助産師として
激動の命の現場を同僚とともに駆け抜ける

大学の講義で青年海外協力隊員だった助産師から「非常事態が日常になった国で母児の命を救いたい」という話を聞き、将来を決めかねていた西さんに衝撃が走った。貧困・災害・戦争、どんな状況下でも必ず命は生まれる。そう思ったとき「助産師になり、いつか海外で活動しよう」と決意。約10年の経験を積み、協力隊に参加した。

西 菜実子さん
(ガーナ・助産師・2017年度1次隊)




[西さんのプロフィール]
1982年生まれ、福岡県出身。東京の大学の看護学科を卒業した後、助産学専攻科へ進学し、大学病院で7年間助産師として勤務。その後15カ月間の世界一周の旅へ出発し、観光地ではない僻地を主に巡る。帰国後は離島と個人病院で助産師として2年半働いたのち、2017年6月、青年海外協力隊員としてガーナに赴任。19年6月に帰国。現在は入職当時の都内の大学病院へ再就職し、助産師として勤務。

[活動概要]
配属先:ガーナ保健局クラチイースト郡マダムニエトCHPS(チップス、Community Based Health Planning and Service:コミュニティベース保健計画・サービス)
主な活動:CHPSを拠点に、助産師として以下を目標として産科全般の活動を行う。
●妊産婦指導の向上
●若年妊娠の低下
●妊産婦ケアの向上

西さんの関係人物

[上司]
フローレンスさん(施設の助産師兼管理者):24時間365日の勤務体制をこなすスーパー助産師。活動がどんなに辛くても乗り越えられたのは彼女がいたから。我が郡の母。
[同僚]
モニカさん(助産師):仕事に対する責任感は誰よりも強く、仕事は丁寧。人の輪に入らず、看護師からも恐れられる一匹狼でもある。毎日怒鳴られ、褒められたことも感謝されたことも一度もなかった。しかし、私が帰国するとき「ありがとう」という言葉と長いメッセージをくれた。彼女の存在に苦労したが、やってきてよかったと思った。
[同僚]
エネストさん(巡回先のCHPSのコミュニティヘルスナース):月数回のコミュニティ巡回を共にしたパートナー。多くの村々を2人で巡回し、たくさんの乳幼児健診・予防接種・健康教育を実施した。仕事の愚痴を聞いてくれ、優しく包み込んでくれた存在。
[同僚]
フランシスさん(保健局のオフィサー):温厚で優しい私のヒーロー的存在。仕事が遅くなっても、夜の勤務も電話1本ですぐに飛んできてくれた。常に気にかけてくれ、味方でいてくれ、理解してくれ、私の好奇心を汲んでガーナのリアルを多く見せてくれた。
[同期隊員10人]
年齢もバックグラウンドも性格も異なる同期。任地も離れており、首都にもほとんど行かなかった私は年に数回も彼らに会えなかったが、彼らがいる、そう思うだけで力が湧いてきた。

西さんの活動

新生児健診をする西さん。自分のことを知ってもらうため、大きな名札を首から下げて、職場でも街でも過ごした

 ガーナ東部の郡にあるコミュニティレベルの保健医療施設で助産師として活動した西さん。同郡は医療環境に数多くの問題を抱えていた。14万人の人口に対し、病院がなく、医師もおらず、助産師も不足していた。施設の整った医療施設は遠く、道のりは悪路。住民は貧しく、経済的理由から医療施設への搬送を断る人もいる。現地助産師への技術指導や地域住民への母子保健の啓発活動などが要請内容だったが、人手不足の現場でいち助産師としての活動が始まった。
 西さんは、目の前の命を守る準備と覚悟を忘れずに、毎日現場に立った。どんな患者も受け入れ、最善を尽くす。現地の助産師たちは、医師も医療機器もない過酷な環境で、五感だけを頼りに多くの命を見つめていた。
「先端医療で学び育ってきた私の提案が受け入れられるはずもなく、従来のやり方や意識を変えるのも難しい。彼らを尊重しながら働く、それが私の学んだことです」
 現地の人と同じ生活をし、同じものを食べ、活動した。西さんの活動の姿勢は、医療者のみならず、患者とその家族、郡全体の信頼関係へとつながったという。

経験と出会いは一生の宝

 特に苦労したのは同僚助産師との人間関係だ。責任感が強く、仕事は丁寧で尊敬すべき人である一方、厳しく、気難しく、あいさつも返してくれない人だった。西さんは彼女に怒鳴られても、歯を食いしばりくらいついた。彼女の前で泣きたくなくて、分娩室に行き、涙をぬぐった日々は数え切れない。しかし、何があっても西さんは笑顔であいさつをし、共に命を見つめ続けた。そんな日々を重ねるうち、彼女が無表情で小さく手を振ってくれたり、無言で西さんの好物をくれたり、素直に表現できない性格が見えてきた。彼女を克服し続けた2年間だった。
 助けられなかった命もある。過酷な医療環境で無力さと悔しさに押しつぶされそうになった。そんな西さんを支えてくれたのは、ほかでもない患者さんたちだった。
 医療施設での産科サポートと、巡回での母子保健活動を通し、終盤はどんなに遠くのコミュニティにもかかわったお母さんと赤ちゃんがいて「ミコ」(※)と呼ばれ、「将来、ミコのような助産師になる」という言葉もたくさんもらったという。そして、西さんの活動最終日、厳しい助産師が目に涙をため、笑顔で感謝の言葉を述べてくれた。
「それらが私の2年間の成果なのかもしれません。協力隊での経験と出会いは一生の宝物です」

※西さんのニックネーム。

西さんの「やりがい曲線」

(1)活動初日〜1カ月を振り返る
「何かを変える!」と意気込んで出勤した初日。と思ったのもつかの間、活動先はベテランの助産師2人で成り立っており、要請にあったスタッフの指導・教育などを私がする必要はありませんでした。「優しい助産師」と「厳しい助産師」がいて、赴任当初は厳しい助産師しかおらず、何もやらせてもらえなかったどころか、口もきいてもらえない状態。加えて、患者さんは英語ではなく現地語で話すため、話しがまったくわからず、焦りと孤独を感じていました。しかし、異国から来て急に「ここは改善したほうがいい」という方がおかしな話です。焦る気持ちを一度手放し、徹底的に同僚助産師の動きを見学。母子保健の制度を把握し、技を見て盗み、何でもメモをとり、しつこいくらい質問しました。また、すべての人を現地語の先生として、わからない単語や文を聞いてはメモをとり記憶して使用。私の2年間の基盤は、このとき築いた信頼関係にあると思っています。

(2)同僚助産師が全く相手にしてくれず、何度も心が折れそうになった。後に、彼女の性格をわかってきてからは少し気持ちが楽になった。相手もこちらを探る期間。焦らないことが大事。

(3)ある日突然、私の前に母子手帳が置かれた。恐る恐る診察をしても同僚から何も言われなかった。嬉しくて、一気に仕事へのモチベーションが上がった瞬間。優しい助産師も夏期休暇から戻って来た。我ながらよく心が折れずに頑張った!

(4)無我夢中で突っ走り、土日も夜も活動した。周産期分野の全サポートに回るなど、スタッフとして役割分担もでき始め、厳しい助産師とも言葉は少なくとも息があってきたと感じることが増えた。

エコーがないので自分の手で赤ちゃんの位置と向きを確認

心音を聞く機械がないため、木の棒で心音を確認

(5)医療施設における一連の母子保健の流れは理解できてきたが、もっと広い範囲を見てみたくなる。しかし、人手不足の中、コミュニティ巡回に行きたいと言い出すことができず、モチベーションが下がる。

(6)助産師が2人体制で固定されてきたため、巡回に行きたいという思いを伝え、コミュニティ巡回を開始。

(7)巡回に週1〜2回行けるようになる。現地語での会話も弾み、仕事の意欲が上がる。

巡回先の乳幼児健診

(8)(9)同僚助産師が産休に入り、再び極度の人手不足に。休日が全くない状態が続く。今振り返ると心も体も自分のキャパシティを超えていた。しかし、あの激動の命の現場を共に駆け抜けた絆は一生ものだ。

(10)ガーナで初めて体調を崩す。無理をしすぎたと反省。

(11)2年を振り返ってひとこと
帰国した今も脳裏に浮かぶ、人々の笑顔と私を呼ぶ声。大好きな景色たち。助産師として開発途上国で生活し、活動した自分に、今、素直に伝えたい。「2年間、お疲れ様」。

チーム・マタニティ

知られざるストーリー