【宮城県牡鹿郡女川町】
被災地の放課後学校で、
地域の教育に関する問題の解決を支援

芳岡孝将さん
●モザンビーク・理数科教師・2009年度3次隊
●認定NPO法人カタリバ 「女川向学館」 副拠点長

教育分野の活動を行う認定NPO法人カタリバが被災地に立ち上げた放課後学校で、地震発生の翌年から講師などとして働いてきた芳岡さん。これまでに取り組んできた活動や地域の子どもたちの変化について伺った。






プロフィール

1984年生まれ、北海道出身。北海道教育大学を卒業後、2010年1月に青年海外協力隊員としてモザンビークに赴任。中等学校に配属され、理科教育の質向上支援に取り組む。12年1月に帰国。同年4月、認定NPO法人カタリバに就職。同法人が災害被災地で運営する放課後学校の「大槌臨学舎」(岩手県上閉伊郡大槌町)、「女川向学館」(宮城県牡鹿郡女川町)、「ましき夢創塾」(熊本県上益城郡益城町)のスタッフを経て、18年より女川向学館の副拠点長を務める。

[認定NPO法人カタリバ 「女川向学館」]
■ 開校
2011年7月
■ 所在地
宮城県牡鹿郡女川町浦宿浜字門前4
■ 主な事業内容
●放課後学校の運営
●地域の学校の運営サポート


女川向学館で高校生の授業を行う芳岡さん

女川向学館では授業にタブレットも導入している

受験生に個別指導を行う芳岡さん

 約1万人だった人口に対し、震災による死者が600人あまり(※)にのぼった宮城県牡鹿郡女川町。高校生へのキャリア教育などに取り組んできた認定NPO法人カタリバが、被災した子どもを対象に心のケアや学習サポートなどを行う放課後の居場所「女川向学館」を設立したのは、地震発生の約4カ月後だ。「震災があったから夢を諦めた」ということが絶対に起こらないようにとの想いから、小学生から高校生までの学びを支える目的で立ち上げた施設である。自然災害によって生活環境や学校生活が変わってしまった子どもたちに学習と体験活動を届ける放課後施設を、カタリバでは「コラボ・スクール」と名付け、その後、同種の施設を2カ所の被災地(岩手県上閉伊郡大槌町、福島県双葉郡広野町)と、熊本豪雨の被災地(熊本県上益城郡益城町)に立ち上げてきた。コラボ・スクールの運営費は行政からの委託費や全国からの寄付金などでまかなっている。
 現在、女川向学館の副拠点長を務める芳岡孝将さんは協力隊の経験者だ。震災の前年に新卒で協力隊に参加した芳岡さんがカタリバに入職したのは2012年4月。帰国の3カ月後である。以来、大槌町、女川町、益城町、再び女川町と各地のコラボ・スクールを転任し、授業の講師などを務めてきた。1回目の女川向学館勤務は13年からの3年間。18年に副拠点長として戻ってきてからは、講師のほかに事業全般のマネジメントも担っている。
 女川向学館は、避難所となっていた女川第一小学校の校舎を借りてスタート。芳岡さんが最初に着任した当時は、主に仮設団地で暮らす小学生から高校生までの約200人が通っていた。芳岡さんの着任と同時に女川第一小学校は閉校となったが、校舎は残されることになり、女川向学館は引き続きそこで運営を続けてきた。18年には仮設団地が閉鎖となり、住民が復興公営住宅などへと移ったが、現在も女川向学館には小学生から高校生までの約100人が通っている。
「帰国後は教員になることを考えていましたが、被災地を訪れた際にコラボ・スクールと出会い、一緒に活動させてもらうことにしました。カタリバの代表が一生懸命子どもたちに英語を教えている姿を見て、東北のために活動をするだけではなく、教育について大切なことを学べると感じました」

※ 関連死を含む身元が判明した人数。

町の問題に柔軟に対応

 女川向学館は当初から一貫して、「教育に関する町の問題に柔軟に対応する」というスタンスをとってきた。立ち上げ時に問題となっていたのは、学校教員に過度の負担がかかっていたこと。放課後も交替で避難所に詰め、子どもたちの勉強を見ていた。「放課後は先生たちを休ませたい」との相談が町の教育長からカタリバに寄せられたことが、女川向学館立ち上げのきっかけだった。
 芳岡さんが最初に女川向学館に勤務した時期に問題となっていたのは、心のケアが必要な子がいる一方で、逆境をバネにより強く生きようとする子もいるなど、必要なサポートが多様化しており、すべてのケースを学校でフォローすることが難しかったという点だ。そうしたなか女川向学館は、学力別にクラス分けした授業によって子どもたちの学習を支援しつつ、心のケアが必要な子に対しては個別に話を聞く時間を増やし、より強く生きようとする子に対しては、自分の将来について考えたり、憧れの存在に出会う機会などを創出した。
 芳岡さんが再び着任したとき、発災から間もなかった数年前と比較し、子どもたちが抱える困難は少し和らぎ、前を向けるようになった子が増えてきたように感じられた。そこで女川向学館は、予測不能な変化が起きる社会で豊かに生きていくためには、「自律の力」がより求められるとの考えのもと、それを育てる内容へとプログラムをシフト。講師が適宜アドバイスを出しながら、子どもたちが自分でその日にやる勉強の範囲を決め、取り組み、振り返るものへと変更した。コロナ禍に入ってからは、町の学校がオンライン授業を導入したり、保護者などにオンラインでライブ配信する文化祭を開催したりする際に、技術的なアドバイスも行っている。

震災の記憶の継承

 20年12月から21年1月にかけて、徳島県の防災サークルと女川向学館の中学生がオンラインで交流するプログラムを実施した。サークルには中学生も入っていたが、徳島県では南海トラフ地震が発生する可能性があると言われていることから、地震に関する彼らの知識は豊富だった。一方、その交流の場で、女川町の中学生たちは防災について取り組んだ経験が少なく、知識も乏しいのではないかと、芳岡さんはあらためて感じた。
「学校は教員の異動があるため、地域に合わせた防災教育を継続的に実施するのは難しいと、私は考えています。地域の方々や女川向学館のように女川に根差した人材が、震災からの学びを町の子どもたちに伝え続ける役目を担う必要があるのではと思います」
 芳岡さんは子どもたちから「のぶさん」と呼ばれている。芳岡さんは子どもたちと「教える、教えられる」の関係性ではなく、彼らの間で流行っていることを教えてもらうなど、「互いに学びあう」関係性を築くことを心掛けてきた。大槌町のコラボ・スクールに勤めていたとき、高校受験に向けて毎晩勉強を見ていた教え子が、受験に失敗。泣きじゃくりながら「のぶさん、ごめん」と謝ってきた。
「そういう思いをさせたことへの申し訳なさや、子どもが受験を通して成長したうれしさなど、さまざまな感情が入り混じった経験でした。今でもその経験が持つ意味を整理しきれてはいませんが、教職に携わるうえでのモチベーションの土台となったことだけは確かです」
 女川向学館の芳岡さんの教え子の中には、高校卒業後も町にとどまり、地域づくりに参加する例も見られるようになった。「教育」の成果が現れるのには時間がかかるが、女川向学館の取り組みは徐々にその成果が現れ始めている。

知られざるストーリー