Special Talk 〜協力隊OB・OG座談会〜

応募前、あるいは選考試験に合格してから赴任までの間に、どのような準備をすれば良いのか? 協力隊経験を通して得られる成長とは? 参加を考えている方々にとっての関心事について、帰国してまもないOB・OGに語り合っていただきます。

参加者

荒井孝雄さん(ドミニカ共和国・コミュニティ開発・2017年度1次隊)=現職参加

細田実香さん(ラオス・看護師・2017年度1次隊)=退職参加

萩原夏子さん(ウガンダ・小学校教育・2017年度1次隊)=学卒直行

※「学卒直行」とは、学校卒業後、新卒で協力隊に参加することを意味します。

1989年生まれ、滋賀県出身。大学卒業後、株式会社アシックスに5年間勤務。商品開発に携わる。2017年7月、ボランティア休職制度を利用し、協力隊員としてドミニカ共和国に赴任。NGO「ミッション・イラク」(サンティアゴ県リセイ市)に配属され、コーヒー豆を使ったアクセサリーなど新商品の開発支援に取り組む。19年7月に帰国し復職。現在はCSR担当部署に所属。

1985年生まれ、和歌山県出身。看護専門学校を卒業した後、看護師として個人病院の一般病棟に5年間、大学病院の集中治療室に5年間勤務。退職後の2017年6月、協力隊員としてラオスに赴任。地方都市の総合病院、ボリカムサイ県病院(ボリカムサイ県パクサン郡)の集中治療室に配属され、同僚たちへの看護技術や心肺蘇生法の指導などに携わる。19年6月に帰国。

1994年生まれ、静岡県出身。大学を卒業した2017年6月に協力隊員としてウガンダに赴任。地方農村部にあるセントアン小学校(ワキソ県カキリ)に配属され、英語で授業が行われる高学年(4〜7年生)のクラスで、算数や体育、図工の授業を担当。19年6月に帰国。現在は静岡県の公立中学校で英語科講師を務める。


応募に至るまでの道のり

編集部 まずはおひとりずつ自己紹介をお願いします。

荒井 ドミニカ共和国のカトリック系NGOに配属され、コーヒーの生産が盛んな村の女性グループと一緒に、コーヒー豆を使ったアクセサリーや石けんなど、収入向上につながるような商品開発の支援に取り組んできました。私はスポーツメーカーの株式会社アシックスの休職制度を利用しての現職参加で、派遣前は5年間、シューズの商品開発に携わっていました。帰国してからはCSR担当部署に配属されています。

細田 ラオスの地方都市にある総合病院の集中治療室に配属され、看護技術や心肺蘇生法を同僚たちに教える活動などに取り組んできました。私は退職しての参加で、派遣前は看護師として、個人病院の一般病棟と大学病院の集中治療室にそれぞれ5年間勤務しています。現在は、国際救援ができる看護師を目指し、求職活動中です。

萩原 ウガンダの農村にある、児童数が400人ほどの小学校に配属され、高学年の算数や体育、図工の授業を担当しました。大学は教育学部だったのですが、4年生のときは協力隊一本に絞って教員採用試験などは受けず、卒業した年に新卒で協力隊に参加しています。現在は地元の静岡県にある市立中学校で英語の講師を務めながら、国際協力の道に進むための準備をしています。

編集部 みなさんはそれぞれ参加したときの年代が異なりますが、協力隊に興味を持ってから参加に至るまでのおおまかな流れを教えていただけますか。

荒井 協力隊に興味を持つようになったきっかけについては、これといった明確なものはありません。おそらくテレビのドキュメンタリー番組などの影響で、高校生のころには漠然と国際協力や協力隊に興味を持っていました。アシックスに入社した一番の理由も、「スポーツを通した社会づくりへの貢献」が実現できると感じたことでした。アシックスは戦後まもない時期に、神戸で子どもたちの荒んだ様子を見た創業者が、「スポーツを通して子どもたちに心身ともに健康になってもらいたい」という思いで立ち上げた会社であり、「アシックス」という社名も、「健全な身体に健全な精神があれかし」という意味のラテン語の頭文字を取ったものです。入社した後、休職して協力隊に参加できる制度があるのを知り、いつかそれを利用したいと思っていたのですが、入社して最初に携わった仕事が本当に楽しく、応募の時期は迷いました。結局、入社4年目のタイミングで自分の仕事とキャリアを考えて協力隊への参加を決めました。

細田 私も途上国が出てくるドキュメンタリー番組を見るのが好きで、その影響で子どものころから「いつか私も途上国で仕事ができたら良いな」と思っていました。看護師になった後は、仕事の腕を磨くのに精一杯で、そんな思いを忘れていたのですが、看護師9年目のときにひとりでベトナム旅行をしたことで、ふたたび頭に浮かぶようになりました。ベトナムでは、知人の協力を得て現地の病院を見学させてもらったのですが、患者の身の周りの世話は家族が行い、看護師は採血や点滴をしているということを聞きました。日本の病院とはまるで違うそんな状況に衝撃を受け、「協力隊に参加し、途上国の病院で実際に働いてみよう」と考えるようになりました。

萩原 私は父が若いころに協力隊でケニアに行っており、幼いころからずっとその話を聞いていたので、中学生のときには「いずれ協力隊に参加しよう」と決めていました。父の話は「支援のあり方」などに関するものではなく、いつも「アフリカの人たちがどれだけ豊かな心を持っているか」というものだったので、そういう人たちに実際に会ってみたいという思いが強くありました。
 大学を選ぶ際も、「協力隊に参加できそうな専門性を身につけられるかどうかという点を重視しています。「教育」ならば社会づくりの基本となる分野であり、協力隊にも関連する職種がいくつかあるので、教育学部に進んで教員免許を取ることにしました。大学では途上国の教育について研究しています。「社会人経験を積んでから協力隊に参加したほうが良い」という意見があることは知っていたのですが、私は一刻も早く協力隊に参加したかったので、大学4年生のときの春募集に応募し、そこで合格することができました。

活動対象の女性グループとコーヒー豆を使った商品の開発について話し合う協力隊時代の荒井さん

住民の9割がコーヒー農園で働いている荒井さんの活動先の村の風景

協力隊時代の荒井さんの自室。ホームステイで、3人のホストファミリーとともに生活した


参加の「タイミング」や「形態」

編集部 ご自身の参加のタイミングについて、「早すぎた」「遅すぎた」といった後悔などはありますか。

荒井 私は27歳で訓練所に入り、29歳で帰国したので、平均的な年齢での参加だったかと思いますが、この年代での参加はちょうど良いのかなと思いました。と言うのも、帰国後、大学院に進学したり、協力隊の経験を生かせる仕事に就いたりする同期隊員も多く、「新たな生き方にチャレンジできる年代」なのだろうと感じるからです。

細田 もう少し早く参加していても良かったかなと思ったのは、派遣前訓練に入ったときです。私は当時31歳で、同期は20代が大半でした。そうなると、「ちょっとノリに付いていけない」と感じるときもありました。看護職の場合、年数が経てば昇進できます。私は5年で職場を移っているため、そうしたステップアップのルートからはちょっと外れているケースだったので、10年というタイミングでキャリアを中断させることにためらいはありませんでした。

萩原 私は今後、国際協力の道に進みたいと考えているのですが、協力隊経験を通じて、「もっとも大切なのは現場を知ることだ」という国際協力に対する考え方の軸を得ることができたので、この段階で参加したのは良かったなと感じています。

編集部 「現職参加」や「退職参加」、「学卒直行」と、みなさんは参加形態もそれぞれ異なります。「ほかの形態で参加したほうが良かったかもしれない」といった後悔はありますか。

荒井 応募前に、会社を辞めて参加するかどうかで悩んだことはありました。協力隊経験で価値観が変わり、たとえ現職参加をしたとしても、帰国後にすぐ転職したくなってしまう可能性も考えたからです。最終的に現職参加を選んだのは、入社の決め手となった「スポーツを通した社会づくりへの貢献」にまだ具体的にかかわることができていないうちに辞めてしまうのはもったいない、協力隊に参加し、その経験を生かして自分の思いを実現できるようチャレンジしてみたいと考えたからでした。

細田 私が応募時に勤務していた病院には、協力隊への現職参加の可能性を探っている同僚の看護師がいたのですが、難しそうな様子でしたので、私は「現職参加」という選択肢はほとんど頭にありませんでした。幸い、看護職は慢性的に人材不足なので、帰国後の再就職に困ることはないだろうという考えもありました。実際、帰国してからすぐにいくつか仕事のオファーをいただくことができています。看護学校の教員や病院の看護職などです。

萩原 派遣中、「社会人経験がないからここでつまずくのだな」と思ったこともありましが、私は性格的に一度やり始めたことは根詰めてしまうタイプなので、もし大学を卒業して教職に就いていたら、仕事にのめり込んでしまい、協力隊とは無縁の人生になってしまっていたかもしれません。そういう意味でも、「学卒直行」は私にとっては良い選択だったのだろうと思っています。

配属先の同僚たちに心肺蘇生法のやり方を指導する協力隊時代の細田さん(左から2人目)

細田さんの任地。托鉢に回る僧侶たちの姿は、ラオスの朝の象徴だ

協力隊時代の細田さんの自宅。外国人用につくられた戸建て住宅だった


赴任前の準備や持ち物

編集部 応募前に協力隊に関する情報はどのように集めましたか。

荒井 私は応募することを決めた後、選考試験に合格するような応募書類をつくれるようになるため、積極的に情報収集をしました。帰国した隊員が体験談を発表する帰国報告会や募集説明会も、2、3度足を運んでいます。

細田 私は「協力隊に行こう」と思い立った後、まずはJICA和歌山デスクを訪ね、単刀直入に「どうやったら協力隊になれるのですか」と聞きました。そのときに『クロスロード』やパンフレットなどの資料をいただいたのですが、あまり文字を読むのが好きではないので、やはり帰国報告会に2回ほど参加し、OB・OGの方に直接話をうかがって情報を仕入れました。私も「どうすれば選考試験に受かることができるか」を知りたかったからです。

萩原 私も帰国報告会には何度も足を運んでいます。当時、静岡に住んでいましたが、東京や名古屋のものにも行っています。『クロスロード』のように協力隊の情報が得られる資料もたくさん読みました。そうして得た情報により、活動について学べたうえ、士気も高まったと感じています。

編集部 選考試験に合格してから派遣までの間に行った準備のなかで、「やっておいて良かった」と感じているものはありますか。

荒井 私の場合は「スペイン語の勉強」に尽きます。合格から訓練所の入所まで半年ほど時間があったので、独学でスペイン語の勉強に取り組みました。参考書を1冊丸ごとこなしたのですが、それをやったおかげで、訓練所での語学の勉強も、赴任してからのブラッシュアップも、非常にやりやすくなったと感じています。

細田 看護の技術に関しては、10年の経験があったので、協力隊参加に向けて新たに勉強するというようなことはしませんでした。派遣前の準備で「やって良かった」と思うのは、私の配属先で活動していた前任隊員の方とのコミュニケーションです。SNSで「協力隊の選考試験に合格しました。派遣国はラオスです」と投稿したところ、ラオス派遣の協力隊OBの方がそれに目をとめ、前任隊員の方との間を繋いでくださいました。直接お会いして話をうかがうこともできましたし、資料をいただくこともできました。私が協力隊時代に特に力を入れたのは心肺蘇生法の指導なのですが、それは前任隊員の方にいただいていた資料も参考にすることができたので、スムーズに活動できました。

萩原 私は「『まっさらな状態』で赴き、現場をよく見てから、やるべきことを考えよう」というスタンスだったので、配属先のことなどを事前に調べることはほとんどしませんでした。現場の状況のこまかな点は、日本で知ることはできないと思ったからです。

荒井 たしかに萩原さんのおっしゃるとおりかもしれません。私の要請内容は「花きの販売促進支援」だったので、派遣前訓練の間に農業分野の隊員にいろいろ教えてもらいました。ところが、赴任すると、女性グループの収入向上のほうが支援のニーズが高いことがわかりました。そこからあらためて、インターネットなどでコーヒーやアクセサリーづくりなどについての勉強をすることになったのでした。

編集部 赴任時に日本から持っていった物のうち、特に重宝した例はありますか。

荒井 穴の空いた硬貨は珍しいため、「5円玉」が好評だったということが協力隊員のブログに書いてあったので、たくさん集めて持っていったのですが、これは実際に役立ちました。帰国直前に、「ご縁という意味もあります」と言ってお世話になった方々に思い出として配ったのですが、とても喜んでいただくことができ、なかにはネックレスにする人もいたほどです。

細田 マラリアやデング熱の予防のために持っていった蚊よけスプレーは重宝しました。蚊以外の虫にも利くので、部屋で蟻が大量発生したときや、部屋に蜂が入ってきたときなどにも効果があったからです。

萩原 私は「現地で使うものは、現地で買うべき」というスタンスでしたので、日本からは必要最小限の物しか持っていきませんでした。首都で生活用品を買いだめしてから任地に赴く、といったこともしていません。任地の人に「これはどこで手に入るの?」と聞くところからコミュニケーションが始まるのだと思ったからです。

小学5年生の算数の授業で、練習問題の解答をチェックする協力隊時代の萩原さん

鶏を手に任地を歩く萩原さん。児童の家に遊びに行くとよく、保護者に鶏を丸ごとプレゼントされた

協力隊時代の萩原さんの自宅からの眺め。目と鼻の先に配属先の校舎(奥)があった


協力隊経験を通じた成長

編集部 協力隊経験によるご自身の変化のうち、重要だと感じているのはどのようなものでしょうか。

荒井 私の場合は、「柔軟になったこと」かなと思います。派遣前の私は、「こうするべきだ」という仕事の理想を実現しなければ気が済まず、「妥協」が許容できないタイプでした。社会人になってから協力隊に参加するまでの5年間、理想をそれなりに実現しながら仕事をすることができていたので、変な自信が付いていたのだと思います。ところが、協力隊では始めからそれが叶いませんでした。「現地に根付く変化をもたらすためには、自分が動くのではなく、現地の人に動いてもらうべきだ」という理想を掲げて赴任したのですが、実績も信頼もないので、現地の人には「どうしてそれをやらなければならないのか?」「どうしてきみの言うことを聞かなければならないのか?」などと言われてしまい、彼らを巻き込むことができなかったのです。
 そんな状態が1年くらい続いた後、ようやく「自分は動かない」という理想を追うのをいったん止めてみようと思えるようになりました。そうして、商品やパッケージ、ロゴなどを自分で試作し、現地の人たちに見せるようになったのですが、そこでようやく彼らと一緒にプロジェクトに取り組めるようになりました。派遣前の仕事で理想を実現することができていたのは、会社が整えた環境や、会社が蓄積してきたノウハウがあったからこそなのだと、そのときに初めて気づくことができたのでした。
 そうした経験を通じて、理想の状態がなかなか実現できなくても、まずはそれを受け入れたうえで、「より良い状態にしていくにはどうすれば良いだろう」と冷静に考えていく柔軟な姿勢が身に付いたと感じています。現在配属されているのはCSRの担当部署で、環境への負荷が小さい商品開発や事業のやり方などを考えることが主な仕事です。さまざまな部署や生産委託先工場の人とかかわっていく仕事であり、始めはこちらの提案がなかなか受け入れてもらえないことも多々あります。そうした場合でも、辛抱強くより良い解決策を模索し続けることができているのは、協力隊の経験があるからこそと感じています。

細田 「協力隊経験によって柔軟になった」という点は、私も同じかもしれません。日本の医療現場では、「床上30センチ以内は不衛生」という意識が徹底されており、私自身も「潔癖症」に近いタイプでした。ところが、配属先は砂埃がひどいなど、日本では考えられないような衛生環境でした。そのようなところで日本の看護技術を伝えても「焼け石に水」ではないか、私の存在意義などないのではないかと、当初は非常に悩みました。それを抜け出すきっかけを与えてくれたのは、助産師の職種で活動していたラオスの先輩隊員からもらった、「ここで自分の存在意義を考え出したらやっていけない」というアドバイスです。ラオスの一部の病院では、死産で出てきた赤ちゃんの処置の仕方に目にあまる光景が見受けられることもあったようで、その先輩隊員も活動を始めた当初は相当悩んだそうです。けれども、「やれることをやるしかない」と考えを改めてから、前に進めるようになったということでした。私はその話を聞いた後、とにかく自分にできることに取り組み、それが無意味だと感じたら別のことに取り組んでいくという、気長な気持ちで活動に取り組むことができるようになりました。
 それまではたとえば、同僚の看護師に「この患者さんは回復してきているので、吸入する酸素の量を減らしたほうが良い。そう医師に進言しましょう」などとアドバイスをしても、「私たちにはできない」と拒絶されてしまうばかりでした。ラオスは「看護師が医師に意見を言う」ということなどできない環境だからです。そういう事態に対し、以前は手をこまねいているだけだったのですが、先輩隊員にアドバイスをもらった後は、心肺蘇生法など同僚たちに受け入れてもらえるような技術の伝達に力を入れようと発想の転換ができるようになりました。

「生き方」を考えさせられた

萩原 私は、「今」を大切にするというウガンダ人の生き方を学べたのがとても大きかったと感じています。若くしてエイズで亡くなること、あるいは離婚により実の親がどこかへ行ってしまうことなどが少なくない社会ですから、今、目の前にいる人とジョークを飛ばし合えることに喜びを感じ、その時間を存分に楽しむ。お金がたくさんあるわけではないからこそ、彼らの生活では「人とのつながり」という人間にとって本当に大切なものがはっきりと見えるのではないかと思いました。日本のように物がたくさんあると、本当に大切なものがそれらのなかに埋もれ、見えづらくなってしまうのではないかと。「目の前のことしか考えないと、先々の発展はない」という意見もあるかと思いますが、「発展」を求めすぎるあまりに「今」を疎かにしてはいけないのだと、あらためて感じました。人生は結局、「今」の積み重ねだからです。

荒井 私もドミニカ共和国の人たちに対してまったく同じことを感じました。「今」を楽しんで生きている。私の任地は、映画館はおろか、ショッピングモールすらなく、住民の娯楽と言えば、商店に集まり、お酒を飲みながらボードゲームやおしゃべりをすることでした。彼らは口癖のように「アメリカ人はお金があって良い」と言いますが、私から見れば、「十分楽しんでいるでしょう」と思うわけです。

萩原 今のお話は強く共感します。赴任して1年ほど経ったころ、私が授業をしていた4年生のクラスの先生の誕生日に、クラスの子どもたちに「メッセージカードを書こう」と呼びかけたのですが、彼らは「ケーキを買いたい」と言って、ひとり1円ずつ出し合って小さなケーキを買いました。しかし、80人もいるクラスでしたので、全員で分けるとひと口ずつになってしまうわけです。それから1年経ち、帰国が近づいた時期に、同じクラスの図工の授業で「自分の幸せ」をテーマにした絵を自由に描かせたのですが、「みんなで一緒にケーキを食べたことがうれしかった」と言って、1年前のシーンを描いた子がいたのです。そのときに思ったのは、食べたケーキの量ではなく、みんなで楽しみを共有できたこと、その空間を幸せに感じたのだろうということでした。

細田 今のお話に通じることを、私はラオスの医療現場で考えさせられました。ラオスの病院では、入院患者にかならず家族の誰かが付き添い、お世話をします。また、回復の見込みがない患者さんは、自宅に帰り、家族に看取られながら亡くなります。日本では、基本的に患者のお世話はすべて看護師や介護士が行い、病院で亡くなるのが一般的です。両者を比較し、「家族と一緒に過ごす」ことの価値について考えさせられました。

今後の人生プラン

編集部 今後、協力隊経験を糧にどのような人生を歩んでいきたいと考えていますか。

荒井 さきほどお話ししたとおり、アシックスの創業哲学である「スポーツを通した青少年の心身における健康」への貢献に具体的に携わるチャンスを見つけていきたいと思っています。また、弊社は今、「ダイバーシティ」の充実化を進めています。職場の人材の多様性を増す取り組みで、有志社員によるプロジェクトなどもあるので、そういうところにも積極的にかかわっていきたいと考えています。異文化社会で暮らす協力隊は、まさに人間の多様性について考えさせられる機会であり、その経験を持つからこそ発信できることがあるはずだと思うからです。

細田 私は帰国したばかりのころ、この先何がやりたいのかがまったくわからなくなってしまったので、ラオスに戻って2カ月間、現地のラオス人の友人の家にホームステイをさせてもらいました。協力隊時代の大家さんの親戚の女性です。その子は家政婦をしており、私はその仕事現場を見させてもらったり、彼女といろいろな話をしたりしました。彼女は田舎の貧しい家の出身で、仕事を自由に選べるような状況にありませんでした。そういう彼女と一緒に過ごすなかで、ようやく「『やりたいことがわからない』などと甘ったれたこと言っていたらだめだ」と思い直すことができました。そうして現在は、国際救援の領域で看護師として働くことを目指しています。

萩原 私は「目の前のことに一生懸命取り組めば、次のことはおのずと見えてくる」という信念で、新卒での就職もやめて協力隊に参加しました。実際、協力隊活動に一生懸命取り組み、現地のコミュニティにとことん深く入り込んだからこそ、さきほどお話ししたとおり、「もっとも大切なのは現場を知ることだ」という国際協力に対する考え方の軸を得ることができました。それを土台に国際協力の仕事をしていくことができればと考えています。

編集部 ありがとうございました。

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