[特集]協力隊の「活動成果」を考える

太田美帆さん
太田美帆さん
ガーナ/村落開発普及員/1996年度1次隊・茨城県出身

JICA国際協力専門員(農村開発分野)。玉川大学リベラルアーツ学部教授。2021年度までコミュニティ開発職種の技術顧問。世界各国の農村でお母さんを元気にする生活改善活動に携わる。共著書『世界に広がる農村生活改善』(晃洋書房)。



自分以外の人が来れば
もっと幸せになれたのに

   活動中に悩み続けたからこそ、後の気づきで自分を変えることができたのが後藤さんなら、活動しながらどんどん自分が変えられていったというのが、96年、村落開発普及員(現在のコミュニティ開発)としてガーナに派遣された太田美帆さんだ。

   太田さんが2年間の協力隊活動で造ったものは「ため池」「公衆トイレ」「中学校」。大きな成果を上げたにもかかわらず「他の人が来ていれば、あの村々はもっと幸せだったんじゃないかと思う」と控えめに話し始めた。

村人と公衆トイレの下の肥だめを掘る太田さん

村人と公衆トイレの下の肥だめを掘る太田さん

「赴任した時は乾期。水がなければ生きていけませんから、ため池を掘ることは必然でした。私が目指したのは、住民が主体性を発揮し、住民自身がオーナーシップを持って取り組む住民参加型のスタイル。ため池を手段に、いかに地域を良くしていくかを、住民自身が考えて実行していくことが目的でした。ところが『美帆の池だから美帆がやってよ』『池が崩れてきたから美帆が直してよ』とすべて私任せ。私が『みんなでやろう』と呼びかけても、『美帆は無能だから、予算も取ってこれないから、私たちにやらせようとする』と。あげく『前任者は何でもやってくれたのに』と前任者を引き合いに出される始末。それで、ため池はできたものの、私のやり方は正しいのか、方向性を見失ってしまったんです」

   この村では常に前任者を賛美する声ばかり。これでは前任者の亡霊につぶされてしまう、そう思った太田さんは、郡内の約20ある村を巡り、地域の実態把握に努めた。その中の一つで「自分たちで何でもやるから来てほしい」と言ってくれたところが「公衆トイレ」を造った村だ。「若者のリーダーがいる元気な村で、皆で使える公衆トイレを造りたいとすぐに『トイレ建設委員会』を組織。設置場所を決めて穴を掘り、ブロックも一つ一つ手作りし、建設作業は住民総出で一緒にやり、完成式典も開催して盛大に祝いました」。

   同時進行で、別の村で「中学校」を建てることにもなった。

「資材費だけ大使館の草の根無償資金協力の補助を受けて、あとは学区内の数カ村の住民を班分けして共同作業に出てきてもらい、基礎をならすところから全部自分たちで手作りしました。教室三つと職員室という簡素な学校ですが、企画段階から行政とも協力していたので公立学校と認められ、机やいすの支給がありましたし、教師も派遣してもらえました」

3年後、25年後では
任地の状況も変わる

   トイレと学校が完成したところで任期終了。住民参加型を試行してみたけれど、今後はどうなるか? 後ろ髪を引かれながら2年の任期を終えて帰国。その3年後に、任地を訪れた太田さんは、予想外に嬉しい光景を目にした。

1998年にできたばかりの公衆トイレの前で、村で母代わりだった友人と

1998年にできたばかりの公衆トイレの前で、村で母代わりだった友人と

「ため池も中学校も使われていたんですが、私が何より嬉しかったのは、公衆トイレを建てた村です。トイレが使われ続けているだけでなく、その建設経験を応用して、住民たちが他の村も巻き込んで自分たちで小学校を建てていたんです。1年に1教室のペースで造っていて、すでに3教室できていました。あと3年で6教室できるんだと誇らしげに見せてくれました」

   やはり住民主導で進めることに意義がある――。そう捉えた太田さんだったが、それから20年。再々訪した時に、また驚くことになる。

「25年前の公衆トイレがまだ使われていたんです。ガーナも経済発展したので、各家にトイレができていることを期待していたら、それは新住民の新しい家だけ。もといた住民は変わらず25年前の家に住み、家にはトイレがなく、朽ちてしまった公衆トイレを直すでもなく使い続けている。自分たちの力で小学校まで建てた村なのにと残念で」

   生活は厳しいようだった。考えてみると当時村では、パイナップルの輸出で景気が良かった。ところが肥料の高騰や連作障害などで輸出品質を満たせなくなり、パイナップルが売れなくなっていた。一方で国は物価の上がるインフレに。かつてパイナップルで生計を立てていた旧住民らに、貧困が定着してしまった。

「協力隊員なら何とかして任地の生活を改善したいという思いがあると思いますが、マクロな世の中の流れもあって、ミクロな活動をする隊員の力ではどうしようもないところもあると思い知りました。いつ、どの段階で何を図り、成果とするのか、難しいです」

   とはいえ、ため池も中学校もメンテナンスしながら使われていて、あの小さな村から、世界で活躍している卒業生も現れたそうだ。

自分は何もできない。
学んで、自分が変わるしかない

2022年、友人と再会。公衆トイレは朽ちながらも使われていた

2022年、友人と再会。公衆トイレは朽ちながらも使われていた

   有形のハコモノを造ったけれど、25年のスパンで考えると、それが成果といえるかどうか、太田さんは考え込む。

「協力隊の成果というのは、任地へのインパクトもさることながら、自分が何を学び、どれだけ成長したか、自分がどう変わったかということのほうがむしろ大事なのかもしれません。成果を上げようとして、相手を変えることに必死になり、相手を自分の理想に合わせようとしてしまいがちですけど」。相手を変えようとする前に、自分は果たして任地の状況を理解し、彼らに合わせられているだろうか。

「異国の地に飛び込んで、自分が任地から得たものは何だろうか、何を学んでどう変わったのか、自分に向けるまなざしも持ってほしいです」

   太田さん自身は「自分は何もできない」ことを学んだ。「火をおこせない、バケツは頭で運べない、言葉も理解できない。できない、わからないことだらけで、村人にすべて教わるしかありませんでした。現地でぶつかり合いながらも、自分が柔軟になり、彼らの思考回路や文化を学び、受容する。自分が変わることで、やっと村人も心を開いてくれたように思います」。

   自分が変われば相手も変わる。相互作用で、それが成果につながるのかもしれない。新たな自分を帰国後の人生で生かせれば、それが一番の成果ではないかと言う。

つづく(小國和子さんのページへ)

Text=池田純子   写真提供=太田美帆さん

知られざるストーリー