コロナ禍による一時帰国を振り返る
[座談会]「志半ばでの任期終了」が持つ意味とは?

座談会参加者

小島尚幸さん(日系社会青年ボランティア/ブラジル・野球・2018年度1次隊)

1991年生まれ、東京都出身。大学卒業後、信用金庫に約4年間勤務。小学生のときから社会人になるまで野球を継続。退職後の2018年7月、日系社会青年ボランティアとしてブラジルに赴任。少年・少女への野球指導などに従事する。20年3月に一時帰国し、同年7月に任期終了。現在はJICA青年海外協力隊事務局に国内協力員として勤務。

※派遣名称は派遣当時のものです。

富口由紀子さん(マーシャル・栄養士・2018年度1次隊)

1987年生まれ、長崎県出身。大学院の修士課程を修了した後、栄養学の教員として短期大学に勤務。退職後の2018年7月、青年海外協力隊員としてマーシャルに赴任。病院に配属され、院内や地域、学校での栄養教育などに従事する。20年3月に一時帰国し、同年7月に任期終了。21年2月から管理栄養士として学校に勤務する予定。

西野尚之さん(タンザニア・障害児・者支援・2018年度2次隊)

1993年生まれ、茨城県出身。大学卒業後、教員として聾学校に約2年間勤務。退職後の2018年10月、青年海外協力隊員としてタンザニアに赴任。聾学校に配属され、小学生への算数と理科の指導などに従事する。20年3月に一時帰国し、同年10月に任期終了。21年4月から県庁に福祉職で勤務する予定。


協力隊時代の小島さん(後列右から2人目)と、指導をした13〜14歳の野球チーム。サンパウロ州サンパウロ市にある配属先の日系人団体「アニャンゲーラ日系クラブ」が運営するチームだ

JICA青年海外協力隊事務局に勤務する現在の小島さん

帰国前後の状況

編集部 新型コロナウイルスの感染拡大によって一時帰国することが決まってから、実際に帰国するまでの間、どのような状況だったかをお教えください。

小島 JICAブラジル事務所から「一時帰国することになった」との連絡を受けた時点で、私の隊次である2018年度1次隊は任期終了予定まで残り3カ月となっていたので、再赴任することなく任期終了となるのを前提に荷物の準備などをするよう指示があり、そうなることを覚悟しての帰国となりました。残念だったのは、感染のリスクを避けるため配属先の人や野球の教え子たちに直接会って別れのあいさつをすることができなかったことです。当時はまだブラジル国内の感染者は少なかったので、帰国することを配属先の人に電話で伝えると、「ここにいたほうが安全だろう」と言われ、「確かにそのとおりだ」と悔しく思いました。

富口 私が一時帰国の連絡を受けたのは、安全対策について情報共有を図るJICAマーシャル支所の会議に出席するため、協力隊員たちがみな首都に集まっている最中でした。任地が地方だった私は、帰国の準備などせずに首都に来ていたのですが、私の任地で感染の疑いがある人が出てしまったことから、その後、一度も任地に戻ることができないまま帰国せざるを得なくなりました。そうした無念さから、私は小島さんと同じ隊次ですが、当時は「再赴任の可能性はない」という現実を受け入れられず、お土産を買う気にもなれませんでした。マーシャルはその時期はまだ陽性が明らかになった人は1人もいなかったので、任地の人たちに首都から電話で帰国することを伝えると、やはり「こっちにいたほうが安全でしょう」と言われました。

西野 私がJICAタンザニア事務所から「一時帰国することになった」との知らせを受けたのは、タンザニア国内で初めて感染者が出た直後でした。私の配属先である全寮制の聾学校もすぐに閉鎖されることが決まり、子どもたちもそれぞれの自宅に帰ることになったのですが、私は2018年度2次隊でまだ任期が半年ほど残っていたので、子どもたちが集まった場では「日本に帰ることになったけれど、また戻ってくるよ」と伝えてしまいました。当時は呑気に再赴任できるものとばかり思っていたので、同僚や近所の人たちにも、やはり「また戻ってくるから」と軽いあいさつだけで済ませてしまいました。

編集部 2週間の健康観察期間を含め、帰国した直後はどのような過ごし方をされたのでしょうか。

小島 自宅で健康観察期間を過ごしたのですが、その間はほとんど放心状態で、頭に浮かぶのは後ろ向きなことばかりでした。例えば、私が赴任していた当時、ブラジルでは10人を超える野球隊員が派遣されており、1カ月後にはみんなで集まってチームをつくり、現地の大人のチームと親善試合をしたり、子どもたちへの野球教室を開いたりする予定となっていました。野球隊員は普段、個別に活動しているため、子どもたちに「プレーヤー」としての姿を見せることができないので、それができるチャンスだととても楽しみにしていたのですが、それが叶わなかったことを思い起こしては、残念な気持ちに浸っていました。

富口 私がようやく「再赴任は無理だ」と冷静に判断できるようになったのは、成田空港に降り立ったときでした。健康観察期間を過ごした場所は私も自宅だったのですが、「何かしなければ」と思いつつ、心の整理がつかないため、何もできない状態でした。そこで、自然に「何かをやりたい」という気持ちになるまで待とうと思うようになり、しばらくは、ひたすらぼんやりと過ごしていました。

西野 私が健康観察期間を過ごした場所はJICA筑波で、2週間後に自宅に戻りました。私がようやく「再赴任は難しそうだ」と感じるようになったのは、帰国の約1カ月後です。きっかけは、「任期満了扱いで任期の終了を早める」という選択肢をJICAから提示されたことです。それまでの1カ月間は、再赴任できるものだと真剣に思っていたので、スワヒリ語と英語の勉強を続けたり、次の学期で教えることになっている算数の単元の予習をしたりと、再赴任に向けた自己研鑽に取り組んでいました。

配属先のイバイ病院(クワジェリン環礁イバイ地区)が管轄する地域の小学校で、栄養教育の授業を行う協力隊時代の富口さん

富口さんは任期終了後、就職活動がひと段落すると山小屋に2カ月間勤務。そこでようやく、新たな生活に向けた気持ちの切り替えができたと言う

任期終了後の進路

編集部 小島さんと富口さんが何も手に付かない状態を脱し、前向きになれたのは、帰国してどれくらい経ったころだったのでしょうか。

小島 私は1カ月ほど経ったころでした。協力隊員として日本でもできることをやったうえで任期の終わりを迎えようという気持ちになり、ビデオ通話で教え子たちに野球の指導をするといったことを始めました。任地はインターネットの環境が良かったのですが、日本とは時差が12時間あるため、対応はたいてい早朝でした。

富口 私が「そろそろ何かやろう」という意欲が湧いてきたのも、やはり帰国して1カ月ほど経ったころでした。そうして、作成に着手したものの、一時帰国で未完のままになっていた病院食の新たなレシピを完成させ、配属先の病院に送る活動などを進めるようになりました。

編集部 西野さんは帰国の約1カ月後に「再赴任は難しそうだ」と感じるようになったとのことでしたが、そこからの過ごし方はどう変わったのでしょうか。

西野 私は漠然と「来年から働き始めることができれば良いだろう」と考えていたので、任期終了を早める必要性がなく、予定の任期終了日である10月22日まで協力隊員の立場を継続する道を選びました。再赴任の可能性がなくなったわけではなかったので、それに向けた自己研鑽を続ける一方、次の進路について考えるようにもなりました。そうして、自分は社会的に弱い立場にある人を広く支援するような仕事がしたいのだということが見えてきたため、21年度に採用される地方公務員の採用試験への応募を進めたところ、任期終了の1カ月前に県庁の福祉職の内定をもらうことができました。

小島 私が次の進路について考え始めたのも、やはり帰国して1カ月ほど経って任地の子どもたちへのオンラインの指導を始めたころでした。私は派遣前も派遣中も任期終了後の仕事についてのビジョンを持っていなかったのですが、コロナ禍で協力隊員が一時帰国するという状況のなか、JICA事務所の企画調査員(ボランティア事業)が大変なご苦労をされているのを目の当たりにし、こうした方々に協力隊員の活動は支えられているのだとわかったことから、私も協力隊事業を支えるような仕事がしたいと思うようになっていました。そうして任期終了の1カ月後に就いたのが、青年海外協力隊事務局の国内協力員という今のポストです。

富口 私が就職活動を始めたのは、7月に任期が終了してからでした。私は派遣前から、協力隊を経験した後は栄養士として現場で働こうと考えていました。栄養士の経験がないのに教員を務めていることにコンプレックスがあったからです。そうして参加した協力隊で栄養指導に取り組むなか、「大人」の行動変容を引き出すのがいかに難しいかを痛感し、任期終了後は「子ども」の栄養への意識を育てるような仕事に就きたいと考えるようになりました。そうした方向性で就職活動を進めた結果、21年度から学校の管理栄養士として給食の管理や食育に携わることになりました。

配属先であるムワンガ聴覚支援学校(キリマンジャロ州ムワンガ県)で、放課後にサッカーの指導をする協力隊時代の西野さん

西野さんは再就職の時期が2021年4月となったことから、現在は技能実習生が来日できなくなったために人手不足となっている地元茨城県の農家でアルバイトをしている

「申し訳なさ」を糧に

編集部 今振り返って、任期の途中で一時帰国をし、そのまま任期終了を迎えざるを得なかったことは、ご自身の協力隊経験にどのような意味を持ったとお感じになっていますか。

小島 私が帰国した後にブラジルの感染者は爆発的に増えてしまい、「自分は任地の人たちを置いたまま、ブラジルから抜け出してきた」という申し訳ない気持ちを持つようになりました。そのため、いつかブラジルに戻って何かしらの貢献をするチャンスがあれば、どんなことであれ実践したいという思いが強まったと感じています。

富口 「自分だけ抜け出してきた」という申し訳なさは、私も感じています。私はマーシャルのために自分にできることをやりたいと思って赴任したわけですから、コロナ禍という大変な事態になったときこそ、現地にとどまり、現地の方々のために力になりたかった。それができなかった無念さや申し訳なさを持ったことによって、何事もなかった場合よりも、マーシャルや国際協力に対する思いがはるかに強い状態で任期終了を迎えることになったのだろうと思います。それを自分の今後の人生につなげていきたいです。国の間の行き来が解禁となったら、おそらくすぐにマーシャルに飛んで行き、私にできることをするだろうと思っています。また、長期的なつながりという面でも、協力隊時代に活動を共にした現地のNGOなどとの協働をしっかり続けていこうと考えています。

西野 お2人がお話しされたような申し訳なさは、私も感じています。一時帰国が決まってから実際に帰国するまでの間、現地の同僚たちによく「タンザニアは感染者がまだわずかで、日本はとても多くなっている。それなのになぜ帰国するのか?」と問われました。そういうときに「日本のほうが医療のレベルが高いので安全だから」などとは言えませんから、「確かにここにいたほうが安全だと思うけれど、日本が封鎖されてしまう可能性があるから仕方ないんだ」といった説明でお茶を濁すことしかできませんでした。そうして帰国したことを申し訳なく思う気持ちを何かしらの形で償いたいと、再赴任が叶わないことが見えてきたころから考えるようになりました。例えば、タンザニア産のキリマンジャロコーヒーを積極的に買う。「お金の支援をしても、持続的な開発にはつながらない」と言われますが、お金がなければ何もできないということは、赴任中に実感していることです。帰国して「クラウドファンディング」が盛んになっていることに驚いたのですが、タンザニアを支援するためにコーヒーの輸入を行っているようなNGOなどから積極的にコーヒーを買うことは、日本にいながらタンザニアに対してできる支援だろうと思っています。

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