自然塾寺子屋自然塾寺子屋
人が集まり、人が羽ばたくグローバルな学びの場

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豊かな自然環境に恵まれた群馬県甘楽町に、多様な人種の人々が集う場所がある。寺子屋(てらこや)の愛称で親しまれるその場所は、群馬県出身のJICA海外協力隊経験者、矢島亮一さんの地域を愛する思いから始まった。その原点は、パナマで自分が経験したことへの恩返しにあるという。次世代にバトンタッチする時期だという矢島さんだが、地域の未来を熱く語る姿を見たら誰もが引退など想像しないだろう。世代を超えて対話ができる矢島さんがいるからこそ、若者は寺子屋に魅了されるのだ。そんな矢島さんに、これまでの寺子屋の歩みと今後のビジョン、自身の協力隊経験について語っていただいた。

寺子屋のはじまり
協力隊経験を地域社会に還元することが原点

自然塾寺子屋(以下、寺子屋)の活動は、パナマでの協力隊経験を日本の地域社会に還元したいという私自身の思いからスタートしました。帰国したばかりだった私は、スペイン語を活かして何かできないかという思いから、中南米出身の出稼ぎ労働者が多く住む群馬県大泉町を訪ねました。そこで地元の友人に話を聞いたところ、労働者の子どもたちが地域や学校に馴染めず、事件や事故に巻き込まれるケースが少なくないことを知りました。実際に南米の子どもたちに対して警察官が乱暴な言葉でやりとりしているのを聞いてしまい、かつて言葉も分からない私を温かく迎えてくれたパナマ人のことを思い出し、その対照的な環境に強く胸を痛めました。

こうした出来事がきっかけとなり、群馬県内で出稼ぎ労働者の子どもたちの教育や、日本人との交流イベントを行う任意団体を立ち上げたのが寺子屋のはじまりです。幸いなことに、生まれ育った群馬県には私の思いに賛同してくれる先輩や友人が多くいました。彼らの力を借り、自治体の補助金も受けながらキャンプなどの自然体験イベントを開催することができました。

こうした活動を続けて2年ほど経った頃、パナマでお世話になった方を通じて、中南米のJICA研修員に対して日本の農業政策や環境保全型の農業を指導できる機関を探している、という話が私の耳に届きました。ちょうど任意団体としての活動に手詰まりを感じていたこともあり、色々とやってみようと自分の思いを企画書にまとめたところ、気に入っていただくことができました。これが、寺子屋としてJICAと活動をした最初の出来事でした。それからしばらくして、周りの強い声もあり法人格を取得することになりました。そして徐々に、協力隊の技術補完研修や、群馬県が主催する国際協力関連の仕事が増えていくようになりました。

こうして時系列に振り返ると、寺子屋は順調に成長してきたように見えますが、法人化しても最初は困難と葛藤の連続でした。たとえば、協力隊経験を活かして地域で何かしたいと提案しても、ほとんどの自治体からは門前払いでした。国際化に伴う地域課題は顕著なのだから、国際協力への理解が無いはずはないのにどうして耳を貸してくれないのか……。そう考えたとき、協力隊経験というものを過信していた自分に気がついたのです。それからは、古い友人や地元の先輩、協力隊時代の仲間など、身近なところから共感を得て地域のキーパーソンに繋いでもらう努力をしました。このように、地域活動において人から人へアプローチを重ねていこうと思えたのは、協力隊を経験したからに他なりません。

また、法人化を検討するのにあたっては、企業に就職して任意団体のまま活動を続けていくという選択肢もありました。ありがたいことに開発コンサルタントや民間企業からのお誘いもあり、内定を受けていたところもありました。しかし、それでも就職ではなくNPO法人として起業を選んだのは、ある開発コンサルタントの方の強い言葉があったからでした。国際協力の仕事は両天秤でできる簡単な世界ではない……と。それを聞いて、やはり自分は地元が好きで、地元で国際協力に関わることが自分のやりたいことなのだと確信を持つことができました。最終的には、当時お付き合いをしていた彼女(現在の妻)が群馬県に来るという決断をしてくれたことが大きな支えになりました。

代表の矢島亮一さん

寺子屋の今と、これから
地域に密着したことで見えてきたこと

「NPOで食べていけるのか……。」最初は不安ばかりだった寺子屋も、今では、総務省や群馬県からの表彰も受けるまで成長しました。現在は、特定非営利活動法人と株式会社に事業を分けて活動し、私が双方の代表を務めています。

こうした現在の寺子屋を牽引しているのは、事務局長の森栄梨子です。彼女は協力隊経験者で、京都府出身です。そんな彼女が、なぜ群馬県に移住を決めたのか。それは、寺子屋が受け入れたひとりのJICA研修員がきっかけでした。寺子屋の研修プランには、甘楽富岡地域内の農家に泊まって農業を体験する農家民泊プログラムがあります。このプログラムに参加したホンジュラス人の研修員が帰国後、協力隊員としてホンジュラスにやってきた森に「日本に帰ったら寺子屋を訪ねてほしい。」と声をかけたそうです。研修員が群馬県を第二の故郷と思ってくれたことに喜びつつ、同時に研修員の言葉だけで寺子屋にやってきた森の行動力にも感心しました。

こうして寺子屋が生み出した出会いが新たな出会いを紡いでいく姿は、私が最初に思い描いていた国際協力の姿と重なります。寺子屋の研修プランには、帰国した先輩研修員から話を聞くプログラムを導入したりと、経験とネットワークを活かして新しい研修の形にも挑戦しています。森をはじめとする次世代のスタッフを中心に、寺子屋は、これからも多様な人種が集まる場として成長を続けていくことでしょう。

一方、20年以上にわたって地域に密着して活動を続けてきた経験から、私には新たな夢が生まれました。周りを見渡すと、管理が行き届かず放置されている山林や、住む人のいなくなった荒れ果てた空き家、地域の国際化によって増えてきた外国籍の子どもたちの教育など、人間の営みによってもたらされた社会課題が地域にはたくさん存在していることに気づいたのです。具体的な解決策はまだ見つかっていませんが、半導体のスタートアップ企業が集まって出来た米国シリコンバレーの歩みがひとつにヒントになるのではないかと考えています。

たとえば、人口流出が顕著な自治体に一次産業に関心がある人たちを呼び寄せ、地域の再生につなげる取り組みです。寺子屋ではすでに、技術補完研修を受けた協力隊員が帰国後に群馬県に移住し、農業を継承したケースがあります。また、私がパナマでお世話になった森林の専門家が地域おこし協力隊としてやってきて、寺子屋と共に山林の活動を行っています。一次産業に関心を持ち、過疎地に移住したいと思う人たちがいたことは、農家で育ち農業に対して良いイメージを抱けなかった私には考えもしなかったことでした。寺子屋の活動を通じて、新しい価値観を持った人たちが社会を変え始めていることや、そうしたマインドを持った人たちが協力隊に集まっていることを確実に感じています。群馬にシリコンバレーを作るという構想は、ひとつの私の思いつきに過ぎませんが、一次産業も視点を変えればベンチャーになることについては、十分な手応えを感じています。

協力隊活動を振り返る
参加したから分かったこと

死が身近に存在する生活。これは協力隊に参加しなければ考えもしなかったことです。パナマでの活動中に、二度も身近な人の死に立ち会いました。元気だった人が予防接種を受けた翌日に亡くなってしまうことなど、日本ではなかなか経験することはありません。同じ頃、日本では児童による残虐な事件が発生しました。死と隣り合わせで精一杯生きている世界があることは、日本にいたら決して知ることはなかったでしょう。

私は村落開発普及員として派遣され、サンロキート村という山村で暮らしていました。要請では、農業の組織化と販路拡大が私の任務でしたが、働き手となる男性のほとんどが出稼ぎで村を離れている状況では、それは明らかに不可能でした。そのため最初の数ヶ月は、女性や老人、子どもばかりの村で、現状を観察する活動を続けました。記録を取ったりするわけではなく、一日中歩き回って、農家の人たちと食事をしたり雑談をしたりするだけのことです。

しかし、それによってだんだんと村の人々の生活が見えてきました。13〜14歳で子どもを産む女の子が多いことや、その家族を養うために男の子が出稼ぎに出ること、そして出稼ぎから戻らない子も多いことなどの現実が見えてきました。農業の組織化が要請される背景には、それが求められる事実があることが分かったのです。

また、そうした状況でも、村の人々が幸せを感じながら生きていることは、まったく予想していなかったことでした。母子家庭で育った私は、両親が揃ってこそ家族は幸せだという価値観の元で育ちました。しかし、サンロキート村では、腹違いの子どもと母親たちが家族のように仲良く接している姿がありました。幸せや豊かさに対する価値観が大きく揺らいだ瞬間でした。途上国が貧しいというのは事実ですが、だからといって不幸だと決めつけるのは、日本こそが幸せだと思っていた私自身の思い込みに過ぎなかったのです。

行ってみなければ分からないというのは、日々の生活にも多くあり、想像もしていなかったことでのトラブルは尽きませんでした。例えば、コウモリの排泄物が伝染病を媒介するというのに、パナマの伝統的な家屋は通気のための窓穴が空いていて、夜間になるとコウモリが入ってきます。また、ダニが原因の感染症で入院したこともあり、それも手洗い洗濯では防ぎきれないことを知りました。薪で火を起こすことや川で身体を洗うことも、キャンプだと思えば容易いですが、毎日続けてみるとさすがに辛かったです。危機意識と創意工夫によってしっかりとした自己管理ができなければ、サンロキート村での生活は早々に終わっていたでしょう。

協力隊に参加する前の私は、外資系ホテルの営業マンとして精力的に働いていました。疲れた身体で電車に揺られていたある日、ふと顔を上げた私の目に、協力隊の募集ポスターが飛び込んできました。大学時代には自信を持てず、一度は諦めた協力隊だったので、参加するなら今しかないと思って退職を決意しました。こうして営業マンとしての自信を持って参加した協力隊でしたが、パナマには自分の価値観がまったく通用しない世界が広がっていました。しかし、食事や洗濯に時間を費やすような生活は、かつての日本にも存在していたはずです。こうした暮らしのあり方に、もしかしたら地域社会を変えるヒントが隠されているのではないか。だとしたら、それを伝えていくことが恩返しになるような気がしたのです。そして、寺子屋の設立へと繋がっていきます。

パナマで村落開発普及員として活動した
矢島さん

※このインタビューは、2023年8月に行われたものです。

PROFILE

自然塾寺子屋
所在地:群馬県甘楽郡甘楽町大字小幡七番地
事業内容:群馬県甘楽富岡地域を拠点に活動するグローバル農業交流等
協力隊経験者:株式会社に4名、NPOに7名在籍

HP:https://terrakoya.or.jp/

 
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