南医療生活協同組合人としての成長が組織を豊かに

  • グローバル人材の育成・確保

地域住民の願いから生まれた小さな診療所

総合病院 南生協病院(以下、南生協病院)の母体である南医療生協の歴史は、名古屋市南部一帯を海の底に沈めた1959年の伊勢湾台風に遡る。全国各地から災害救援医療が入った経験は、「自分たちの地域に自分たちの診療所を」という願いとなり、1961年、小さな診療所が誕生した。その後、地域医療、公害医療、障害児医療などにも取り組み、現在では南生協病院を含め、40事業所にまで拡大している。また、「病気に負けない地域づくり」をめざし、予防医療にも力を入れている。

 地域の人々の健康ひいては命を守る使命感を胸に、助産師として協力隊に参加した服部舞依子さん(平成17年度派遣/インドネシア/助産師)を訪ねた。

協力隊参加の夢をかなえてくれた病院に感謝

「私が小学生のとき、母がアフリカの難民へ毛布を送っていました。国際協力という言葉こそ知りませんでしたが、そんな母の姿を通して、『自分もいつの日か、人のためになることができるようになるといいな』と思っていました」と服部さん。高校で進路を考える際も、世界中どこに行っても必要とされる技術を身につけ、国際協力に貢献したいとの考えから、看護大学への進学を決めた。そうしたなかで、病気になってからの治療に携わるのではなく、病気にならないための予防医療に携わりたいとの思いを強くしていった服部さんは、新しい命と母体の健康を守る助産師になることを決意。看護大学を卒業後、別の大学へ入学し、助産コースを1年間専攻した。その後、国家試験に合格し、助産師となった服部さんは南生協病院に就職。

 就職した当初から、「経験を積んで、いずれは協力隊に参加したい」、そう周囲にこぼしていたという服部さん。多忙な日々に追われながらも、協力隊参加の夢を忘れたことはなかった。就職して6年が過ぎ、服部さんは満を持して、協力隊の受験を当時の上司に宣言。その後、服部さんが合格の報告をすると、上司からは冗談交じりに、「そっかあ、合格しちゃったかぁ」と言われたという。「もしかすると、合格すると思っていなかったのかもしれませんね」と服部さんは笑う。

 その当時、同病院には、1年間のリフレッシュ休暇は設けられていたものの、2年の活動期間を要する協力隊に、現職のまま参加できる制度は設けられていなかった。しかし、服部さんが現職参加制度に関する情報(有給休職に対してJICAからの人件費補てんがあること、現職参加を認めている企業や団体が数多くあることなど)を上司に伝えたところ、リフレッシュ休暇の延長として2年間の休職が特例として認められる運びとなった。特例の適用については、その都度、常勤理事会において対象職員の人物評価が行われた上で決定される。服部さんの場合は、5年以上の在籍があったことや、帰国後も職場に経験を還元するだろうとの期待のもと、特例が認められた。

 「経済的不安や再就職の心配をすることなく協力隊に参加できるようにしてくれた病院には、心から感謝しています。現職で参加する場合のことを、思い切って伝えてみた甲斐がありました」と服部さん。こうして同病院初の現職参加協力隊員となった服部さんは、2005年7月に助産師としてインドネシアへ派遣される。

「病気になってからでは遅いんです。現地では改めて予防医療の大切さを学びました」と話す服部さん。

「休職」ではなく「キャリアアップ」

南生協病院は、今年の3月、名古屋市南区から同市内緑区に新築移転をした。救急部門、緩和ケア部門、健診センターなどをこれまで以上に大きく拡充させたほか、同敷地内に、メディカルフィットネスクラブ、レストラン、ベーカリー、保育園、助産所などを併設。この移転に際し作成したスタッフ募集の要項には、特例が認められ協力隊に参加した服部さんのことが掲載されている。

 同病院の看護課長で、服部さんの現在の上司でもある神原珠美(かんばら たまみ)さんは、協力隊に参加した服部さんのことを次のように話す。「私も以前、協力隊に行ってみたいと思っていた時期がありました。ですから、個人的には本人の意思を尊重し、応援する気持ちでした。彼女の合格を機に、現職のまま参加することに対して検討がなされる体制が確立されたことは、人材を失わずに済むという意味においても、非常に有意義なことだと思います。もちろん、優れたスタッフが2年もの間不在になることについては、『困るな…』というのが現場の本音ではありますが(笑)。実は、彼女の前にも、協力隊に参加した先輩方がいます。しかし、皆、退職をしての参加でした。その先輩方は協力隊に参加する前から仕事に対する志も人一倍高く、スキルの面でもとても優秀で、いわゆる『憧れの先輩』でした。そんな先輩方が、帰国後に同じ職場に再就職という形で戻ってきてくれて、現地での経験を存分に生かしながら働く姿に、さらなる憧れを抱いたものです。そうした活躍ぶりと実績は、おそらく上層部のほうも分かっていたのではないでしょうか。だからこそ、服部さんの協力隊合格を機に、特例として検討する動きになったのだと思います」。服部さん自身も、「私の現職参加が認められたのは、諸先輩方の活躍のおかげです。私の合格はきっかけに過ぎません」と話す。

 現職参加の協力隊員は、日本の職場を「休職」するが、現地において「キャリアアップ」し、それを復職後に生かすことができるということを、協力隊参加者が自らの姿で実証してきた意味はとても大きい。

「私が新人のころから、この病院は、患者さんはもちろんのこと、働くスタッフも含め『人』を大切にする病院なんです」と神原さん。

協力隊の経験が組織の成長につながる

南生協病院を含め、計116生協が加盟する日本医療福祉生活協同組合連合会 では、世界の保健医療活動に貢献する重要性を鑑み、JICAボランティア事業に賛同し、現職派遣制度を推進している。

 同会の常務理事を務める東久保(とうくぼ)浩喜さんは次のように話す。「世界の保健活動に携わる機会は、世界の医療危機を見つめる良いきっかけになるはずです。また、途上国での医療活動は、設備や物資など様々な条件において極めて制限された中での活動となるため、現地の人々と協力しあいながら、創意工夫を凝らすことが必須条件となるでしょう。私たちの生活協同組合という組織は、人と人がつながり、力を合わせ、知恵を集め、問題解決をしていく組織です。そういう意味で、途上国で活動される協力隊員の皆さんと、私たちがモットーとすることは同じだと思います。正直なことを言えば、医師、看護師をはじめ、医療技術スタッフは常に不足している現状ですから、1名のスタッフが2年にわたり不在となることは現場の大きな負担になります。しかし、組織のトップが広い視野と受け皿で、各職員の可能性を育てるべく、現職派遣希望者を支援していくことは、一人ひとりの成長につながり、最終的には組織全体の豊かさや、事業の質の向上につながっていくものだと思います。国際協力に熱意を傾ける本人の志も立派ですし、その志を応援する仲間や上司も同様に立派だといえます。したがって、連合会としても、国際協力にチャレンジしたい職員と、それを支える現場を、可能な限り援助していく考えです」。

「服部さんのような協力隊経験者の活躍ぶりを全国の加盟生協に紹介し、参加希望者に対する現場や上司の方々の理解につなげていきたい」と話す東久保さん。

「人を助ける」から「人と支えあう」へ

服部さんが派遣された先は、インドネシア中部ジャワ州レンバン県の保健衛生事務所。現地の保健システムや母子の健康状態を分析し、現地スタッフ(村の助産師や保健ボランティア)を対象に、妊婦さんたちに対する栄養改善の指導意義を伝えた。そして、現地スタッフを講師とした母親学級を立ち上げ、妊婦さんたちを対象に、妊娠中の栄養バランス、出産後の離乳食バランス、母乳育児の重要性を指導。初めは服部さんに言われるがままだった現地スタッフも、服部さんのひたむきな姿に少しずつ感化され、服部さんが着任して2年目になると、現地スタッフが自発的に母親学級を開くようになった。内容も、栄養改善指導のみならず、予防接種の重要性を妊婦さんたちに伝えるなど、現地スタッフの成長ぶりには目を見張るものがあったと服部さんは話す。

 現地スタッフとの会話は、主にインドネシア語だったが、村の妊婦さんたちの中には、現地語(ジャワ語)しか話せない人もいたため、言葉には苦労したと話す服部さん。また、業務の内容上、専門用語や略語が多く使われるため、毎日が勉強だったという。

 「言葉の壁に悩んだり、自分が体調を崩したりと、苦労もそれなりにありましたが、現地の人々の優しさや温かさにいつも救われていました。自分の中にあった『人を助ける=何かしてあげる』という意識が、『人は、人と人とのつながりの中で互いに支えあっていくものなのだ』ということを彼らから学びました。協力隊員として現地に残してきたものよりも、人として、助産師として、非常に多くのことを現地で学ばせてもらったと思っています」と服部さんは語る。

 また、協力隊に参加する以前の服部さんは、仕事を進める上で、「自分が何とかする」、「自分がやりきる」ことに注力する傾向にあったが、協力隊経験を通し、「周囲と協力し合って、各々が持っている能力を生かし、相手のペースも尊重しながら、仕事をすることが大切」と強く思うようになったという。協力隊に参加する以前から服部さんを知る神原さんも、「以前の彼女は、生真面目すぎて頑張りすぎる傾向があったのですが、協力隊に参加してから、必要に応じて周囲と協力しあえるようになり余裕が生まれたのか、とても大らかになりました。肝を据えて仕事に取り組めるようになったと言ってもいいかもしれません(笑)」と話す。

現地での移動乳幼児健診の様子。「世間話の流れの中で、食事バランスの話もすると分かってもらいやすかったですね」と服部さん。

協力隊での活動も認められ復職後は主任に抜擢

2年のインドネシアでの任期を終え、職場復帰を果たしたときのことを思い出しながら、服部さんはこう語る。「以前からいたスタッフが、私のことを新しいスタッフにも話してくれていたりして、とても温かく迎えてもらいました。ここのスタッフは皆、それぞれが家族のような存在で、本当に温かいんです」。そして、復職してから半年後、服部さんは主任に抜擢される。上司の神原さんは、「この病院では、昇進するにあたり、二つの部署を経験することが条件になっています。協力隊参加前の6年にわたる彼女の勤務実績は素晴らしいものでした。そして、2年にわたる協力隊員としての活動もまた一つの立派な実績だと思いました。そして、彼女なら、協力隊員としての経験を必ず現場に還元してくれるとの考えから、私は協力隊での経験を一つのキャリアとして認めてほしい旨を上層部にも伝えました」と話す。つまり、服部さんが主任に抜擢されたということは、服部さんの協力隊経験が、院内の別の部署を経験したことに値すると認められたということである。

 帰国して3年が過ぎ、主任として多忙ながらも充実した日々を送る服部さんに今後の抱負をうかがった。「病気になると心細くなりますよね。それが、海外で病院に行くとなればなおさらです。私自身、インドネシアで体調を崩したときに、そのことは身に染みて感じました。国際協力は海外でするものだと思っていましたが、在日外国人が増える今日、医療の現場で彼らを援助することも国際協力の一つの形なのだと思うようになりました。具体的なことはこれからですが、今後は日本国内で国際援助の一端を担っていきたいですね」と服部さん。

 新しい命を健やかに育んでいきたいという母親の願いに国境はない。インドネシアで数多くの母子の健康維持に貢献し、帰国後もその経験を生かしながら日本の医療現場で活躍し続ける服部さんのようなグローバルな人材が、今後も数多く生まれていくことに期待が寄せられる。

PROFILE

総合病院南生協病院
総合病院南生協病院は、南医療生協(組合員61,300名、出資金総額24億6,000万円)の40事業所のなかのセンター病院です。今年3月に、1976年以来医療活動を行なってきた名古屋市南区から緑区へと新築移転をしたばかりです。この新南生協病院づくりの基本テーマは、「市民の協同でつくる健康なまちづくり支援病院」でした。「病院らしい病院」を充実させるとともに、「病院らしくない病院」も充実させました。敷地内には、54%個室の病院とともに、コープ健診・ドックセンター、コープフィットネスクラブwish、コープ助産所はあと、病児保育を含む4つの保育園、院内学級あすなろ、コープあいち(消費生協)・大学生協事業連合・南医療生協の協同で経営するレストラン・喫茶・売店、オーガニックレストラン、オーガニックベーカリー、「多世代交流館だんらん」などが活動しています。「みんなちがってみんないい、ひとりひとりのいのち輝くまちづくり」(南医療生協の基本理念)で、これからも歩んでいきます。
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