として、協力隊事業の果たす役割は大きいと考えています。これから帰国隊員には社会還元を期待していくようですが、自己実現の形はそれぞれ違うという視点から、まずは彼らの声に耳を傾けることが大切だと思います。少子高齢化を迎えるこれからの日本社会において、「やらされ感」ではなく、自らやる気を持った「ヒト」をいかに増やしていくか、それこそが日本を強くする原動力なのですから。

JICAボランティア経験者から

国際ビジネス支援部 小林三恵さん
(マダガスカル/青少年活動/2016年度派遣)

国際協力一筋の学生時代から
価値観を変えたマダガスカルでの協力隊活動

私が過ごしたのは、マダガスカルの第2の都市とされるトゥアマシナという地域です。青少年活動隊員として地域の青少年施設に派遣され、そこで5歳から15歳位までの青少年の育成に取り組んでいました。日本でも放課後に子どもたちが集まる公民館などがありますよね。そのイメージに近いですが、建物も設備も日本よりもずっと簡素な所でした。私の派遣地域の学校は午前と午後の2部制になっているので、どちらかの時間帯を持て余している子どもたちが多いのです。そうした子どもたちを集めて手洗いの啓蒙や歯磨き指導をしたり、日本紹介や日本語学習をしたりしていました。

実は、日本語学習を始めたのにはちょっとした事情がありました。青少年施設の活動は地元の大学生ボランティアに支えられているのですが、なかなか人手が集まらなかったのです。そこで呼び水として考案したのが日本語教室。マダガスカルでは日本アニメがTV放映されていることもあり、日本語を習いたいという若者たちや大学生が少しずつボランティア活動にも参加してくれるようになりました。困難もありましたが、自由な発想で現地の人々に提案できたことや、共感を得て一緒にやっていくというプロセスを思う存分楽しむことができました。

協力隊へは、新卒で3年間働いた大手アパレルメーカーを辞めて参加しました。ずっと国際協力の仕事がしたくて難民支援に注力しているアパレルメーカーへの就職を決めたのですが、自分の目指している国際協力の道となかなか繋がることができなかったため、退職して協力隊に参加することを決めました。 そもそも国際協力に関心を寄せるようになったきっかけは、小学生の時に起きたアメリカ同時多発テロをニュースで見たことでした。同じ地球上のどこかで戦争が起きていることに衝撃を受け、小学生ながらにとても恐怖を感じたのです。それからは積極的に国際協力に関連するボランティアやスピーチコンテストに参加するようになりました。

国際協力に関わること一筋で飛び込んだ協力隊の世界ですが、実際にマダガスカルに行ってみたら、結果を求めることに執着してきたこれまでの自分の価値観が変わりました。マダガスカルでの暮らしを通して、もっとゆったり構えて気楽に生きることで新たな発想が生まれるということを教えられましたね。また、青少年の雇用創出の必要性を実感し、ビジネスでなければ解決できないことなど、様々な国際協力の形があることも知りました。

帰国後は、開発コンサルタントに就職したのですが、海外出張もあるこの業界で子どもを育てながら仕事を続けていくことを見据えると、まずはその時々のライフスタイルに身を任せることが一番だと考えます。その上で、国際協力に関わり続けるというビジョンは崩さないでいきたい。このような柔軟な振る舞いができるのも、協力隊を経験したことや会社・周囲の方の理解があってこそだと思います。

国際ビジネス支援部の小林三恵さん
マダガスカルで青少年活動隊員として活動した
小林さん

JICAボランティア経験者から

国際ビジネス支援部部長代理 高梨直季さん
(パプアニューギニア/村落開発普及員/2010年度派遣)

協力隊活動から繋がる
開発コンサルタントとしてのキャリア

私が協力隊の派遣前訓練を終えたのは、2011年3月11日の東日本大震災の当日でした。これは、協力隊活動を振り返るときに決して忘れることのできないエピソードのひとつです。ボランティアとして日本に残る選択肢もありましたが、国内支援が多く行われる中、自分ができることは東日本大震災で被害を受けた日本を応援してくれた国々への恩返しであると思い、協力隊活動に臨みました。

派遣国のパプアニューギニア(以下、PNG)は、女性の協力隊員が唯一派遣されていない国です。理由としては、女性に対する家庭内暴力や性暴力などの発生率が世界的にも高い国だからだと聞いています。PNGで私は、村落開発普及員隊員として、東セピック州のコミュニティ開発局に所属して活動をしていました。当初の予定は、出生登録の制度化に従事することでした。

PNGでは、赤ちゃんが産まれたことを役所に届けること自体が周知されておらず、届出があっても生年月日に誤りがあったりして、登録時点でお母さんより赤ちゃんの年齢の方が上というようなこともありました。その他にも、幼稚園で折り紙を教えたり、高校でジェンダー教育を教えたりと、様々なコミュニティ活動に従事しました。充実した活動ではありましたが、着任当初は全く期待されていないことがすぐに分かりました。若い外国人に何ができるのか?と思うのは当然ですよね。だからこそ腹を割って話をし、率先して行動していった結果、徐々に理解が深まっていきました。マイナスのところから協力隊活動をスタートし、最後には「次の協力隊員は誰が来てくれるのか」というプラスに持っていけたことは自分なりの活動の成果だと自負しています。

協力隊に参加する前は、イギリスの大学院で国際開発と教育を学んでいました。1年間の学びを経て、知識だけではダメだと思い、現場を知るために協力隊の道を選びました。大学院での研究フィールドはエクアドルだったので、協力隊でも中南米諸国を希望していましたが、蓋を開けてみたらPNGでした。しかし、PNGとは開発コンサルタントとしても今もなお関わり続けており、結果としては最善の選択でした。いずれPNG、そして太平洋島嶼国のスペシャリストになれたらいいなと思っています。個人的にも、笑顔で挨拶すれば笑顔で返してくれる、そんな太平洋島嶼国の人々がとても好きです。

協力隊から帰国して弊社への入社を希望したとき、実は年齢が少し足りませんでした。開発コンサルタントは経験が重要視されるので、弊社の場合は最少年齢が28歳だったのです。ただどうしても入社したくて話をさせてもらったところ、26歳で入社することができました。このときも、協力隊活動と同じく、正直に自分の思いを伝えたことが転機となりました。

開発コンサルタントとして10年目を迎える現在も、忙しく海外を飛び回っています。国もPNGだけでなく、東南アジアやアフリカなど様々です。弊社は、個人の興味・関心を最大限尊重してくれます。もちろん、その分の責任も伴いますが、自分の興味がある地域・分野にフォーカスして業務に従事できているのは有難いです。弊社のようなソフト系の開発コンサルタントは、分野の専門家が多いので、私は地域(太平洋島嶼国)の専門家を目指していきたいと日々業務に励んでいます。

国際ビジネス支援部部長代理の高梨直季さん
パプアニューギニアで村落開発普及員として活動した高梨さん(写真は入社後のもの)

※このインタビューは、2023年8月に行われたものです。

PROFILE

株式会社かいはつマネジメント・コンサルティング
所在地:東京都渋谷区恵比寿1-3-1 朝日生命恵比寿ビル10 階
事業内容:ODAを通じた途上国での調査・分析、専門技術の移転や住民・組織の強化を目的としたプロジェクトの実施、企業が海外進出するための市場調査やパートナーの発掘、事業運営にかかるアドバイスなど
協力隊経験者:約20名在籍

HP:http://www.kmcinc.co.jp/

 
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