スポーツを通じた障害者の社会参加に向け
指導員として活動

宮城勇也さん(セルビア・障害児・者支援・2018年度3次隊)
再赴任時の残りの任期…約1カ月間

障害者を対象に各種スポーツ競技のクラスを運営する団体に配属された宮城さん。任期の半ば、自身が得意とするテニスのクラスを立ち上げたところで、一時帰国しなければならないこととなってしまった。

宮城さん基礎情報





【PROFILE】
1994年生まれ、沖縄県出身。日本福祉大学で特別支援教育と障害児心理を学んだ後、児童心理司として児童相談所に勤務。2019年1月、セルビア初の青年海外協力隊員として同国に赴任。一時帰国、再赴任を経て、21年1月に任期を終了。

【2年間の協力隊活動】
配属先:ベオグラード障害者スポーツ協会
(1)初赴任時(2019年1月〜)
●スポーツクラスでの指導
●配属先の利用者が参加するスポーツイベントでのサポート
●特別支援学校の体育授業のサポート
(2)一時帰国中(2020年3月〜)
●家でできるトレーニングの方法を紹介する動画の作成・配信
●外国人技能実習生の監理団体での勤務
(3)再赴任後(2020年12月〜21年1月)
●スポーツクラスでの指導
●引継書の作成


水泳クラスで指導を行う宮城さん

ハーフマラソンの大会で車椅子ユーザーの伴走をする宮城さん。2時間あまりで完走した

配属先での活動の合間、宮城さんは特別支援学校の体育授業のサポートにも取り組んだ

【初赴任時】

自ら立ち上げたテニスクラスの様子

 宮城さんの配属先は、セルビアの首都ベオグラードにあるベオグラード障害者スポーツ協会。市内の障害者を対象とするスポーツクラスを運営する団体だ。宮城さんの着任当時、水泳や卓球など特定の競技に特化して指導するクラスや、さまざまな競技を指導する子ども向けの運動クラスが設けられており、約300人の知的障害者や身体障害者が利用者として登録されていた。その年齢は幼児から高齢者までと幅広く、運動能力も歩行訓練をしているレベルからパラリンピックに出場するレベルまでさまざまだった。
 クラスの指導員として配属先に所属していたのは約10人。大半は特別支援教育とスポーツ学を学んでおり、何らかの競技の経験もあった。セルビアではまだ障害者が働ける機会が少なく、社会参加は進んでいなかったが、同僚指導員たちには「スポーツは障害者の社会参加の手段となる。その後押しをしよう」という意識が強く、しっかりとしたクラス運営がなされていた。そうしたなかで宮城さんが立てた活動方針は、何かを彼らに教えようとするのではなく、指導員として彼らと同じようにクラス運営にあたること。宮城さんはセルビアに初めて派遣された青年海外協力隊員。まじめに働き、日本人についてネガティブなイメージを植え付けてしまわないようにするのが自分の最大の役目だと考えた。
 宮城さんが当初加わったのは、主に水泳クラスと子ども向け運動クラスだ。同僚指導員と共に利用者への指導にあたった。また、ハーフマラソンの大会が開かれた際には、配属先を利用する車椅子ユーザーの伴走を買って出たりもした。そうして1年ほど経つと、同僚指導員たちからの信用が確立し、「自由に活動して構わない」と言われるようになった。そこで立ち上げたのは「テニスクラス」だ。
 セルビアは、世界ランキング1位の通算在位期間が歴代最高の男子プロテニス選手、ノバク・ジョコビッチ選手の出身国。同国のスーパースターだが、配属先にはテニスクラスがなかった。宮城さんは小学生のときから大学時代までテニスをやっており、協力隊に応募する際はジョコビッチ選手の出身国ということでセルビアの案件を志望。テニスクラスの立ち上げは着任時から温めていたプランだった。テニスの経験がある同僚指導員はいなかったことから、クラスは宮城さんが主担当として運営することとなった。
 新型コロナウイルス感染症の拡大によって一時帰国せざるをえなくなったのは、テニスクラスを立ち上げた矢先のことだった。

【一時帰国中】

 一時帰国した当初、セルビアでは厳しい外出制限が課せられたため、配属先のスポーツクラスはすべてストップ。そこで配属先と一緒に取り組んだのは、障害者が家で家族の支えを受けながらできるトレーニングの方法を紹介する動画を作成し、YouTubeに投稿することだった。外出制限により体を動かす機会が減るなか、障害者が自力で健康を維持する方法を考えたり実践したりするのは難しい。そうした問題の対策として、配属先の利用者の家族に参考にしてもらおうと取り組んだ活動だった。
 一時帰国して4カ月経った20年7月には、配属先のスポーツクラスがようやく再開。しかし、障害者へのスポーツ指導は個々の障害の状態に応じた「手取り足取り」でなければ難しいため、スポーツクラスの支援をオンラインで行うのは不可能だった。そこで宮城さんは、再赴任が叶うまでの期間、日本で暮らす外国人の支援に携わることで、セルビアでの経験を生かすことにした。セルビアで知り合った元JICA専門家からの誘いを受け、彼が立ち上げた外国人技能実習生の監理団体でアルバイトとして働くことにした。任期終了後の就職先に選んだのもこの団体だ。

【再赴任後】

 再赴任が叶ったのは、残りの任期が1カ月ほどとなった20年12月。セルビアにおける人口あたりの感染者数は日本より多いものの、病床使用率は低く、専用病院が新設されるなど医療体制が強化されている時期だった。スポーツクラスは開いていたが、感染を警戒する利用者の家族は多く、参加するのは登録者の3分の1程度という状態。しかも、感覚に過敏な障害者はマスクを付けることが難しいため、対面の指導は難しい。結果、宮城さんは任期を終えるまでの間、一時帰国前に立ち上げたテニスクラスの運営を含め、できる活動は限定的だった。
 マスクを付けて行うことができない水泳は、クラスが完全に閉鎖。再赴任するまでは、東京2020パラリンピックに出場予定の2人の選手に最後の指導をして任期を終えたいと考えていたが、叶わなかった。代わりに、セルビアの未来のパラリンピアンをパラリンピックの会場に招くプロジェクトを計画したが、実現の見込みは立たなかった。
 そうして宮城さんが任期終了までの間に取り組んだのは、活動の締めくくりとして引継書を作成すること。それまでに実施したクラスの様子や改善すべき点などをまとめ、配属先に託して帰国の途に就いた。

知られざるストーリー