【岩手県上閉伊郡大槌町吉里吉里地区】
亡くなった人の思いを胸に、
次世代のための地域づくりに尽力

芳賀正彦さん
●エチオピア・自動車整備・1972年度1次隊
●NPO法人吉里吉里国 理事長

震災後に元の姿のままで残っていたのは、50年以上前に先人が苗を植えた杉の森だけだった——。自らも津波で家を失った協力隊経験者の芳賀さんは、漁業を主産業としていた地元の復興に向け、森を活用する取り組みを続けてきた。






プロフィール

1948年生まれ、福岡県出身。中学校を卒業後、自動車整備士として働くかたわら、夜学の高校と短期大学に通う。72年8月、青年海外協力隊員としてエチオピアに赴任。天然痘撲滅キャンペーンで使う自動車の整備に携わる。74年に帰国した後、妻の実家がある大槌町吉里吉里地区で自動車整備士などとして働く。震災後の2011年5月、薪をつくって販売する活動「復活の薪プロジェクト」を吉里吉里の住民と共に開始。同年12月にその運営母体として「NPO法人吉里吉里国」を設立し、理事長に就任。

[NPO法人吉里吉里国]
■ 設立
2011年
■ 所在地
岩手県上閉伊郡大槌町吉里吉里3
■ 主な事業内容
●森林保全整備
●薪の製造・販売
●人財育成活動(森林環境教育など)
●地域活性化活動
●震災風化防止活動(講話会の開催)


吉里吉里国の看板の前で。奥左に見えるのが森の整備を進めている吉里吉里の山だ

吉里吉里国の事務所には、震災後の吉里吉里の移り変わりを収めてきた写真を展示している

 約1万5000人だった人口に対し、震災による死者が約900人(※)にのぼった岩手県上閉伊郡大槌町。漁業が主産業だった同町の吉里吉里地区では、約250隻あった漁船や、ワカメやホタテ、カキなどの養殖施設がほぼ全滅した。そんななか、地区中に溢れていた木造家屋のがれきで薪をつくり、売る活動を避難所生活者を中心に開始したのは、地震発生の約2カ月後。運営グループの代表に就いたのは、地区のガソリンスタンドで自動車整備士として働いていた協力隊経験者の芳賀正彦さんだ。
 がれきをあらかた薪にし終えた約半年後からは、吉里吉里の漁師たちが所有する400ヘクタールほどの森の手入れを進め、切り出した間伐材を薪にして売ることへと活動をシフト。同時に、地区の内外から子どもたちを受け入れ、薪割りの体験や震災に関する講話などをする「震災講話会」を開くようになった。運営グループは法人格を取得し、設立したNPO法人吉里吉里国の理事長に芳賀さんが就任。「復活の薪プロジェクト」「復活の森プロジェクト」などと名付けたこれらの取り組みは、雇用創出や人づくり、自然環境の回復、震災の風化防止などさまざまな面で吉里吉里の復興を支えるものとして、現在まで続けられている。
「吉里吉里の山は、漁師たちの親の世代が震災の50年以上前に苗を植えた杉が大半です。生活に困っているからといって、木材として価値が高い『百年杉』になるのを待たずに伐って売ることもできるのですが、それはやめようと吉里吉里国の仲間で決めました。病気にかかった木、成長が見込めない木など、木材として販売できない『死材』と呼ばれる木だけを伐って薪をつくっています。集落の森は、先人たちが後の世代のために汗して植林し、残してくれた宝ものです。今は亡き先人に『恩返し』をすることはできません。しかし、100年先の未来に生きる人々に、先人の恩をそのままそっくり『恩送り』することはできる。吉里吉里を本当に復興させるというのはそういうことではないのか。死材の間伐をしっかり進め、森を育てる。そして、薪にすることで間伐した低質材に新しい命を吹き込み、お金を授かることにしました」

※ 関連死を含む身元が判明した人数。

薪は無料で分けてもらっている米袋に詰め、10キロ500円で販売している

名もなき男衆たちと共に

 芳賀さん自身も被災者だ。最後の津波が引いた後、妻と2人で住んでいた家を確認しに行くと、残っていたのは柱と屋根だけだった。家は妻の実家で、芳賀さんは福岡県の出身。「福岡に行けば親族に土地を分けてもらえる。九州に帰ろう」。泣き言を言うと、妻はこう言った。「私は父母や祖父母と同じように、この地で先祖の仏様を守りながら生きたい」
 弱音を吐いて逃げようとした自分を恥じ、吉里吉里に残ろうと心に決めた芳賀さんは、避難所となった小学校での生活を開始。地震発生の翌日から、避難所にいる吉里吉里の男衆と共に行方不明者の捜索にあたるようになったが、その日から寝付けない夜が続いた。あちこちで目にした、言葉では言い表すことのできない無残な遺体の姿が、寝床に入っても頭から離れなかったのだ。毎晩、ほかの避難者を起こさぬよう静かに寝床を抜け出しては、校庭で焚かれていた火の前にうずくまり、2、3時間を過ごした。「これからどうすれば良いのかわかんねぇ。教えてけろ」。気が付くと、焚火に話しかけるようになっていた。にわかに覚悟が決まったのは1週間ほど経ったころだ。
「行方不明者の捜索にあたったのは、いずれも私と同じように、立派な肩書きを持つわけではない名もなき男衆たちでした。もう自分が被災者だとは思うまい、津波で苦しみながら死んでいった人たちの思いを背負い、名もなき男衆たちと力を合わせながら、誰かのためにできることをやる。焚火の炎にそう誓いました」
 がれきで薪をつくって売るというアイデアは、避難所で風呂を沸かす薪をつくる作業を担当していたボランティアの青年がくれたものだ。吉里吉里では森だけが以前の姿のままで残っていた。そこで、当面はがれきで薪をつくり、その間に男衆が間伐の技術を学び、後に薪の材料を間伐材に変えることにしたのだった。

吉里吉里国で薪割りの体験をする地元の中学生たち

震災を語り継ぐ

 震災講話会の主な対象は、大槌町の公立学校の児童・生徒たちだ。同町の教育委員会は13年度から、町の復興や発展を担う人材の育成を目的に、地域の人々との協働で地域や自分の生き方を見つめさせる「ふるさと科」という科目を創設。学習指導要領によらない教育課程を特例で認める文部科学省の教育課程特例校制度にもとづいたものだ。震災講話会はこの「ふるさと科」の授業の定番となった。
 記録に残る限りでは、大槌町が位置する三陸海岸の沖合を震源地とする地震で町が最初に大津波に襲われたのは明治29年で、次は昭和8年。そのたびに集落は海から離れた場所に移されたが、過去は次第に忘れ去られ、東日本大震災では逃げ遅れなどが起きてしまった。だからこそ、芳賀さんは震災の記憶を風化させないための活動に力を注ぐ。
 震災から10年。今も災害の専門家たちが状況を調べるために吉里吉里を訪ねてくる。なかには、「まだ立ち上がれない人がいるのですね」と口にする人も少なくない。彼らに対して芳賀さんは、語気を強めてこう伝えると言う。もがいてももがいても立ち上がれず、「3・11」という言葉を聞くのをいまだに嫌がる人もいる。最初から立ち上がる気力を持てなかった人もいる。そういう人たちを責めてどうするのか。彼らの分まで私たちががんばって働き、震災前の美しい町を取り戻せば良いのであり、私たちはその覚悟がとっくにできている。彼らは大槌という名の家族の一員なのだから——。
「目に見えぬ力により、私は尊い命と新たな人生を授かりました。この10年間、妻や避難所の焚火の励ましに支えられて、一日も休むことなく働き、授かり物を吉里吉里のために生かし続けることができました。幸せです。すでにいい年齢になってしまいましたが、これからも体の続く限り、名もなき仲間たちと吉里吉里の未来をつくる活動に力を注いでいきたいと考えています」

知られざるストーリー