JICA Volunteer’s before ⇒ after

吉田太郎さん(パラグアイ・小学校教諭・2010年度1次隊)

before:大学生
after:県庁職員

 教員を目指していた吉田太郎さんは、大学卒業後、協力隊に参加し、パラグアイで小学校教諭として活動。帰国後は民間企業に籍を置き、パラグアイで実施される事業に携わった。その後、教育より大きな枠組みで人に役立ちたいと長野県に就職。現在は、伊那市にある教育委員会事務局に勤務している。

教員になる経験を積むために

[before]パラグアイの小学校で授業を行う吉田さん

 長野県から早く出ていきたかった。「今思えば好きの裏返し」と吉田さんは話すが、当時は田舎すぎる地元から出て行きたくてたまらず、県外の大学に進学。子どもが好きで、小学校教諭になるため教育学部を選んだ。在学中、ゼミの先生に勧められ、中華人民共和国に1年間留学し、そのとき吉田さんは経験する大切さを肌で感じることになる。苦手だった中国人の大きな声は発音するのに必要だと知ったこと。反日感情に不安を抱いていたが「日本から来たら兄弟も同然」と言われたこと。知らないことの多さと、学校という枠から出ずに教員となることに不安を覚え、帰国後、未知の場所で経験を積める活動を探したところ、協力隊が当てはまった。
 パラグアイの小学校に派遣された吉田さんは、任地で指導方法が確立されていない図画工作(以下、図工)について、児童への授業の実施と、教員へ教授方法を伝える活動に従事した。配属当初、吉田さんは図工の授業を実施すべきか迷ったという。児童数に比べ学校と教員の数が圧倒的に足りないため、授業時間が少ない。そこに図工は必要だろうか……まずは教員の本音を知ることに注力した。
 話してみると教員は「授業を受けたことがないから教え方がわからない」「私たちは不器用だから」と、授業の実施に二の足を踏んでいることがわかった。そこで吉田さんは、簡単で見栄えのする工作を児童に紹介し、児童が工作をする姿を教員に見てもらうことにした。児童が楽しんで色を塗る姿や、普段の授業では勉強が不得意な児童が集中して絵を描く姿。その姿に教員は図工の意義を感じてくれた。その後、教員に対する図工授業の講習会を開催し、授業は現地に取り入れられていった。「現地の先生は図工の知識がなかっただけで授業運営はとても上手、私の方が勉強になった」と吉田さんは振り返る。
 生活でも発見があった。吉田さんがホームステイをしていた副校長の家では、週末になると数十人の親戚が必ず集まり、その場に吉田さんも毎週招かれたそうだ。たわいない話をし、子どもたちと遊び、吉田さんは折り紙を教え、代わりに現地の言葉を教えてもらう。2年間、変わらずに続いた日常で、特別なことはなにもない。しかし、ただそこにいることで吉田さんは「この国が好きだ」と心から感じるようになっていった。

経験を重ねて気づいた思い

[after]現在の勤務先である長野県伊那市合同庁舎。勤務して1年半、与えられた仕事を確実に行うことが最優先だが、仕事の本質を考えて働くように心がけている。「決められた仕事にどういう意味があるのか、常に考えるようにしています。疑問があれば、周囲と相談して改善する。職場の人たちと考えにズレがないように、できるだけ話したり、一緒にご飯を食べたりして、かかわりを増やすことを大切にしています」

 帰国後、教員になる前に協力隊の経験を直接生かそうと駒ヶ根訓練所に勤務し、そのとき、パラグアイへの進出を考えている食品メーカーの社長と出会う。社長に誘われて同社に就職し、パラグアイでつくられる換金作物の6次産業化と現地の人への食文化普及・実証事業に携わった。仕事としてパラグアイの人たちにかかわったことで改めて知ったのは、自分たちの国を自分たちの手で改善したいという強い志だ。それに触れ、自分の大切なものも彼らのように自分の生まれ育った場所にあるということに吉田さんは気づく。プロジェクト終了と同時に退職し、地元の長野県に帰り、県で働くことを決意した。
「教員として子どもに何かを伝え、役立ちたいと考えていましたが、経験を経てその対象が長野県全体に広がった。県で働けば、いずれ子どもたちにもつながると思いました」
 現在は、伊那市にある教育委員会事務局南信教育事務局に勤務し、主に学校事務の給与や手当関係の補助業務を担当している。事務的な仕事は、型にはめたやり方で乗り切ることもできるが、相手の立場で考え、相手に寄り添って対応するように努めている。そうできるのは、現状を知り、適切な方法を伝え、相手に受け入れてもらったという協力隊での経験があったからだ。現状を把握するためにも、現場の先生たちや同僚たちとできるだけ話をする機会を持つように心がけている。
 休日は、子どもに向けたスペイン語での絵本の読み聞かせや、外国人に向けた日本語ボランティアとしても活動している。吉田さんが暮らす地域には外国人労働者や在日外国人も多く、彼らにとっても暮らしやすい町でありたい。その根源にあるのは、パラグアイでの家族たちとの思い出だという。
「特別なことでなく日常のなかで集まり、人とつながれる場。あの場があったから、私は寂しい思いをせず、楽しい記憶と経験をパラグアイからもらえました。そういう場をつくっていく人間になりたいと思っています」






吉田さんのプロフィール

[1987]
長野県出身。
[2010]
3月、弘前大学教育学部を卒業。
6月、青年海外協力隊に参加(選択の理由:教員を志していたが、視野を広げてから教員になりたいと、海外で働く方法を模索し、協力隊を選ぶ。)
パラグアイのコルディジェラ県サン・ベルナルディーノ市にある小学校に配属され、児童を対象に図工の授業を行い、また校内・地域の小学校教師に対して図工授業強化の指導アドバイスなどを行う。
[2012]
6月、帰国。
その後、JICA駒ヶ根訓練所の国内協力員に。
[2014]
1月、ゴマ関連商品の製造・販売会社に就職。パラグアイでのゴマ加工品の生産管理技術の普及・実証事業に携わる(選択の理由:教員になる前に、金銭的な利益を追求して働く経験をしたいと、パラグアイで事業を実施する民間企業に就職。)
[2018]
4月、長野県庁に入庁。教育委員会事務局南信教育事務局総務課に勤務(選択の理由:人のための利益を追求する仕事の方がこれまでの経験を生かせると感じ、教員か県職員か迷うが、より広く人とかかわるため、県職員に。)

[協力隊に参加して気づいた日本人としての責任感]
任地の人たちは私を家族の一員として受け入れてくれ、活動でも私の意見を取り入れ、力を貸してくれました。私を受け入れてくれた理由は、これまでに移住された日系人の方々が築きあげた信頼と、先輩隊員の力があったからだと思います。活動中、任地にいた日本人は私ひとりだったので、現地の人にとっては「私=すべての日本人」です。自分がいいことをすれば、「日本人はいい人だ」と思われるし、逆もまた然り。そう思ったとき、日本人としての責任感を持って活動をしなければと、より真剣に取り組むようになりました。海外で生活しなければ気づけなかったことだったと思います。

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