JICA広報誌
地球ギャラリーより
いまだ多くの課題に直⾯している途上国。
そんな国々に赴いた気鋭の写真家たちが
ファインダー越しにとらえた地球の営み、
そして⼈間の営み……。
一瞬に込められたストーリーへ旅に出よう。
Special movie
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Q.バングラデシュという国に興味を抱くようになったきっかけ バングラデシュに初めて行ったのは2012年だったと思いますが、その前にインドに行ったことがありまして。
インドもよく皆さんのイメージの中であるように、人がたくさんいたりとか、日本とは全く違う文化の中で暮らしていたりとか、というのが非常に面白かったんです。
ある時に僕の写真家の先輩から、バングラデシュはインドよりも10倍ぐらいカオスですごい国だよ、っていうのを教えてもらったことがあったんですね。
あのインドよりも数十倍(カオスだ)ってどういうことだというので、単純に興味があって、ちょっと行ってみようというので行ってみたんです。
実際に行ってみると、本当にその言葉通りだったんですよね。
本当、人はものすごくいっぱいますし、日本とたぶん同じぐらいの人口、1億5000万人ぐらい。
日本よりちょっと多いのかな、くらいの人口がいて、その人口が北海道と四国を合わせたぐらいの国土の中に。1億5000万人がひしめき合っているんですよ。
本当に過密な状態で、それだけでもすごいカルチャーショックなんですが、そういう中で自分自身がもみくちゃにされながら取材を続けていって、すごく楽しかったんです。
楽しさの上に、やっぱり友達だったりとか、向こうで助けてくれる人がいたりとか、自分にとって本当に今も繋がっている大切な人たち、自分の家族のような人たちができて、そういう繋がりができてくると、年に1回とか2回とか会いに行きたいなっていうので、足繁く通うようになったんですね。
それと同時に、バングラデシュという国の日本との全く違う――日本って東京の街とかでも本当に整備されてゴミひとつ落ちてないし、ルールがちゃんと守られているし。
でもバングラデシュって全く違うんですよね。
車もバイクもいろんな乗り物がごちゃごちゃになっていて、そこに人もたくさんいて。
そういう意味で、自分が今暮らしている日本というものを相対的に見せてくれる国、自分の足元をちゃんと確認させてくれる国というので、毎回いろんな学ぶことがあって。
そういう意味でバングラデシュという国に、魅力に取り憑かれてずっと通っているっていう状況なんですけども。Q.現地の子どもたちを取材するようになった経緯 バングラデシュには、今までも何回も取材で行っていまして、取材で行くたびに、現地の路線バスがあるんですけども、その路線バスに乗って移動することも結構多くて。
乗るたびに13歳とか14歳、15歳ぐらいの少年が必ず車掌として働いているんですね。その車掌の子どもたちを日常的に見ていまして、彼らがどういう生活をしているのか、というのを一度想像した事があって。
その時に、どういう生活を彼らはしていて、どれくらいの賃金をもらっていて、一体どんな所に住んでいるのかとか、そういうことが一回気になり出したら、かなり気になり始めて、それで彼らをフォーカスして撮ってみようかなっていうふうなきっかけがあったんです。
バスのターミナルというか、バスがすごく集まる場所があって、そこに自ら行って、少年たちの顔立ちとか、取材に協力してくれそうな感じの少年に自分で声かけて。
で、声をかけたのが、このリアジ君という当時15歳のこの少年で、「いいよ」と撮影に応じてくれて、そこからスタートしたという感じです。Q.印象的なエピソード 3年くらい、彼を定期的にバングラディッシュに行って撮ってきていたんですけども、15歳の時に初めて会って、そこから15歳、16歳、17歳、18歳くらいまでかな。ずっと見ていたんですけども。
やっぱり定点でというか、ある程度、長い期間を通して見ていると、彼の、彼自身が心の成長というか、だんだん成熟していくにつれて、自分が働いていることに対しても、ここにあるように「彼の夢」っていう、夢自体をあまり語らなくなったというか。
15歳の時は言っていたんですよ。
彼の夢は、「僕はバス会社のオーナーになりたい」というふうに言っていたんですけども、それがだんだん口数が少なくなってきて、「現実ってこんなもんだろう」っていうので、もう委ねているというか、そんな感じが、エピソードというよりは、ずっと見ている中で「わかる」、「わかってきたこと」というか。
それがやっぱりどうしていいかわからない。
こちら側としても、どうしていいかわからないというのが、年齢を彼が重ねるごとにすごく強く感じました。Q.現地の実情や抱える問題について 彼らのように、子どもであるにも関わらず、働かなきゃいけないっていう子どもたちってリアジ君だけじゃなくて、本当にめちゃくちゃたくさんいるんですよね。
本当に日常的にいっぱい。
子どもがそこら辺で何か物を売っていたりとか、それこそ車掌さんをやっていたりとか、工場で働いていたりとか。 そういうのが当たり前の日常の風景の中にたくさんあって、それに対して多くの社会、バングラデシュという社会を形成する人々が、日常の風景としてそれを受け入れてしまっているから、何も別にそこに違和感もない。
子どもたちが何か物を売っていようが、工場で働いていようが、車掌さんとして朝から晩まで働いていようが、全くそこに違和感がないというか、いわゆる無関心というか、もう景色の一部なんですよね。普通の。
だから何かを変えようみたいな動きも起こりにくいし、問題に気付きにくい。
そこが一番問題なんじゃないかなっていうふうには思いますね。
社会全体の雰囲気というか、そこがそもそも一番の問題点というか、そういうふうには思います。Q.モノクロ写真の意図 もちろんカラーの写真もあったりするんですけど、今回この作品をモノクロにしたというのは、対象を色情報とかでごまかさずに、このリアジ君っていう、この子の存在感というか、それを浮きだたせるというか、色情報を無くしたことで、よりここにフォーカスが当たるっていう効果もあると思うんですけども。
そういう狙いもありますし、単純に僕自身が写真を本当に学び始めた時に、自分にとっての教科書的なものというのがモノクロ写真のものが非常に多かったんですよね。
で、当たり前のように写真といえばモノクロというか、モノクロの魅力みたいなものって、すごく僕自身、刷り込まれている部分もあったりするので、ほんと自然にモノクロを選ぶというか。
もちろんカラーで見せた方がいいっていう場合もあるので、その時はやっぱりカラーに。
モノクロじゃなくてカラーにするっていう場合もありますけども。
そういうモノクロの魅力というか力強さ、カラーではない、色がないからこそ力強い、強さというのがあると思うので、そういう観点でも、今回はこのシリーズもモノクロでやろうかなっていうふうには思いました。Q.写真を通して読者に伝えたいこと この記事だけに限らずなんですけど、僕が作っている作品というのは、なるべく読者だったり、鑑賞者、写真を見てくれている人たちの想像とか、あと解釈に任せたい、委ねたいというのが一番にあるので、こちら側のメッセージとか、こう見てほしいとかいうことって、あまりこちらからは押し付けたくないというか、そう思っているんですね。
ただ最低限の、写真だったりとか文章だったりという情報は、読者だったり見てくれている人たちに伝えた上で、それでどう感じるかは個々それぞれというか、それでいいんじゃないかなというふうに思っているので。
これを見てどう感じるのか? 何も感じない人もいるかもしれませんし、非常に自分の抱えている個人的な問題と何か直結する人もいるかもしれないし、それでこの写真の世界が広がったらいいのかなっていうふうには思っています。Q.吉田さんにとってバングラデシュとは 僕にとってバングラデシュというのは家族のような国、故郷のような国でもあるし、自分自身を相対化できる、そういう国でもあります。
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Q 南スーダン難民を取材するようになったきっかけ 南スーダンの難民の前に難民の問題に興味を持ったのは、割と自分の中ではっきり覚えていて、小学校4年生の時だったんです。
1985年で。大阪出身の私が、阪神タイガースが優勝した年で、よく覚えているんですよね。
その時にテレビ番組でエチオピアの飢餓の問題の番組があって、それを見た。
それがきっかけで、飢餓、難民、アフリカという、その時はざっくりとした括りでしたけれども、関心を持ったのがきっかけでした。
その後、17歳で写真家になるって決めてですね。
初めは戦場写真家を目指したんですけれども、20歳でブラジルに留学することになって、そのブラジルとの関わりの中である写真家と出会ったんですね。
それはセバスチャン・サルガドというブラジル人の写真家で、彼がアフリカで、サヘル地帯の飢饉だったり、飢餓だったり、移動する人々、難民も含めて。
そういう人たちを取材しているのを知って、自分も単にその紛争地とかを撮るのではなく、報道写真と人道支援、国際協力を組み合わせたような仕事、あるいはそういう仕事のスタイルを目指したいと思って。
その後、大学卒業してアフリカに行くようになり、国境なき医師団であったり、JICAであったり、UNHCRだったり、そういった国際協力の団体と一緒に連携して現地を変えていくために何か写真の力を役立てたいという風に考えるようになりました。
迷いは今もあります。
けれども、そこでさらに自分が小学校の時に難民の問題、飢餓の問題に興味を持って。
まさか自分が大人になって、21世紀になって、自分の目でそういう現場を見て写真を撮るなんて思ってもいなかったわけなんですけども。
それを見たことによって余計にですね。関心を深めたどころか、その問題からもう自分が逃げられなくなった。
それで今日も難民とか飢餓の問題を取材続けているように思います。Q.ケニアという国を舞台に選んだ理由 直接的には国連UNHCR協会という団体に依頼を受けて、去年2月にケニアに行きました。
コロナ禍がまだ世界を覆う前ですね。
ギリギリ前だったんですけど、ケニアの北西部、南スーダンとの国境近くにカクマというキャンプがあるんです。
そこは1992年に開設されたキャンプで、10年近く経つわけですけど今や20万人ぐらい難民を抱える世界でも最大規模のキャンプなんです。
その飢饉が起きていた南スーダンという場所で、僕はもっと遡ればもうもっと前から興味があったんですね。
それは一枚の写真がきっかけで、皆さんご存知かと思うんですけども、「ハゲワシと少女」という写真があって。
この写真は1993年にケビン・カーターという南アフリカの写真家によって撮られた写真で、ピューリッツァー賞も獲った写真なんですね。
それが今の南スーダンのアヨドいう場所で撮られているんです。
けどその当時はまだスーダンだったので。
南部スーダンで撮られたんですけども、その時に飢餓が起きてしまった。
それで苦しむ少女撮った。
もう30何年経ってですね、未だにこう状況が続いているというのは、すごくやっぱりショックですよね。
つまり、写真は伝えることは出来ても現状を変える力になっていないと。
写真だけじゃないと思うんですよね。
人道支援や国際協力の仕事に携わっている人たちも、ある種、この虚しさみたいなもの。
何をどれだけやっても状況が良くならないっていう、まあそういう葛藤があるんじゃないかなと想像するんですけども。
それぐらいから南スーダンに関心があって。
でもなかなか、紛争が続いて現地に入れなくなったので周辺国を取材始めたんですね。
ウガンダ北部だったり、エチオピアだったり。
で去年ですね、ケニアに行ってそこでも南スーダンの難民を取材しました。
それが始めた経緯ですね。Q.印象的な写真やエピソード やっぱりこの最初の見開きのページの走っている写真が一番印象に残っていますけども、ケニアという国は皆さんご存知かと思うんですけども、マラソンとか陸上長距離の王国といってもいいと思うんですけど、強い選手をたくさん輩出している国ですよね。
ケニアのある難民キャンプということで、行ってびっくりしたんですけども、難民の人たちが陸上しているんですよ。
まあ、陸上だけじゃなくてバスケットボールしたりサッカーしたり、いろんなスポーツが盛んで。
その中で僕が興味を持ったのは、自分も陸上部だったので見に行きたいなと思って、見に行ってこの写真を撮ったんですけども。
スポーツが難民に生きる力を与えているといいますか。
走っている、本当にがむしゃらに走っている姿を見て、どこか、こう逆境を走ることで乗り越えていくというか、何か、こう目の前の、前へ前へ進んでいくっていう、生きていくっていう、何か、こう意欲や力、そういうものをひしひしと感じたんです。
きっかけとしては、こういうスポーツは、僕ら日本人でも馴染みのあるスポーツを通して、難民たちがそこまでどういう道を歩いてきたのか、走ってきたのかっていうことを少しでも想像してもらえたらいいきっかけにはなるんじゃないかなと。
そういう意味で、スポーツを通して難民の生き様置かれている状況というのを伝えるというのは非常に良いなと思いました。Q.南スーダンの現状や問題について強く感じること 南スーダンの難民の問題に関して言えば本国がずっと紛争が続いている状況なのでこれはやっぱり前途多難といいますか、厳しい状況がこれからも続いていくと思うんですよね。
一枚の写真を今回掲載させてもらったんですけども、この写真はウガンダの北部の難民キャンプで、南スーダンからはまさに到着したばかりのその瞬間を撮影したんですけど。
子どもたちがテントを立てて、薪をおこしてこれから料理を始めるっていう。
でも、もうくたくたで疲れているはずなのに、そこで休んではいられないんですよね。
生きていかないといけない。これはやっぱり難民の人たちが逆境に追い込まれてなお生きていくっていう、このギリギリの生の尊厳といってもいいかもしれませんけども、まあそういう瞬間にレンズを向けているんだと感じましたね。
厳しい環境、状況である一方で、やっぱり人は生きていく、その人間の適応していく能力というものには、やっぱりいつも目を見張らされるというか、感動するものがありますね。Q.タイトルに込められた思い 難民の人たちが今日を頑張って生きているって姿を知って欲しい、っていうのも一つあります。
けど、それだけではねやっぱりダメで、なぜ難民になったのか? その本質的な所にも目を向けてもらわないと不十分だと思います。
彼らが生きている世界への想像というんですか。
そういうポジティブな想像力・イマジネーションの先に、難民のいない、難民選手団なんてなくなる世界をクリエイトしていくようなクリエイティビティがあればいいなと思ってこのタイトルにしました。Q.渋谷さんにとってケニア、南スーダン難民とは ケニアはアフリカの中で一番最初に行った国であって、出会いの、アフリカとの始まりの国なんです。
けれども、改めてケニア……そうですね、今回の取材を通して考えたのは、カクマっていうキャンプって、カクマというのはスワヒリ語で「nowhere」っていう、「どこでもない場所」っていう意味なんですよね。
そういう場所って、本当にどこでもなかった場所なんでしょうけど、それが今ホームになって。
彼らにとっての。
そういう場所って、今、世界中でたくさんあって、僕も実際、世界中でいろんな「nowhere」な、でもそれがホームであるっていう場所を見てきたんですよね。
そういう意味では、「anywhere」なんだなと思ったんですよね。
どこでもあり得る場所っていうか、誰にでも起こりうる事っていうか。
日本でもそうですし、そういう難民になる、あるいは難を抱えて生きざるを得なくなるっていう、そういう意味では「nowhere」でありながら「anywhere」なんだっていうことを改めて考えさせられた。ケニアで。
そういう存在といいますか、そういう場所だったと申し上げておきたいと思います。 -
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Q.ウガンダとの出会い 2001年に初めてウガンダに行ったんですが、当時、ウガンダの北部地域は内戦状態でした。
LRAと呼ばれている、反政府ゲリラ軍が一般の人々を襲撃したり、子供たちを誘拐したりしていました。
ウガンダの政府軍が制圧のために軍を送っていました。
特に一般の人々の被害がすごく多くて、たくさんの人々が国内避難民になったり、ひどかったのは、子供達が誘拐されて無理やり兵士にさせられるという現実がありました。
私は当時、学生だったんですけども、日本のアルディナウペポという名前のNGO団体がありまして、そこのお手伝いとして、子供たちが誘拐されないための避難シェルター運営のお手伝いをしていて、その中でたくさんの子供たちや人々に寄って写真を撮り始めました。Q.結婚式をテーマに選んだ理由 彼らはすごく古い私の友人たちで、特に新郎の方は、2001年に初めて行った時に出会った本当に古い友人で、親友と言うか弟のような存在の人です。
一緒に子供たちのための避難シェルターの運営や、その後、元子ども兵士のための職業訓練校の運営を一緒にやっていた仲間なんですが、その時に結婚した当初、12年前のことだったんですけど、「結婚式をやるとしたら盛大にやるから、その時は絶対来てね」って言われていました。
彼らの息子さんが赤ちゃんの時から知っているし、本当に親戚付き合いのような仲間です。
実際の結婚式なんですけども、本当に晴れ晴れしい笑顔に包まれていて、その場にいて写真を撮りながら思ったのが、やっぱり苦難を乗り越えてきたからこその景色がここにあるのかな、っていうのはずっと感じていました。
このテーマを選んだ理由なんですけども、この当時、『mundi』が発行されるタイミングが新型コロナウイルスの影響が本当に始まった時だったので、やっぱり人に会えないとか、人が集まれないっていう状況がウガンダでもあって、彼らを励ましたいって意味もあって、「あの時みんなで集まってこんなに時間過ごしたよね」っていうのを写真に残して、この紙に印刷してもらって、たくさんの人に見てもらうっていうのを、このタイミングでどうしてもやりたいなと思って、このテーマを今回このタイミングで選びました。Q.この作品を通して伝えたいこと 今回、タイトルに12年っていう、あえて数字を入れたのは、やっぱり12年っていう時間の重みを感じてほしかったからっていう意図があります。
その間、本当にいろんなことがあって、現地では内戦状態だったのが平和になって。
亡くなった仲間もたくさんいますし、ちょっと上の世代の人達も、本当にほとんどの人たちがなくなってしまって、いわゆる世代交代で自然な事なんですけど、この12年間の中で、次は私たちの番が来たんだなっていうことを感じて、この12年っていう数字をタイトルに入れました。
前の世代、おじいちゃん、おばあちゃん達の世代の人たちは、内戦と共に生きてきて、その中でたくましく生き抜いて、子供達や孫達を育ててくれたんですけど、その方たちが今は亡くなってしまって、次、私たちが彼らのように次の世代をたくましく育てていくべきなんじゃないかなという風に感じています。
アフリカで写真を撮る時にいつも心の中に置いている言葉が一つあって、それは「別の生き方の可能性」という言葉です。
何でかというと、一度、昔、内戦中に撮った写真を現地の親しいおじさんに見せた時に、「ああ、自分がいるこの地域はこんなに美しいってことを僕は知らなかった。今初めて知った」っていう風な言葉をかけてもらってすごく嬉しかったんです。
その時に思ったのが、普段私たちが過ごしている何気ない日常も写真で切り取ることによって、美しい瞬間ももちろんたくさんありますし、それを残すことができて、さらにそのことによってこの日常の中の当たり前の幸せに気づけるんじゃないかなと感じてます。
私自身、ウガンダで写真を撮りながらいつも別の生き方の可能性を感じています。
ファインダー越しにウガンダの人達を追うことによって、自分以外の誰かを理解するきっかけになるなと思っていて、普段自分がいる世界ではない世界に身を委ねて、そこでいろんな彼らと一緒に笑ったり泣いたりすることは、本当に他者への理解へのきっかけになると感じています。Q.ウガンダに戻ったらやりたいこと また状況が落ち着いたら、すぐにウガンダに戻りたいと思っていて、ウガンダに戻って真っ先にしたいことは友人達と再会して皆で多分抱き合うことです。
今、特にテーマとして追いかけているのが、ウガンダの母親たちです。
自分自身も日本で子供を育てている母親なので、アフリカ・ウガンダの母親たち、その子供たちの姿をファインダー越しに追いかけていきたいと思っています。Q.桜木さんにとってウガンダとは 第二の故郷です。
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Q.パキスタンをテーマにした理由 2005年10月にパキスタン北部で大地震が起きました。
その時に9万人もの人々が犠牲になったんですけれども、学校などの教育施設、5,000もの校舎や建物が倒壊してしまいました。
未だに半数以上の校舎が再建されない状態なんですけれども、「国境なき子どもたち」としてその校舎を再建するプロジェクトを行っています。
私も写真家でもあるんですけれども、「国境なき子どもたち」の職員として現地に行って、その再建の様子とかプロジェクトの進行を見つつ、子どもたちの様子の写真を撮っています。Q.印象的な写真とエピソード 先生が女の子に、指をこのようにして、算数を教えている写真があるんですけれども、ここの村は学校が倒壊してなかなか予算がないせいか、学校が再建する目処が立っていなかったんですね。
村人たちは子どもたちに何とか学校に来てもらいたい、ちゃんとした場所で勉強してもらいたいって気持ちが強くて、村の人達がお金を出し合って、簡単な小屋みたいなものなんですけれども校舎を作りました。
その狭い校舎の中で、小学校の1年生から6年生までが勉強してるんですけれども、一部屋しかないので、それに対して先生は一人しかいないんですね。
一部屋しかないので、先生が1年生を教えた時は、他の学年の子たちは自習をしているといった、そういった状況で授業を進めていくんですけれども、数は50人、60人くらい子どもたちが集まってるので、子どもたちからすると1日ほとんど自習の時間になっています。
先生に、「この子にちょっと何か教えてもらえますか?」ってお願いをしたんですね。
そしたら、ある女の子に教科書を開いて、先生が「リンゴがいくつある?」。
足し算だと思うんですけれども、りんごを2個と3個足したらいくつだよってことを丁寧に教えてくれて、女の子の手を取って指をこういう風にしてたんですけれども、その女の子の表情を見た時に、嬉しいっていう表情と、あと「何で今日は先生こんなに教えてくれるんだろう?」っていうような戸惑いの表情もちょっと見えたんですね。
悪い言い方すると、やらせみたいなものであると思うんですけれども、ただ、外部の人間、私が写真家として外部から入ったことによって、この子は多分初めて、今1年生なんですが、初めて先生に丁寧に教えてもらったっていう、その瞬間だったんですけれども、それが僕にとっても、写真としても印象に残っていますし、彼女のその表情というんですか、嬉しいような驚いたような戸惑ったような表情というのがすごく印象に残った写真ではあります。Q.現地が抱える問題について 校舎がない学校って、子どもたちが通って勉強してるんですけれども、一言で言うと青空教室なんですね。
青空教室と言うと、イメージ的にはなんかすごい楽しそうな、ピクニックのようなイメージがあると思うんです。
ただ、イスラム教の女の子、特に年頃の女の子にとっては、外で勉強するということは、もちろん雨もそうですし日差しもそうですし、それだけではなくて、村人の男性からの目にもさらされることになるんですね。
それは女の子たちにとってすごく辛いことで、一番辛いことはなんですか?っていう質問を女の子たちにした時に、僕は雨とか、天気とかそういったもので授業が遮られることが大変なんだっていう答えをちょっとイメージしてたんです。
けれども彼女たちの口からは、いっぱい男性から見られることが一番辛いんだっていうのがすごく印象に残った言葉でした。
山奥なので山を一つ二つ越えて通ってくる子どもたちもいるんですね。
あぜ道というか、道のないような道を1時間も2時間もかけて通ってくるっていう子たちもいて、そこまでしてやっぱり勉強したいのかっていう、その子どもたちの気持ちと、あとは勉強したいだけではなくて、子どもたちが、特に女の子は学校に来て友達と話をしたり、先生と話をしたりっていう、自分の楽しい時間を過ごすことができる場所が学校なんだなっていうのをすごく感じました。
そこで新しく校舎ができると、そこには机があって、椅子があって、もちろんトイレもあって、綺麗な建物ができるんですね。
そうすると子どもたちの出席率も高くなります。
それは、もちろんトイレがあるということもあるんですけれども、家から送り出す親御さんも、子どもたちが安全に、安全な場所で勉強ができるということ。
知らない男性の目に触れないっていうものも、母親としてはすごく安心する部分ですね。Q.タイトルに込められた思い 今回このタイトル、「取り残された村」というタイトルをつけたんですけれども、「取り残された」というのは、やはり地震から、もう15年が経っていて未だに校舎が再建されていないっていう事実も驚くべきことではあるんです。
けれども、そのことを日本の人たちは知る由もないと思うんですね。
そういった学校に校舎がなくても、そこは学校で、そして子どもたちが通ってきていて。
でもそれをほったらかしにするわけではなくて、やはり大人たち、村の人たちも子どもたちに勉強させてあげたいってことで、本当に自力で小屋のような校舎を建てて、子どもたちに環境を作ってあげている。
そういった地域の人たちの努力や気持ちがあって初めて支援に繋がるんですね。
村の、本当に山奥にある村々なので、どうしてこんなとこに、不便なとこに住むんだろう、という所にみなさん住んでいるんですね。
そういった所ってどうしても忘れられがちであって、しかも問題としても、緊急的な支援とか、ということではあまりないので、人がなかなか見向きもしないような所で写真を撮って皆さんにお伝えするというのは、とても意義があるんじゃないかなとは思っています。Q.清水さんにとってパキスタンとは パキスタンに行く前は実は少し怖いイメージがありました。
ただ、行って街を歩くと、みんな笑顔で声をかけてくれるんですね。
パキスタンという国は、「いい意味で裏切られる」、そういう国だと思います。