「日本って言われても分からないな。」
直行便で到着したヤンゴンのホテルは、日本人で溢れかえっていた。
日本航空のチャーター便で、日本商工会議所会頭が70人を超える日本企業の経営者とともに、アウン・サン・スー・チー国家最高顧問に会いに来ていたのである。
数年前までは、ミャンマーはアメリカやEU等の経済制裁を受けて、北朝鮮やキューバとともにコカ・コーラさえ手に入らない国のひとつだった。それが2011年の民政移管以降、この国は目まぐるしく変化し始め、その勢いは止まることを知らない。昨年11月に、安倍総理大臣がスー・チー国家最高顧問に対して5年間で8000億円規模の貢献を行うことを表明したことは、まだ記憶に新しいのではないだろうか。
しかし、ミャンマービジネスに携わっている方や、通好みのバックパッカーでなければ、ミャンマーはあまり馴染みのない国かもしれない。ミャンマーに世界中が注目するのはなぜなのか。JICAオフィシャルサポーターの北澤豪さんがその秘密を解き明かすために、現地を訪れた。
ヤンゴンでは金色のパゴダを中心としたラウンドアバウト(信号のない円形の交差点)に惹きつけられるかのように、自動車が集まり、列を成し、渋滞していた。車が動いたかと思うと、また次の渋滞に巻き込まれる。ただ、バイクや、途上国ではありがちな馬車や牛車はまったく見当たらない。クラクションもさほど気にならない。他の東南アジア諸国と比べると、不思議と渋滞からも落ち着いた雰囲気を感じる。その雰囲気を一層引き立てるのが、仕事あがりの人々が公園や道路脇で熱中する「チンロン」だ。チンロンは籠の球を6人で下に落とさずに、美しく蹴りあうスポーツ。北澤さんも6人の輪に自然と加わった。輪の中には30代から70代の人たち、交通事故で足を怪我した人、そして北澤さん。美技を繰り出すコツについて尋ねると「チンロンでは周りのサポートがあるから美しい技を繰り出せる」のだそうだ。
足技に長けていることはチンロンで証明済みのミャンマーの人たち。国民的人気を誇るスポーツはやはりサッカーだ。ミャンマーのサッカーを牽引してきた人物がいる。ミャンマーサッカー連盟のZaw Zaw会長だ。Zaw Zaw氏はミャンマーで建設、エネルギー、貿易、金融、ホテル等、幅広くビジネスを展開する企業グループMAX MYANMARの代表でもある。そんなZaw Zaw氏はシンガポールの船上で6か月間バイトをしながら日本語の勉強をし、その後、21歳のときに日本に渡りがむしゃらに働いたという。Zaw Zaw氏は日本がJリーグを立ち上げ、若年層からサッカーを普及させてきたモデルを見本に、中長期的な計画を立てて毎年数億円の自己資金をミャンマーのサッカーの強化に充てている。
そして、その効果は確実に現れていた。約30年前に日本の無償資金協力で建設されたトゥウンナ国立競技場に併設されたアカデミーでは、22歳以下の代表選手のトレーニングが行われていた。統率のとれたパスワークを見て北澤さんは「間違いなく日本を脅かす存在になる」と言う。
日本障がい者サッカー連盟の会長も務める北澤さんは、ヤンゴンにあるメアリーチャップマン聾学校にも足を運んだ。学校では、子どもたちが夢中になってサッカーをしていた。指導にあたるアルビレックス新潟の村中さんによると、学校を訪れたとき、男子生徒がサンダルでゴールを作り、プラスチックのようなもので作ったボールを使って、サッカーっぽいことをやっていたのだそうだ。村中さんが指導し始めると、やがて女子生徒も見に来るようになったという。しばらくすると、男子生徒は女子生徒を誘い、男子対女子の試合を行い、いつしか男女混合でプレーするようになった。そして昨年の12月、子どもたちはマレーシアで開催された国際大会に出場した。戸籍登録すらされていなかった子どもたちが、パスポートを取得し、マレーシアの大会に出場するための道のりは想像を絶する苦労を伴うものであったが、子どもたちの輝く姿を前にその苦労は吹き飛んだ。
ミャンマーパラリンピック連盟が所有するプールでは、JICAのシニア海外ボランティアの豊田さんが身体に障がいのある水泳選手の指導にあたる。徳島県で20年ほど自閉症の子どもたちに水泳を教えてきた経験を持つ豊田さんによると、ミャンマーの選手は底抜けに明るいのだそうだ。豊田さんと選手が掲げる目標は一致している。マレーシアで開催されるパラゲームで勝つことだ。リオ・パラリンピックのファイナリストとなったアウン・ミェー・ミャ選手はいう。「妻や両親が応援してくれる。よく電話もくれるし、空港にもいつも迎えに来てくれる。家族のためにもパラゲームでは必ず金メダルを取りたい。」豊田さんの指導を受けてタイムを劇的に短くしたアウン選手の表情は充実していた。
急増する外国投資を陰で支える日本人がいた。計画財務省投資企業管理局の投資振興アドバイザーとして、JICAから派遣されている本間徹専門家だ。本間さんはミャンマーの投資政策や新投資法の立案を支援する。本間さんいわく、ミャンマーでは2011年以降、外国投資が約7倍に伸びたそうだ。ミャンマーはアクセルとブレーキを使い分けながら、バランスよく外国企業との関係を構築しているが、日本とミャンマーとの間には特別な信頼関係を感じることもあるという。2014年にミャンマーが外国銀行9行に営業免許を交付した際、そのうちの3行は日本のメガバンクだった。保険の営業認可を取得した外資系企業の第一号も日本企業だった。本間さんが籍を置く投資企業管理局には、日本だけが日本企業向けにジャパン・デスクを置くことが認められている。
次に北澤さんが向かった先は、日本とミャンマーの友好関係の象徴とも言えるティラワ経済特別区だ。ティラワまでの道中、ヤンゴン市内を流れるパズンダウン川に架かるタケタ橋を渡ると、そのすぐ隣に無償資金協力で建設中の新タケタ橋の姿が見えた。大きめの車両が通ると、頼りなさげに震動するタケタ橋を横目に、日本が得意とする鋼管矢板基礎を活用した橋脚の建設が力強く進む。
ティラワはミャンマー初の本格的な経済特別区だ。その開発を担うMyanmar Japan Thilawa Development Ltd.(MJTD)にはミャンマー側(政府、民間)が51%、日本側(政府、民間)が49%を出資する。ティラワ経済特別区の開発・運営は順調だ。現時点で78社が進出を決めており、一部企業は既に操業を開始している。MJTD社長の梁井崇史氏は言う。「我々はミャンマーを開発しようなんておこがましいことは考えていない。我々はミャンマーから土地、空気、水などの資源を貸してもらってビジネスをさせてもらっている。ビジネスマンとして日本を背負っているからには、『日本がミャンマーに来たらいいことが起きた』と思っていただけるような仕事をしたい。私はサラリーマンとしての日本代表なんです。」
ティラワは、もとはのどかな農村地域だった。操業を開始して約1年が経過したという株式会社キュートミャンマーティラワは、日本の水族館や動物園で販売されるぬいぐるみの製造をしている会社だ。同社の佃智子代表取締役は言う。「操業を開始したときには、こちらの工場までバイクで通勤する人はいなかったけど、わずか1年の間にバイクを購入して通勤する人が増えた。ここの従業員はみんな近隣に住んでいる。干してある洗濯物に、当社の作業服(ピンク色のTシャツ)を見つけるのが私の楽しみなんです。」また、従業員の人柄について聞かれると、「残業するよりも、家に帰って夕食を作って、家族でごはんを食べたいと思う人たち。他の国の従業員と比べるとがつがつしていなくて、とてもかわいいぬいぐるみを作ることができる。」のだそうだ。
ミャンマーの地方部の状況はどうだろう。ミャンマー地方部の経済を支えているのは農業である。雄大なエーヤワディー川(旧称イラワジ川)がミャンマーを縦断しているが、ひとたび水辺を離れると乾燥した大地が広がっており、農家の暮らしが決して簡単なものではないことを物語っている。エーヤワディー川の中流に位置する乾燥地帯の農家を訪問すると、JICA専門家の指導を受ける農業畜産灌漑省のサポートを受けて、農家が自分たちで作った溜め池と足踏みポンプが利用されていた。北澤さんが「農家に生まれてモチベーションが下がることもあったのではないか」と聞くと、「一時は農業をやめることも考えた。それが今は乾季でもトマトとインゲンとトウガラシを栽培することができるようになって、収入が倍になった。」とのことだった。
農家から数キロ車を走らせたところに、ミャンマー随一の観光地バガンがあった。世界三大仏教遺跡のひとつとも称される聖地バガンは、ミャンマーの人たちにとって神聖な巡礼地だ。しかしながら、2016年8月にマグニチュード6.8の地震が直撃し、多くの歴史ある仏教遺跡が損壊してしまった。そんなバガンにおいても経済発展の影響は及んでいる。2009年に約5.5万人であった外国人来訪者数は2013年には約19.6万人に急増し、震災被害を受けた今もなお観光客は増え続けている。いまJICAの専門家チームはバガンの資源を守りつつ、観光地としての魅力も高められるように、地元の人たちを巻き込みながら観光開発計画作りに日々奮闘している。地元の彫刻職人はバガンの景観秩序を守るために遺跡への案内板を作っていた。「普段作っている彫刻のほうが簡単だけど、自分たちの遺跡を大切にするための仕事だから。」