「学校の外」に、
図工の活性化を担うキーパーソンを獲得

武藤雄星さん(ベナン・小学校教育・︎2017年度1次隊)の事例

小学校における図工授業の質向上に取り組んだ武藤さん。「主要教科を優先する」という現地教員たちの傾向を改善できないなか、図工授業活性化のキーパーソンとなってくれたのは、教員ではない住民だった。

武藤さん基礎情報





【PROFILE】
1993年生まれ、佐賀県出身。大学卒業後、社会科の講師として中高一貫校に勤務。2017年7月に青年海外協力隊員としてベナンに赴任。19年7月に帰国。

【活動概要】
パラクーⅠ視学官事務所(ボルグー県パラクー市)に配属され、図工授業に関する主に以下の活動に従事。
●小学校での授業の実施
●教員に向けた研修会の実施
●デッサン大会の開催


 武藤さんの配属先は、ベナン中部の最大都市・ボルグー県パラクー市にある2つの視学官事務所のうちの1つ。配属先が管轄する幼稚園や小学校を対象に、技能教科の音楽・図工・体育や算数の授業の質向上に向けた支援をすることが、主な要請内容だった。
 着任するとまず、配属先の近くにある小学校(以下、A校)に通って授業を見学。各教員が1つのクラスの全教科を受け持つ「学級担任制」がとられていたが、彼らには共通して見られる傾向があった。カリキュラムには技能教科が組み込まれているものの、フランス語や算数などの主要教科ほどは力を入れていないことだ。なかには授業を行っていない教員もいた。技能教科は卒業時の国の統一試験で配点が低く、出題内容も易しいことが、その最大の要因と見られた。
 そうした状況を踏まえて武藤さんが活動の重点を置くことにしたのは、小学校における図工授業の質向上に向けた支援。前任の協力隊員の活動により、任地の小学校教員たちには図工教育に関するある程度の認識があったこと、さらにベナンには小学校教育隊員たちが作成した『CHIEBUKURO』という図工の教員用指導書(以下、「指導書」)があったことなどが、図工を選択した主な理由である。

任期前半は我慢の時期

ガーランドづくりの授業を行う武藤さん

任期の終盤に武藤さんが開いた「デッサン大会」での作品を手にするA校の児童たち

 最初の活動の場としたのはA校だ。同校の教員たちが行っていた図工の授業は「デッサン」ばかりになっていた。しかも、教員が黒板に描いた「カバン」や「車」などの絵を写させる、一種の「模写」に終始し、実物を見てデッサンさせるということをしない。児童の力の評価は、「いかに手本を忠実に写すことができるか」を基準になされていた。
 そうしたなか、武藤さんは主に4、5年生の図工の授業に入り、「想像する力」や「想像したものを形に表現する力」など、図工教育で本来養われるべき力の獲得につながるようなアクティビティを紹介していった。「指導書」で取り上げられていた「ガーランド(*)」や「端切れ布を使った貼り絵」、あるいは技術補完研修でアイデアを得た「葉や砂などの自然物を使った貼り絵」などの制作である。
 武藤さんはそうした授業を現地教員と共に行うことで、彼らに独力で行えるようになってもらいたいと考えた。しかし、図工授業に対する彼らのモチベーションはなかなか上がらず、武藤さんが主体となって授業を行う日が続いた。
 活動の転機となったのは、着任の半年後から4カ月間にわたって続いた「ストライキ」だ。市内の小学校が休校となってしまったことから、その間、武藤さんは友人のベナン人(以下、Bさん)の手を借りて週に1、2回、市内の図書館で地域の子どもたちを対象に「図工教室」を開いた。Bさんは前任の協力隊員とも付き合いがあった50代の男性で、着任してまもない時期に配属先に武藤さんを訪ねてきたのが最初の出会いだ。「ベナンで日本料理店を開きたい」と口にするなど、日本への興味が強い人物だった。職業は病院の薬局の事務員。本職のかたわら、図書館で子どもたちにアクティビティを提供するボランティア活動もしているとのことで、図書館で図工教室を開くというアイデアも彼がくれたものだった。
 当初はよく遅刻をするなど、日本人への興味だけから図工教室に協力してくれている様子だった。ところが、回を重ねるうちに図工への関心を強め、アクティビティを熱心に習得するようになっていった。

* ガーランド…「国旗」など同じ形態の物を紐状につないだ装飾。

教員対象の研修会の受講者がその後、自らのアイデアにより授業で制作課題とした「鎌」のガーランド

研修会で講師を務めるBさん

武藤さんから授与された「指導書」と「修了証書」を手にするBさん


図工活性化のキーパーソンに

 ストライキが終わると、武藤さんは活動場所をA校を含む5つの小学校に拡大。所用で配属先を訪れる各校の校長たちに巡回指導の打診を行い、受け入れに積極的な姿勢を示してくれた校長の学校がメインだ。武藤さんは各校を週に1回ずつ回り、A校のときと同様、図工授業に入ってアクティビティの紹介を進めていった。しかし、武藤さんに代わって授業を主体的に行おうとしてくれる教員にはなかなか巡り会えなかった。
 そうしたなか、5校の巡回と並行して行うようになったのが、Bさんと共に他の小学校に赴いて図工授業を披露する活動である。彼は現地の教員に顔が広く、「訪問して構わない」という小学校を開拓しては、そこで図工授業をやろうと武藤さんに持ちかけるようになったのだった。
 Bさんとの図工授業は当初、児童への説明や指導は武藤さんが担当し、Bさんには補助に回ってもらった。その際、必ず事前に打ち合わせの機会を2、3度設け、授業の注意点やコツなどを伝えた。そうして対象校を変えながら同じアクティビティの授業を繰り返すうちに、Bさんも授業の流れを把握。そこで、徐々に授業運営の主体を彼に移譲していった。授業の後の反省会では、彼が教員ではないがゆえに苦手とする「時間配分」などの指導に注力。すると、回を重ねるごとに彼の授業展開の力は伸びていくのだった。
 ベナンの小学校教育隊員たちによって「指導書」の改訂版が完成したのは、武藤さんの任期の半ばごろだ。任期が終盤に入ると、武藤さんはその普及を目的とした研修会を任地で3度にわたって開いた。1回目の対象者は複数の小学校の教員約10人。2、3回目は、それぞれ異なる大規模校の教員約20人ずつを対象とした。この研修会では、Bさんに講師を務めてもらった。図工授業に対するモチベーションの高さや、その実践経験の豊かさといった点で、それまで武藤さんがかかわってきたどの教員よりもBさんは突出しており、彼にこそ、武藤さんが帰国した後の任地における図工教育のキーパーソンになってもらいたいと考えたからだ。
 同じベナン人であるBさんが図工授業に情熱を注ぐ姿は、受講者たちの刺激になったようだった。受講者のなかに、現地の人々に馴染みのある「鎌」のガーランドをつくらせるなど、アクティビティに自分なりの工夫を加えた図工授業に挑戦し始める教員も現れたのだ。
 武藤さんは帰国時、「指導書」を使った図工授業の訓練の「修了証書」を自作し、「指導書」の実物とともにBさんに授与。帰国後は、彼から武藤さんのもとに「小学校に赴き、図工授業を行った」といった報告が届いているという。

知られざるストーリー