四国電力株式会社協力隊として撒いた「しあわせのタネ」は
やがて「しあわせのチカラ」という花に

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大切なのは「しあわせのチカラ」になること

四国電力株式会社が2006年9月に制定した「よんでんグループ行動憲章」では、「地域と共に生き、地域と共に歩み、地域と共に栄える」との基本精神のもと、社会的責任を果たすことがグループ全体の成長と発展に必要不可欠であるとしている。この基本精神に則り、業務を遂行していくことが、ステークホルダー(お客様、株主・投資家の皆さま、取引先、従業員、地域社会)一人ひとりの「しあわせのチカラ」につながっていくという考えだ。

 この考えの先駆けとなるかのように、同グループが意味する「地域」をセネガルにまで広げ、そこに住む人々の「しあわせのチカラ」を育んだ橋本勇士さん(平成14年度派遣/セネガル/村落開発普及員)にお話をうかがった。

変わりゆく社会と自己変革を意識して

橋本さんが協力隊への参加を意識し始めたのは、四国電力に入社して17年目のことだった。2001年当時、橋本さんは経営企画部に所属し、同社の事業計画を立案したり、ビジョン策定に携ったりする仕事をしていた。折りしも、社会全体の規制緩和が加速した時期。電力の小売も部分的に自由化が進み、既存の電力会社は変革期を迎えていた。橋本さんは当時を振り返り、「会社の未来を思い描きながら事業計画を練るなかで、社会や会社の変化を意識せざるをえませんでした。そんなとき、ふと、『自分はこのまま変わらなくて良いのだろうか』と考えることが増え、通勤時に電車内で見かける『協力隊員募集』の広告がやけに気になるようになりました」と話す。

 青年海外協力隊への応募資格が「20歳~39歳」と知った橋本さんは当時39歳。「やるなら今しかない」と思いながらも、会社にとっても大事な時期であることが気がかりで、応募できずにいた。その本音を、当時の上司や同僚に打ち明けると、「悩むのは合格してからでいいんじゃないのか?」との言葉が返ってきた。「まさか合格するとは誰も思っていなかったんでしょうね(笑)」と橋本さん。こうして早速受験するも1度目は不合格。応募資格の年齢を考えると、次の受験が最後の挑戦だったが、その2度目で橋本さんは合格の通知を手にする。合格が決まってからも、仕事のことを考えては、本当に行って良いものかどうか悩んだという。社内の反応も様々で、応援してくれる人もいれば、重要な仕事をしていた橋本さんの長期にわたる不在に対して反対の声もあった。しかし、最終的には、橋本さんの「幅広く世の中を知ることで、帰国後に会社に還元できるものは必ずある」との考えに周囲は納得。

 橋本さんは、協力隊への参加に対する自身の考えを次のように話す。「派遣期間中でもお給料をいただいていることを考えると、協力隊に参加するということは、『自分の意思で自分が働く場所を変えること』だと認識しています。ですから、『活動をする』というよりは、『事業を成し遂げる』という気持ちでの参加でした」。

 こうして、橋本さんは、村落開発普及員として、複数の「事業」をセネガルの地で始めることになる。

「自分より一回りも若い同期隊員たちとの交流は、今も続いています。これも私にとっては大きな財産です」と話す橋本さん。

 

「組織の外の人間とやりとりをする能力は、実際に組織の外に出て、経験を積むのが一番の近道だと思います」と山崎さん。

セネガルでの経験は本人ならびに会社の財産

同社の人事労務部・人材開発グループリーダーの山崎直樹さんは、「一定の勤続年数が満たされていれば、公的な機関が主催するボランティア活動および青年海外協力隊への参加に限り、ボランティア休暇制度の利用を認めています。本来の業務に大きな支障が出るような場合は相談が必要になりますが、できるだけ本人の希望を大事にする考えです。社員の希望を満たすということは、仕事に対する意欲や気力を育てることにつながるためです。協力隊員として活動するなど、組織外での経験は本人の財産であると同時に、弊社の財産でもあります。ひいては地域の、あるいは四国の財産であると言っても過言ではありません」と話す。

 また、総合企画室・支配人事業企画部長の佐伯勇人(はやと)さんは、橋本さんを次のように評価する。「彼の仕事ぶりは長きにわたり見てきています。彼は、どんな仕事でも、きっちりとやり遂げていく逸材ですから、どこへ行っても立派な仕事をするであろうことは分かっていました。実は、海外に出向する人材として彼を推薦したことがあります。そのときも『彼の不在は困る』という声が多数あがり、彼の出向はなくなりました。ですから、形は違っても、協力隊員としてセネガルへ行くと聞いたときは、心からのエールを送りました。私たちの仕事は公益事業ですから、地域共生および地域貢献を大切にしています。その根底には、企業としての責任を果たし、皆様からの信頼を培っていくという思いがあります。彼は、それをセネガルでしてきた。つまり、地域貢献の延長線上に国際協力があるということではないでしょうか」。

「協力隊での経験を生かし、彼には、海外との交渉を進める最前線で活躍してもらっています。何があっても動じず、頼りになる存在です」と話す佐伯さん。

ゼロから立ち上げることの魅力

橋本さんの任国はアフリカ大陸の最西端にあるセネガル共和国。同国北部のサンルイ州ファナエ・ジエリ村の開発局に配属された橋本さんは、管轄下にある約50の村々をバイクで訪問し、どこで何が必要とされているかの調査から始めた。「村落開発普及員を職種に選んだのは、ゼロから何かを立ち上げることに魅力があったからです」と橋本さんは話す。そんななか、現地の女性グループのリーダーから、「女性たちの労働力を、現金収入の向上につなげたいが、何をするにも資金がない」との相談を受ける。配属先の開発局に十分な予算はなかった。銀行からの融資を考えるも、利息の高さや担保の必要性などから断念。そこで、橋本さんは、四国電力およびグループ会社に、各支援者に対してメールで定期的に活動報告をすることを条件に支援を仰いだ。すると、1,000名を超える有志から約130万円が集まった。「現地の価値に換算すると600万円くらいになるため、資金としては十分すぎるほどでした。でも、それを単に与えてしまうのではなく、まず融資と返済の枠組みをつくり、そのなかで、できることに取り組みました」と橋本さんは話す。

 数多くの取り組みの中でも、橋本さんが特に注力したのが、野菜の栽培だ。3ヘクタールの土地に生えた木の伐採から始め、重機を借りて土を掘り起こし、水揚げポンプを購入し川から水を引いた。畑と呼べる状態にするまでに3ヶ月。その場所で、女性グループのメンバーたち約50名は、玉ねぎ、とうもろこし、ナス、米などを栽培した。橋本さん自身、農作業は全くの未経験だったが、2日に1度は畑へ出向き、農作業を手伝った。必要に応じて、技術指導者を招き、商品価値の高い野菜づくりに尽力した。その一方で、橋本さんは、女性たちが苦手な資金管理、スケジュール管理、販売ルートの拡大にも努めた。当初はグループとしてのまとまりがなく、個々人の責任感や技術力にも差があったが、農作業を通して、協力し合うことの大切さや、計画にそって物事を進めていくことの重要性を女性たち自らが学び、自負心を持って作業をするようになった。「おびただしい数のバッタの襲来で、畑が甚大な被害を受けたときには、融資金の返済も滞り、現地での農業の厳しさを痛感しました。でも、女性たちが再び野菜作りの継続に前向きに取り組み始めたときには、本当に嬉しかったです」と橋本さん。

 他にも、橋本さんは小学校の開設へ向けて東奔西走した。現地の村人と協力し、教室用の建物や教材を準備。教育委員会にかけあうことで、教師の派遣も受けることができた。また、多くの父兄から要望が寄せられていた給食の実施も、橋本さんが教育委員会と交渉を重ねたことで、食材の提供が受けられるようになり、要望に応えることができた。こうして約40人の子どもたちが小学校で学ぶことになった。

 支援者に返済するつもりだった130万円は、「現地で有意義に使ってほしい」という支援者の声により、村人の生活・教育向上のための資金として、橋本さんが配属されていた開発局や教育委員会に寄付された。

  2年の月日は瞬く間に過ぎたが、共に額に汗した現地の人々とは深い絆で結ばれた。畑は「シェイクの畑」、学校は「シェイクの学校」と名づけられた。「シェイク」とは、橋本さんの現地での呼び名なのだそうだ。ちなみにシェイクとは、現地のイスラム語で「賢人・知識人」を意味する。 離任の日が決まっても、橋本さんは、それを誰にも言い出せなかったという。「別れの日の当日に、『今日、ここを去ります。でも、もし5年後も畑が続いていたら、必ず見に戻ります』と伝えるのが精一杯でした」と橋本さんは話す。

和気あいあいとした雰囲気のなかで、女性グループと野菜作りについて話し合う協力隊時代の橋本さん。

5年の時を経て感じる成長

奇しくも橋本さんがセネガルへ派遣されている間に、四国電力には海外での事業を専門に推進する部署が新設された。復職した橋本さんは、セネガルでの実績と経験を評価され、その新設の部署に配属となる。現在はそこで、海外で発電事業を展開するチームのリーダーとして多忙ながらも充実した毎日を送っている。「現在の仕事には、ゼロから外国人と交渉し、こちらの希望を伝え、相手の言い分にも耳を傾け、多くの関係者と折り合いをつけながら、互いに納得できる結論に持っていく力が求められます。これはまさしくセネガルで自分がやってきたことなんです。セネガルでの2年間が、今の仕事をするための予行演習になったと言ってもいいくらいです。交渉する内容や規模こそ異なりますが、協力隊での経験が、今の仕事に大きく役立っています。現職のまま協力隊参加を認めてくれた会社にも感謝していますが、帰国後に、やりがいのある仕事をさせてもらっていることにも感謝の気持ちでいっぱいです」と橋本さんは笑顔を見せる。また、橋本さんの上司でもある佐伯さんは、「彼は、セネガルでの様々な経験を通して、以前にも増して大きく成長し、戻ってきてくれました。そして、現地での経験を生かした活躍を見せてくれています。昨年だけでも20回以上の海外出張へ行ってもらっていますが、安心して交渉を任せられます」と話す。

 現在でも1年に2度ほど、現地の女性グループのリーダーと手紙のやり取りを続けているという橋本さんは、5年が過ぎてもなお、畑が続いている知らせを受け、2010年秋、約束のセネガル再訪を果たした 。「2度と訪れることはないと思っていましたが、約束してしまっていたので(笑)。現地の人たちに歓迎していただき、感無量でした。そして、5年がたっても変わらずに、野菜が育てられている畑を目の前に、涙が溢れました」と橋本さん。さらに嬉しいことが一つ。当時、小さかった子どもたちが「シェイクの学校」を卒業し、中学校へ進学していたのだ。「小学校の開設当時に、教育委員会から派遣された先生は、セネガル国内でも都市部で育った若い青年で、電気も、水道も、トイレさえもない僻地での教員生活は長くは続かないと思っていたんです。先生がいなくなれば学校はなくなる。そんなふうに思っていました。でも、あの青年が、今も教師を続けてくれていたんです。これを聞いて、また涙でした」と、橋本さんは瞳を潤ませながら語った。

 四国電力のキャッチフレーズである「しあわせのチカラになりたい」という思いは、橋本さんと現地の人々との懸命な努力のもとで、畑や学校という形になり、今なお村人たちの生活や教育を支えている。橋本さんがセネガルの小さな村にまいた「しあわせのタネ」は、今後も様々な形で「しあわせのチカラ」として咲き続け、セネガルの人々が生きる力になっていくことだろう。

2010年秋、約束の再訪時。「私を乗せた小舟の到着を、子どもたちが何時間も待っていたと聞いて胸が熱くなりました」と橋本さんは話す。

PROFILE

四国電力株式会社
四国電力は、「地域と共に生き、地域と共に歩み、地域と共に栄える」という基本精神のもと、広く社会に対する責任(CSR)を果たし、貢献する様々な活動の実践を通じて、ステークホルダーの皆さま(お客さま、株主・投資家の皆さま、取引先、従業員、地域社会)との信頼関係の構築に努めています。

公益事業者である弊社の「使命」は、良質で低廉な電気を安定的にお客さまにお届けするということです。私達はこれまでも、使命遂行のため、3E(安定供給・環境保全・経済性)の同時達成を目指した「電源のベストミックス」の実現に取り組んできました。また、特に近年では、地球温暖化に対応する「低炭素社会の実現」に向けた新たな取り組みとして、メガソーラー発電所や電気自動車の導入など、幅広い事業活動を推進しています。

四国電力は、引き続きその使命遂行に向け、関係会社を含めた『よんでんグループ』全体で協働しながら、全力を尽くしてまいります。
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