派遣国の横顔   ~知っていますか?
派遣地域の歴史とこれから[メキシコ]

母子保健、障害児・者支援、ビジネス、スポーツと、幅広く協働

日本の5倍もの国土のあるメキシコ。各地で活動してきた隊員たちの足跡をたどると、メキシコの人々の寛容性と柔軟性がそれぞれの活動を後押ししたことを感じる。

笹川恵美さん
笹川恵美さん
助産師/1999年度2次隊・福島県出身

PROFILE
小学生の頃から協力隊に関心を持つ。看護師と助産師の資格を取得し、助産師として病院に5年半勤務後、旅行して楽しかったメキシコの要請に応募し、協力隊に参加。帰国後は国立保健医療科学院で公衆衛生を学び、国際保健分野の専門家として活動後、東京大学大学院医学系研究科で博士号を取得。東京大学大学院の助教を経て、2023年4月から日本赤十字看護大学の准教授として母性看護学と国際保健助産学を教えている。

横尾咲子さん
横尾咲子さん
体育/2003年度2次隊・山形県出身

PROFILE
大学院でダンス・セラピーの研究中に休学し、協力隊に参加。帰国後復学、修了後に民間企業に就職。2010年、NPO法人「手をつなぐメキシコと日本」を設立。11年に夫の故郷であるメキシコに移住。現在、メキシコ文化庁契約アーティストとして紙芝居の上演などを行う。また日墨文化交流プロジェクトを企画・運営。20年からメキシコ惠光寺の副住職も務める「踊る尼さん」。法名は墨西哥(メキシコ)に仏法の花を咲かせるという意味を持つ「墨咲(ぼくしょう)」。

小沼 勇さん
小沼 勇さん
SV/キルギス/輸出振興/2009年度9次隊、SV/品質管理・生産性向上/2014年度3次隊・北海道出身

PROFILE
大学工学部を卒業後、日本の商社、外資系石油化学メーカーなどに勤務し、品質管理や生産管理、アメリカ式マネジメントに携わる。定年後は日本の化学メーカーのインド副支社長として2年駐在。その後、シニア海外ボランティア(貿易振興)に参加し、キルギス共和国で10カ月活動。2015年にメキシコへ。帰国後は、SVの経験を生かしてドイツ自動車工業会に所属し、バスやトラックなどの排気ガス浄化システム専用の尿素水を認証する監査を行っている。

篠原優衣さん
篠原優衣さん
バドミントン/2022年度7次隊・栃木県出身

PROFILE
8歳からバドミントンを始める。学生時代にJICA北海道でインターンをして協力隊OVや各国の研修員と交流したこと、インドネシアの村でのバドミントンを通した交流体験をきっかけに協力隊に応募。当初、2019年度3次隊でエチオピア派遣の予定だったがコロナ禍によって約2年半の国内待機に。任国変更となり、2022年8月にメキシコ派遣。

伝統的産婆と保健センターをつなぎ、
安全なお産を増やす

   1990年代、メキシコは既に経済的には中進国とされていたが、都市と農村部の格差が大きく、母子保健分野でもそれは顕著だった。99年から2年間、助産師隊員として活動した笹川恵美さんも経済的に弱い立場にある妊婦たちに寄り添った。

   笹川さんは日本で助産師を務めていたが、慣例的な会陰切開など、お産への必要以上の医療介入が当たり前の状況で、医療介入のない出産に関わったことがなく、そして自らの助産師としての力量にも自信を持てずにいた。「途上国に行けば昔からの自然なお産を学べるのではないか」。そんな思いが協力隊への参加理由の一つだった。

笹川さんが提案して開催されるようになった母親学級。参加した妊婦に話をする保健センタースタッフと笹川さん(奥左から2人目)

笹川さんが提案して開催されるようになった母親学級。参加した妊婦に話をする保健センタースタッフと笹川さん(奥左から2人目)

   配属先は、中部のベラクルス州のカテマコ市にある保健センターで、地域の貧しい人々に無料で医療を提供する施設だった。一方、富裕層は私立病院、社会保険を納めている公務員などは専用の病院を受診する仕組みになっていた。また、伝統的産婆の立ち会いの下、自宅出産する女性も多かった。

   同州では、乳幼児死亡率や妊産婦死亡率の改善を図るため、JICAの母子保健プロジェクトのパイロット事業が行われたことがあり、家族計画サービスの提供や子どもの予防接種が進み、母子手帳を使った妊婦健診も広まりつつあった。

   要請内容は、地域住民を対象にした母子保健サービスの改善と、家族計画や母子保健についての知識の向上で、医療行為は認められていなかった。なおメキシコに助産師という仕事はなく、分娩介助は医師や伝統的産婆が担う。

   赴任まもなく、笹川さんはショッキングな出来事に遭う。飛び込みで運ばれてきた逆子の分娩中、胎児の頭が出てくる前に、医師が母体から胎児に酸素を供給しているへその緒を切ってしまい、赤ん坊が亡くなってしまったのだ。

「危険な医療が行われていることを目の当たりにしました。そして、ぼうぜんとしている妊婦さんに、担当看護師が開口一番に『なんで妊婦健診に来なかったの? 来ていれば逆子を早く発見できていたのに』と怒鳴ったのです。普段はみんな私に対して優しいのに、妊婦さんにはあまりに威圧的で悲しくなりました。利用者が貧困層ということが、余計に看護師を威圧的にさせていたのだと思います」

   自身が分娩に直接携われないという無力感も感じながら、どうすればこの地域の妊婦が安心してお産を行えるようにできるのかを考えた笹川さん。カウンターパート(以下、CP)の看護師長はJICAのプロジェクトによって日本で研修を受けた人で、笹川さんの活動に理解を示し、さまざまなアイデアを受け入れてくれた。

   笹川さんは保健センターでの母親学級の開催を提案すると、地域の妊婦を一人ひとり訪ね、参加を呼びかけて実施した。妊婦健診に来る女性には、待ち時間を利用して、妊娠時期が進むにつれて成長する胎児の様子を絵に描いて伝え、望ましい食事や生活などを個別に指導した。また、センタースタッフには、普段から妊婦に優しさを持って接することで、妊婦を尊重することの大切さを伝えていった。

笹川さん(右)が作った、妊婦向けの資料。 妊娠初期・ 中期・ 後期で赤ちゃんがどのような状態なのか、 妊婦はどのように過ごせばよいのかをわかりやすく伝えた

笹川さん(右)が作った、妊婦向けの資料。 妊娠初期・ 中期・ 後期で赤ちゃんがどのような状態なのか、 妊婦はどのように過ごせばよいのかをわかりやすく伝えた

   その後、笹川さんは看護師長にさらに踏み込んだ提案をした。それは希望があれば、伝統的産婆が保健センターでの分娩介助を可能にするというものだった。読み書きのできない人も多い地域で、十数人いた伝統的産婆は医療の専門的教育を受けていないため、産科学的知識に乏しいと見なされ、保健センターと関わる機会は少なく、スタッフの抵抗もあった。

「でも、清潔な医療機材のある保健センターの分娩室を無料で使えるようになれば、妊婦さんたちが頼りにする産婆さんによる分娩がもっと安全に行えるようになります。看護師長はその考えに賛同してくれ、積極的に産婆さんたちとの連携を進めてくれました」

   笹川さんは看護師長と共に、伝統的産婆の技術や知識を向上する研修を定期的に行った。保健センタースタッフと伝統的産婆がコミュニケーションを増やして信頼関係を築くと、伝統的産婆としか関わりのなかった妊婦が保健センターを訪れるようになり、地域の母子保健の改善につながった。

「いろいろなチャレンジをする場を提供してもらった協力隊の2年間でした」

   そう振り返る笹川さん。メキシコでの体験を機に、科学的根拠のない不適切な医療介入を受けて女性の心や身体が不必要に傷つくお産を減らしたいと、「出産のヒューマニゼーション(※1)」を生涯の研究テーマに決め、探求を続けている。

※1 出産のヒューマニゼーション…人間の自然な営みである分娩を生理学的に捉え直し、過度な医療介入を避け、人間の産む力生まれる力に敬意を表しながら母児の力を最大限に生かせるような分娩時のケア。

身体表現と紙芝居ですべての
子どもが安心して学べる環境づくり

   メキシコ政府は2001年に「障害者の権利条約」(※2)を国連に提案し、社会で最も脆弱な人々を排除しない社会の実現を訴えた人権意識の高い国だ。

   横尾咲子さんは、それから2年後、障害のある子どもとない子どもが一緒に学ぶインクルーシブ教育を進めるため、イダルゴ州チャパントンゴの養護学校に体育隊員として赴任した。

横尾さんの紙芝居『スイミー』を見た子どもたちが、自分たちで演じてみようと赤い魚を工作

横尾さんの紙芝居『スイミー』を見た子どもたちが、自分たちで演じてみようと赤い魚を工作

   日本国内の大学院の修士課程でダンス・セラピーを学ぶ中で研究の実践の場を求めていたことと、バックパッカーとして世界を旅し興味を持った国際協力に携わりたいという思いが重なり、体育教諭の資格を生かし、大学院を休学して協力隊に参加した。

   横尾さんは、リズム運動やダンスなどによる障害児のリハビリを受け持ったほか、五つの小学校を巡回し、障害がある子どもとない子どもが一緒に楽しめる運動や、障害者への理解を深める授業を行った。

   授業では、赤い魚の中で1匹だけ真っ黒な魚が個性を生かして仲間と力を合わせて敵を撃退する『スイミー』や、シルヴァスタインの『ぼくを探しに』などの絵本を紙芝居に仕立てて子どもたちに見せた。

「図書館も本屋もない田舎で、子どもたちはとても喜んでくれ、それを基にみんなで演劇をしたりしました」

   横尾さんは市役所に協力して、集落を回って障害児のいる家庭を探し、データも残した。それにより養護学校に通っていない障害児の存在や、その背景にある貧困、社会福祉制度の不十分さなど重い問題に直面することになり、無力さに悩んだという。

「私には医療や障害児教育の専門知識がないため、養護学校の体育も、障害のある児童がいる家庭のデータ整備も、それ以上に展開させることはできず、悶々としました。でも、たくさんの子どもたちが、私が来るのをいつも楽しみに待っていてくれたので、それが支えでした」

親子ダンス教室の様子。インクルーシブ教育の実現に向けて、保護者の積極的な参加も促した

親子ダンス教室の様子。インクルーシブ教育の実現に向けて、保護者の積極的な参加も促した

   11年にメキシコへ移住し、メキシコ文化庁の契約アーティストとして紙芝居の上演などを行うと共に、NPO法人「手をつなぐメキシコと日本」の理事長として両国の文化交流に熱心に取り組んでいる横尾さん。さまざまな活動の縁がつながり、2年前からは平和と共生という仏教の精神を伝える超宗派の寺の副住職も務める。移住してから12年がたつ。

「メキシコには搾取と侵略に耐えてきた歴史があります。それ故に、いい意味で諦めがよく、人生は短いのだから毎日ハッピーに生きようという価値観がある。他者を受け入れる器の大きさを改めて感じています」

   先日、横尾さんは配属先の同僚と18年ぶりに再会した。

「当時を振り返って、同僚が『教えてもらうよりも、日本という遠い国から来る若い人が楽しく過ごせるようにしたいと思っていた。だから経験がなくても気にしていなかった』と言ってくれて、ようやくほっとしました。その恩返しのためにも、両国の懸け橋になって文化交流を続けていきたいと思っています」

※2 障害者の権利条約…あらゆる障害者(身体障害、知的障害および精神障害など)の尊厳と権利を保障するための条約で、2006年に国連総会で採択された。日本は2014年に批准。

日系企業の進出が多い地域で
企業、学校、人をつなぐ

   2005年のEPA発効後、増加する日系企業の進出を反映し、メキシコの自動車産業の振興のために、生産管理や電子工学の分野で貢献するシニアボランティア(以下、SV)の要請が増えた。

   自動車産業集積地であり、現在、日系企業の進出は約200社と、州別で最多となるのがグアナファト州だ。小沼 勇さんは、州内にあるグアナファト大学に15年に派遣された。

   経営学部長をCPに、教員に対して「品質管理」について指導するという要請だった。しかし、「日本人を招いて実践的な教育を進めたいと考える意欲的な学部長とは異なり、先生たちからは『自分の仕事が脅かされるのでは』と警戒されてしまい、直接教えることは難しかった」と赴任当初を振り返る。

小沼さんのグアナファト大学でのレクチャー風景

小沼さんのグアナファト大学でのレクチャー風景

   そこで、小沼さんは活動内容をシフトチェンジした。日本や日本文化に興味を持つ学生や若い講師が多いことを知ると、講師に協力してもらい「日本文化と品質管理」と題した学生向けの授業を実施。「茶道や浮世絵などを例に挙げ、余分なものをそぎ落とした日本の文化の本質と5Sが通じることなどを解説しました」。

   また、懇意になった日系自動車メーカーの社長を大学に招き、特別講義をしてもらうコーディネートもした。「学生にも教員にも評判が良くて、毎回200人ほどが集まりました」。

   小沼さんは学外にも活動の場を広げた。メキシコでは5Sやカイゼンなどの普及に携わるSVによって13年に「5S分科会」が発足、隊次を超えて活動を続けていた。メンバーで各配属先の大学や工業高校でのセミナー開催や、日系企業に部品を納入する中小企業の製造現場でアドバイスを行い、学校や企業から歓迎された。「本来の協力隊活動と関係のない大学からセミナーの要望が来た際にも、CPが快くアレンジしてくれました」。

   そんな中で小沼さんが気づいたのは、日系企業で、日本語とスペイン語の両方を話せる人材が不足していること。

   一方で、同期の若い隊員たちからは帰国後の就職について不安の声を聞いていた。そこでJICAメキシコ事務所に働きかけて、同州の日系企業の社長などを講師に、中南米で活動中の隊員に向けたTV会議による「キャリアアップセミナー」を開催し、マッチングを図った。

「日本は、海外で活躍できる若い人材がアジアの他の国に比べ非常に少ないことが海外での競争力の低下につながっていると思います。日本の文化を背負い、現地の人と共に生活し、心に触れて仕事をする、それが海外で活躍できる人材です。奮闘している隊員を応援したかった。実際に日系企業に就職したのはほんの数人でしたが、隊員に選択肢を示すことはできたのかもしれません」

競技普及のために
全国でバドミントンを紹介

「協力隊員がメキシコの社会課題に向き合いながら、メキシコの人々と一緒に活動できる領域が相当あると改めて感じています」というのは、前出のJICAメキシコ事務所の坪井所長だ。国内の多様な課題に加えて、スポーツや文化系の活動ポテンシャルなどを考慮し、地方での展開や、参加年齢も幅広くしていきたいと考えているという。

   近年、メキシコではSV中心の派遣だったが、若手の協力隊員の派遣も増えている。そのうちの一人が篠原優衣さんだ。メキシコ初のバドミントン隊員で、現在、首都メキシコシティにある教育省スポーツ局で、バドミントンの普及、育成選手の競技力向上、指導者の指導力向上などに当たっている。「『バドミントンって何?』と配属先の人が聞いてくるほど、メキシコでは知られていないスポーツですが、オリンピック選手も出ていますし、国として普及・育成に力を入れ始めたところです」。

メキシコの子どもたちにバドミントンを体験してもらう。「公園などで気軽に楽しんでもらえるようにしたいのですが、用具が身近にないのと治安の問題から子どもだけで外で遊べないことがネックです」

メキシコの子どもたちにバドミントンを体験してもらう。「公園などで気軽に楽しんでもらえるようにしたいのですが、用具が身近にないのと治安の問題から子どもだけで外で遊べないことがネックです」

   配属先には用具類がなかったため、地方で普及活動を行う際に使うラケットやシャトルを日本バドミントン協会の協力を仰いで提供してもらい、現地業務費を申請して持ち運びのできるネットセットなどを購入することから活動が始まった。

   普及活動は、地域の子どもたち500人から1000人を対象にバドミントンを紹介し体験してもらう形が中心で、全国を回る大規模なイベントだ。「配属先の同僚と3人ほどのチームを組んで各地の地方自治体との調整を進め、実施の際には10人ほどで、泊まりがけで出張します。バドミントンのことは知らなくても、私のことを仕事仲間として受け入れて、普及活動がうまく進むよう柔軟にサポートをしてくれるのでとてもありがたいです」。

   ただ、イベントを通じて子どもたちにバドミントンに興味を持ってもらうことができても、地方には指導者が少なく、道具もないなど普及に向けた課題は多い。「どうしたらバドミントンを続けてもらえるか、環境整備や遠隔指導の方法などに知恵を絞っているところです」。

   一方、篠原さんが驚いたのは、順調に準備が進んでいた普及イベントが財源不足を理由に突然キャンセルされることが少なからずあること。

「そこがこの国の課題の一つなのだと思います。でも、同僚たちは慣れていて、『これからタコスでも食べに行こうか』なんて明るく話をしています」

   バドミントンを通じてメキシコの子どもたちが視野や可能性を広げて成長する一助になりたいという篠原さん。市内のバドミントン教室に出向き、子どもたちへのレッスンも行っている。

日本バドミントン協会からメキシコスポーツ庁にバドミントン用具が寄付された。篠原さんは国内約260市の学校で、寄贈された用具を活用した講習会を予定している

日本バドミントン協会からメキシコスポーツ庁にバドミントン用具が寄付された。篠原さんは国内約260市の学校で、寄贈された用具を活用した講習会を予定している

「基礎的な練習の一つひとつに対して『どうしてこれをやるの?』と子どもたちからよく聞かれます。私の拙いスペイン語でもその動きの意味や目的、身体の使い方などを説明すると納得して練習してくれ、少しずつ上達していくんですよ」とその手応えを嬉しそうに話す。

「年下の私に対して、同僚も地方の人も『メキシコまで教えに来てくれてありがとう』と敬意を払ってくれます。それに応えられるよう、活動を充実させていきたいと思います」

   1999年のJICA入構時からメキシコと日本の間で若手人材の交流を促進する「日墨交流計画」(※3)を担当し、メキシコと関わってきた坪井所長は、篠原さんのようにイキイキと活動する若い隊員たちの力も、今後の日墨関係に欠かせないと考えている。

「交流計画でメキシコで学んだ日本人の方が、協力隊に参加することも少なくありません。メキシコ人は日本人以上に愛国心のある方が多い。メキシコを好きになり、共に新しいことに挑戦する隊員は彼らからも温かく受け入れられるでしょう」と話す。

   メキシコの人々からは歴史や文化への誇りはもちろん、国内に多くの課題を抱えながらも、他のラテンアメリカ諸国からの移民や難民を受け入れてきた大国としての自負も感じるという。

「当地の日系社会はもちろんのこと、メキシコと関係の深い企業、大学、地方自治体なども多く、今後も日本にとって大切なパートナーです」。先に挙げた横尾さんのように、協力隊経験後にメキシコに定住したり、仕事で駐在するOVは少なくない。今後そのネットワークを広げながら、日墨関係と隊員活動を盛り立てていきたいそうだ。

※3 2010年以降は「日墨戦略的グローバルパートナーシップ研修計画」と改称。

活動の舞台裏

文化的な刺激を求めて
オアハカ国際ブックフェアの一環で、子どもたちを対象に行ったパフォーマンス

オアハカ国際ブックフェアの一環で、子どもたちを対象に行ったパフォーマンス

   フリーダ・カーロやディエゴ・リベラといった著名な画家たちを生んだメキシコ。だが、横尾咲子さんが体育教諭として活動したチャパントンゴは「新聞も売っていないようなところで、娯楽が何もなかった。学生時代に舞踊や舞台芸術にどっぷりはまっていた私は文化的な刺激に飢えていました」と話す。

   メキシコシティまではバスで片道3時間かかるが、「広大なメキシコでは近いほうで、お休みの時にはメキシコシティに出かけていき、劇場に行ったり、ダンスのワークショップに参加したりしていました」。そんな中で将来の夫となるアーティストと知り合った。

特製紙芝居では日本人の移民の歴史などを紹介することも

特製紙芝居では日本人の移民の歴史などを紹介することも

   メキシコは文化・芸術やそれに携わる人に対する姿勢が日本とは大きく異なる。「日曜日になると美術館や博物館が無料開放され、誰でも楽しむことができる。それが当たり前なんです」。

   現在、メキシコ文化庁の契約アーティストとして、紙芝居や舞踊などの公演を行う横尾さん。「先日も国立芸術センターの野外広場で紙芝居を上演しました。『面白いね、珍しいね』と喜んでくれるので、とてもやりがいがあります。お客さんは無料ですが、私たちアーティストにはちゃんと報酬が支払われています」。

活動の舞台裏

24時間体制で安否確認
キンタナロー州カンクン市で、同じ配属先で活動する三國由菜さん(体育/2022年度7次隊)と

キンタナロー州カンクン市で、同じ配属先で活動する三國由菜さん(体育/2022年度7次隊)と

   現在、バドミントン隊員としてメキシコシティで活動中の篠原優衣さん。ホームステイ先のホストファミリーとは密に連絡し合うというルールがある。しかし、当初はなかなか慣れなかったという。

「毎日の予定を伝えるだけではなくて、例えば、外出時に『これから友達とご飯を食べます』『お店に着きました』『食べ終わったから今から帰ります』『家に着きました』と、スマホのSNSで連絡し居場所や移動を逐一連絡してほしいと言うんです」 驚いた篠原さんがメキシコの友人に聞くと、「それは普通だよ」と言われた。誘拐や殺人などショッキングな事件が多いメキシコだからなのだろう。

日曜日は自分のための練習に行くという篠原さんと練習仲間たち。その後、ホストファミリーとランチを取ったりするのが週末の過ごし方

日曜日は自分のための練習に行くという篠原さんと練習仲間たち。その後、ホストファミリーとランチを取ったりするのが週末の過ごし方

「スマホアプリを使って、GPSで家族の位置情報や持ち歩いているスマホのバッテリー残量などもわかるようにしている家族もいるそうです」

   ホストファミリーが安全に気を使ってくれているおかげで、まだトラブルに遭ったことはないという篠原さん。「面倒でないかといえばうそになりますが、私のためを思ってのことなので、家族と決めたルールを守るようにしています。ホストファミリーがいるおかげで寂しい思いもせず、とても快適に過ごさせてもらっています」

Text=工藤美和 Photo=ホシカワミナコ(本誌 笹川さんプロフィール) 写真提供=ご協力いただいた各位

知られざるストーリー