JICA協力隊の人とシゴト
河合 純一(かわい じゅんいち)さん

河合 かわい  純一じゅんいちさん

現在のシゴト
日本パラリンピック委員会 委員長
職  種
水泳
派遣国
マレーシア
派遣期間
2006年7月
  • グローバルキャリア
  • # 経験を生かす # スポーツ # 障害当事者

誰もがチャンスを
得られる世の中に。
パラリンピックが後押しする、
これからの共生社会。

2020.08

応募のきっかけ

17歳から6回のパラリンピックに
出場。すべてを出し切った先に、
次のステージがあった。

小学1年生で水泳部に入り、3年生になる頃には毎日のように泳ぎました。中学に入学した頃、わずかに見えていた右目の視力も落ち、3年生になる頃には全盲に。それでも水泳は続け、一般の県大会の決勝に出場。卒業後は、教師になる夢を抱えて単身で東京の盲学校に進学し、水泳部に入りました。17歳でバルセロナ大会に出場して以来、パラリンピックには連続6回出場。大学3年生の時、2度目のアトランタ大会で目標だった金メダルを獲得しました。4年分の練習が凝縮された、パラリンピックのステージ。水泳は、自分らしさを表現する手段であり、自分が生きてきたすべてが現れる場でした。

大学卒業後、公立中学校の教師を務めながら、視覚障がいのある子どもたちに向けた無料の水泳教室を始めました。10年ほど継続するなかで、「自分の経験やノウハウが生きるのなら行ってみたい」と、2006年にJICA海外協力隊(短期派遣)に参加しました。もともと大学時代のゼミ仲間に協力隊経験者がいたことも、後押しとなったのです。

河合 純一さん

現地での活動

日本でできるなら、世界でも教えられる。
どこかで同じ思いをしている人の、
力になれるように。

赴任先のマレーシアでは、上級レベルの選手のほか、盲学校の子どもたちにも泳ぎを教えました。彼らの多くはイスラム教徒でしたので、長袖長ズボンでプールに入ります。泳げる人でも着衣での水泳は大変ですから、頭を抱えました。とはいえ、基本的な指導方法は日本と変わりません。大事なのは、浮くことでなく、潜ること。潜ることができれば恐怖心がなくなり、泳げるようになります。僕が水の中で指を出し、「触って何本か当ててごらん」というように、楽しみながら潜る練習をしました。能力に合わせて少し難しい目標を立てると、必死に挑戦する。その姿を見た時、何かを達成する喜びは、世界共通なのだと感じました。

盲学校での水泳指導

帰国後のキャリア

東京大会が、僕にとっての
バルセロナであるように。
価値観を揺さぶられる瞬間を
皆さんに届けたい。

2週間のJICA海外協力隊経験は、「サポートがあれば、自分にもできる」という自信につながりました。一方で、世界には、障がいがあることで必要な情報や優れた指導者に出会えない人もたくさんいます。その改善のために、何らかの協力をしていきたいという気持ちが芽生えました。

その後、2008年からアジアパラリンピック委員会のアスリート委員を務めることに。原点には、マレーシアでの気づきがあったと思います。

2020年1月に日本パラリンピック委員会の委員長に就任し、今の目標は、日本選手が活躍する環境を作り、東京パラリンピックの全会場を満員にし、大会を成功させることです。それによってメディアの報道量が増え、見る人が増えれば、皆の意識も高まる。それは、過去の大会でも証明されていることです。

僕は、パラリンピックは「人間の可能性の祭典」だと思います。来て体感して、選手と出会うことで、価値観が揺さぶられる瞬間がある。それこそがパラリンピックの目指すところです。人間の想像を超えたパフォーマンスに出会うことで、自分が無意識に感じていた限界に気づき、壁を壊すきっかけとなる。パラリンピックは選手の可能性を目撃すると同時に、自分自身の可能性を再認識する場なのです。今回の東京では、そんな“本物”に触れる機会を提供したいですし、会場や選手村、ホスピタリティにおいても、そのことを感じてもらえる大会になるはずです。

僕は1992年のバルセロナ大会に参加したときの驚きと感動を今でも覚えています。当時の日本ではパラリンピックに関する報道はなく、オリンピックとはまったく違う扱いでした。しかし、スペインではオリンピックと同じ会場で試合をし、多くの観客が観戦し、TVで放映されたのです。その状況に、17歳の僕は「いつか日本もこんな風になったらいいな。そうしたい」と思いました。

バルセロナ大会から約30年が経ち、ようやく日本も当時以上の環境になってきました。今大会では、パラリンピック最多の170近い国と地域から選手たちが参加する予定です。初めてパラリンピックに参加する選手や国もあるでしょう。その時に、彼らにとっての東京が僕にとってのバルセロナのようになってほしいと思っています。

東京パラリンピックでは、全国の「共生社会ホストタウン」にパラリンピアンが来日し、当地での練習を経て、本番を迎えます。今回サポートを経験するホストタウンが、その県のロールモデルとなり、今後、共生社会を進めていってほしいと思います。同じ気持ちを持った人が増えることが、それぞれの国や地域を発展させていくのだと信じています。

日本パラリンピック委員会では、子どもたち向けにパラリンピックを題材としたインクルーシブな学びを促す国際パラリンピック委員会公認教材「I'mPOSSIBLE(アイムポッシブル)」を、全国すべての小中高校、特別支援学校などに配布しています。授業に必要なものがすべてそろったパッケージで、パラリンピックのことをあまりご存じなくても負担なく授業できるようになっていますので、日本国内で学校の先生をしておられる関係者の皆様にはぜひご活用いただければと思います。

また海外の学校での任務に当たっていらっしゃる隊員の皆様には、是非国際版(英語)の「I'mPOSSIBLE」を学校でご活用いただければと思います。I'mPOSSIBLEの授業を行っていくことで、地域の障がい者への理解が深まり、彼らの社会参加が促進されることに繋がったという報告もあります。是非赴任国のパラリンピック委員会にお問合せいただき、共にパラリンピックムーブメントの推進にご協力いただければ幸いです。

河合 純一さん

JICA海外協力隊で得たもの

「自分にもできる」ということに気づけたことは大きかったと思います。しかし一方で、自分がチャンスや環境に恵まれてきたことにも気づきました。「僕は恵まれていて良かった」で済ませたら、社会の仕組みとしてはよくありません。恵まれた人をもっと増やすための仕組み、誰もがそうできる仕組みに変えていくためにも、まずは「少人数でもできる」、その先に、「誰もができる」というステップを踏んで、進んでいけたらと思います。

「やればできる」という意識

これからJICA海外協力隊を目指すみなさんへのメッセージ

パッションはもちろんですが、それだけでは片付けられないことも多いのが実情です。「自分のどんな力がその国や地域に生かせるか」を考え、課題解決のためのスキルやナレッジ、ネットワークを作る技術を持った上で任務を果たせたら、自信になると思います。当時31歳でしたが、教師としてスキルを磨き、大学院で学問として障がいについて学んだ後に参加できて良かったです。

おすすめ記事
記事一覧に戻る
PAGETOP