隣国を旅行したことで、
派遣国をより客観的に見る視点を獲得

田村絵果さん(ボリビア・水泳・2016年度3次隊)の事例

ボリビアで水泳クラブの選手たちへの指導に携わった田村さん。選手たちの根気のなさに苛立つことも多かったが、任国外旅行での経験により、それまでとは違った目で選手たちを見ることができるようになった。

田村さん基礎情報





【PROFILE】
1990年生まれ、北海道出身。3歳で水泳を始め、大学まで選手として活躍する。大学卒業後、スイミングスク―ルにコーチとして勤務。2017年1月、協力隊員としてボリビアに赴任。19年1月に帰国。

【活動概要】
ボリビア水泳連盟に配属され、主に以下の活動に従事。
●任地(3市)の水泳クラブにおける選手への指導やコーチへの技術伝達、保護者への食事指導
●任地以外の地域における水泳の講習会の開催


国内各地の多様性

任期終了の直前にボリビアで開かれたジュニア部門の南米大会でメダルを獲得したタリハ市の教え子たちと

 田村さんが配属されたのは、ボリビア水泳連盟。水泳の普及やレベルアップなどに取り組む各県の水泳協会を取りまとめる機関だ。配属先からの要望により、実際の活動拠点となったのは3市。その都度住まいを移しながら、その県の水泳協会に所属するコーチとともに、選手への指導に取り組んだ。3カ所での活動の概要は以下のとおり。
❶コチャバンバ県コチャバンバ市 現地語学訓練を終えてから約半年間、2つの水泳クラブでジュニア部門(12歳以下)の選手への指導を担当。
❷ベニ県トリニダ市 コチャバンバ市の次に約半年間、1つの水泳クラブでジュニア部門の選手への指導を担当。
❸タリハ県タリハ市 トリニダ市の次に約1年間、4つのクラブの選手を指導。在籍していたのはいずれのクラブも13歳以上の選手のみ。
 3カ所は環境が異なっていた。最大の違いは「標高」だ。標高の差は気候の差につながり、気候の差は人の気質の差につながっているようだった。最初に赴任したコチャバンバ市の標高は約2600メートルで、年の平均気温は二十数度。日本人と比べ、同市の選手たちは根気がないと感じた田村さんだったが、年の平均気温が10度近く高い標高130メートルのトリニダ市に行くと、選手たちの「根気のなさ」がコチャバンバ市の選手たちをはるかに上回っていた。
 田村さんは、選手たちのこうした気質の違いに応じて、指導の方法も変えていった。コチャバンバ市では、一定の短い休憩を挟みながら同じ距離を繰り返し泳ぐ「インターバルトレーニング」を導入。「負荷」によって泳力アップを図るきつい練習方法だが、選手たちは次第に慣れていき、ベストタイムも上がっていった。しかし、次のトリニダ市では、途中で投げ出す選手が続出。代わりに、泳法の技術指導に重きを置くことにしたのだった。
 タリハ市には別の困難が存在した。平均気温が10度を下回る月があるにもかかわらず、指導対象のクラブが練習に使用しているプールが、前2市のクラブの場合と異なり、「屋外プール」だったのだ。そのため、寒い時期になると、練習に来る選手がほとんどいないという状態になってしまうのだった。

「腰を据えた活動姿勢」に転換

任期後半に休暇を使ってパラグアイを訪問。写真は、滞在したイグアス日系移住地から2時間ほどで行ける「イグアスの滝」を訪れたときのもの

 田村さんが余暇を利用し、任国外旅行としてボリビアの隣国パラグアイを訪れたのは、タリハ市で活動を始めてから半年ほど経った時期。気温が下がって練習に来る選手が減り、田村さんの苛立ちが募っていたタイミングだった。ボリビア国内の多様性を知り、「ボリビア人についてはある程度理解できた」と感じていた田村さんだったが、パラグアイ旅行により、「ボリビア人」をより客観的に見る視点を獲得することができた。
 旅行の日程は4泊5日。パラグアイに足を踏み入れて最初に驚いたのは、首都アスンシオンの発展の様子だ。一人当たりGDPはボリビアとともに南米の最下位を争うレベルであり、「『ドングリの背比べ』だろう」と高を括っていたが、高級ブランドが入ったショッピングモールなど、ボリビア最大の都市ラパスよりはるかに発展している印象だった。イグアスにある日系移住地の民宿にも泊まったが、日系人である宿の主人によると、「パラグアイはここ数年の発展と物価上昇が著しい」とのことだった。ボリビアと同じく、通商上不利な「内陸国」でありながら、同国より勢いが感じられることに、「国の発展は、国民のやる気次第ではないのか」との思いが強くなった。
 しかし、その「やる気」こそが問題だった。パラグアイでは、現地の人からこんな言葉を聞いたのだ。「ボリビア人は怠け者なのよね」
 この言葉は、田村さんの活動方針に影響を与えた。「怠け者」という評価が「国民」という大きな単位に当てはまる特徴だとすれば、それは国の長い歴史の中でつくられてきたものだろう。それを、外国人ボランティアが一朝一夕に変えることなどできないはず——。田村さんはそう考えた一方で、それまでボリビア人の多様性を見てきた経験から、「ボリビア人の中にも勤勉な人はいる」という反発も感じた。そうして以後の指導では、「多くの選手の上達」という「大きな変化」をいたずらに追い求めるのではなく、意欲の高い一部の選手の上達を後押しすることにもためらわずに注力するようになったのだった。「一部の選手の上達」は「小さな変化」に過ぎないかもしれないが、そうした変化が時間をかけて積み重なることで、「国の水泳界全体」の変化につながっていく可能性もあるだろうと考えたからだ。
「一部の選手」のひとりとなったのは、三十代半ばの選手(以下、Aさん)。十代には国内の大会で優勝するほどの実力を誇っていたが、二十歳前にいったん水泳を辞め、三十代になってふたたび選手として水泳を始めたという男性だった。彼は、タリハ市が寒い時期も休まずに練習に来るほぼ唯一の選手だった。
 以前は、寒い時期に多くの選手に練習に来させるにはどうすればいいかに苦心していた田村さんだったが、パラグアイから帰国した後は、Aさんの指導に集中するようになる。前の2市では、田村さん自身が通常の時計を加工してインターバルトレーニングに不可欠なペースクロック(*)をつくっていたが、タリハ市ではそのつくり方をAさんに伝授。彼は自作のペースクロックでインターバルトレーニングを重ねていき、十代で出した自己ベストを三十代にして更新するに至った。
 Aさんは田村さんの帰国後も自作のペースクロックを使い続けており、いずれ彼の影響でインターバルトレーニングが若い世代の選手へと受け継がれていく可能性も高くなっている。

* ペースクロック…泳ぎや休憩の時間を確認するためにプールサイドに置く時計。泳いでいる人自身が読み取れるよう、文字や秒針が目立つようにしてある。

田村さんからのMessage

活動相手の比較対象を持つ
自分の活動相手をより客観的に見るためには、国内のほかの地域、あるいは隣国などを訪れて、そこの人々と接し、「比較対象」を獲得することが必要でしょう。余暇は、そうやって視野を広げるチャンスだと思います。

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