〜訓練所の今〜
二本松青年海外協力隊訓練所

1994年度3次隊より派遣前訓練が開始されてから、およそ1万3千人の候補生を送り出してきた二本松青年海外協力隊訓練所。近年は、訓練に「フィールドワーク」などの新たなプログラムを導入し、地域との連携を深化させている。

二本松青年海外協力隊訓練所の外観。東日本大震災の発生時には、避難所として被災された方の受け入れも行った

訓練所のスタッフたち

隊員の無事の帰国と二本松への再訪の願いを込めて訓練所内に設置された「無事カエル」

帰国後の人生を切り開く力も

話=洲崎毅浩・二本松青年海外協力隊訓練所所長

すさき・たけひろ●2015年4月より現職。自身も協力隊経験者(ザンビア・公衆衛生・1987年度1次隊)。

 私が協力隊の任期を終え、広尾青年海外協力隊訓練所で業務に携わったのは30年ほど前になります。そのころから、候補生たちの「人のためになりたい」という強い熱意は今も変わりはありません。一方で、せっかく素晴らしい熱意を持っていても、自分の能力を発揮することを苦手とする若者が増えたという印象は否めません。これは非常にもったいない。ですから、訓練所の役目として、「候補生たちの潜在的能力を引き出すきっかけ」でありたいと考えています。
 それに加え、「帰国後を見据える契機」をも提供したい。これは、私が訓練所長に就いた当初からの構想でした。それを形にしたのが、各種分野で活躍している方々を講師として招く講座です。任意参加の「自主講座」という位置づけにもかかわらず、候補生たちは熱心に耳を傾けています。
 派遣国では想定外の事態が起こります。困難に直面したときに、「やらなくていい」という発想で済まさずに、「どう向き合えるのか」を考える。そこが肝心でしょう。そのためには「自発性」と「自律性」の強化が重要になります。昨今では、まさにそれらを鍛えるためのプログラムをつくることに注力しています。そのひとつが、2017年度から導入している「フィールドワーク」です。班ごとに二本松市内を歩いて調査し、地域の広報ツールを作成するという内容ですが、こちらが提示する課題は「二本松の魅力を発信すること」のみ。残りは候補生たちが主体となって企画しています。彼らが創意工夫して生み出した成果物は、地域の方々からも好評をいただいております。このように、今後も候補生が地域と関係を深め、彼らに帰国後、「また二本松を訪ねたい」と思ってもらえるような取り組みを続けていきたいと思います。

協力隊活動は「長い鎖」

話=エスタ・サムエル・カノマタさん(スワヒリ語講師)

タンザニア出身。協力隊発足まもない時期から派遣前訓練のスワヒリ語講師を務める。送り出した教え子は1000人以上にのぼる。

エスタ先生の授業。教室の壁には手づくり教材が並ぶ

「候補生のスワヒリ語力向上のために、私はどんな手助けができるのだろうか」。そんな風によく考えます。隊員がスワヒリ語を話せば、現地の人たちは心を開き、おしゃべりに花が咲く。そうすれば、活動もずっと楽しくなるはずだからです。
 OB・OGのみなさんとの思い出は数え切れません。たくさんの方から連絡をいただきますし、家族を連れて会いに来てくれる方もいます。帰国後、スワヒリ語が上手になっていることに驚かされることもあります。私の教え子同士が結婚し、その披露宴に招待していただいたときのこと、集まった多くの教え子たちがみなスワヒリ語で会話をするものだから、他の参列者が「いったい何語なんだ!?」と驚いたこともありましたね。東日本大震災の直後、私は一時的に大阪に移り住まなければなりませんでした。その際、話を聞きつけた近隣の教え子たちがグループをつくり、一緒に家を探したり、家具を調達したりと、さまざまなサポートをしてくれました。
 数年前、派遣前訓練のプログラムでスワヒリ語話者の協力が必要となった際、仙台の大学でコンピュータについて学ぶタンザニア人留学生が引き受けてくれることになりました。当日、彼は私にこんな話をしてくれました。「実は論文の執筆で忙しかったけれど、JICAからの依頼だったので引き受けました。高校時代に数学を教わった隊員がすばらしい先生であり、彼の教えがあったからこそ私は大学に進むことができ、今の自分がある。その恩返しができるチャンスだと思ったからです」。恩師だという隊員の名前を尋ねると、なんと私の教え子でした! その留学生は現在、母国の大学で教員を務めるまでになっています。
 隊員が何を成し遂げたのかは、しばしばわかりづらいものです。発展というのは長い鎖であり、それを辿っていって初めてその姿が見えてくるからです。今お話ししたタンザニア人留学生の恩師も、協力隊時代に自分がどれだけ役に立っているのかはわからなかったでしょう。しかし彼の道は、タンザニア人留学生の成長という形で今もなお続いているわけです。このことをぜひ、OB・OGの皆さんにお伝えしたいです。

思い出の置き場所として

話=大内次雄さん(恵美寿屋マスター)

おおうち・つぎお●1977年から岳温泉で恵美寿屋を経営。看板メニューの手づくりピザは、開店当初から変わらない味を守っている。

マスターの似顔絵がトレードマークの店舗外観

 当店と協力隊の関係は、二本松訓練所ができた22年ほど前に遡ります。当時の岳温泉では、うちを含めて飲食店は3店舗。候補生たちが食事に来てくれたことをきっかけに交流が始まりました。そのなかで、3つの言葉をよく耳にしてきました。まずひとつが、訓練開始当初の「2カ月間か、長いなぁ」。次が退所式後の「終わっちゃったなぁ」。最後に「あのときは楽しかったなぁ」という帰国後の言葉です。お心当たりはないでしょうか。店にやって来る候補生たちは、さまざまな顔を見せてくれます。家族と離れることへの寂しさに涙する青年、三味線を片手に『島人ぬ宝』を2時間続けて大熱唱していた九州・沖縄出身者の集い、そして二本松イリュージョンという恋愛模様も。近くで若者の等身大を見つめ、応援できることは、店を続けるやりがいです。
 約400人。この数は、「ただいま」といって店に帰ってきてくれたOB・OGの数です。結婚の報告をしに来てくれたのは8組。なかにはOB・OG同士の結婚式の2次会を店で開いてくれたこともありました。しかし、人数を数えるのは東日本大震災を機に止めました。震災発生後、心配してくれたOB・OGの方々が入れ替わり立ち替わり様子を見に来てくださるようになり、数えきれなくなったためです。実は、震災の被害を受け、店を畳むことを考えた時期もありました。しかし、「店を続けてください。候補生やOB・OGも喜んで来ますから」と、OB・OGの方たちが言ってくれた。その言葉が再開する後押しとなりました。
 店内には、訓練中の写真や寄せ書きを飾っています。もちろん、現在も更新中。皆さんは、帰国後にここに戻って来て、当時の自分や仲間の姿があればうれしく思うのではないでしょうか。店は思い出の置き場所なのです。ぜひ、あのころの思い出を巡りに、岳温泉に遊びに来てくださいね。

知られざるストーリー