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多様性ある社会をつくる人材をスポーツで育成

井上由惟子さん(ブータン・体育・2015年度1次隊)
一般社団法人「S.C.P.Japan」 共同代表

ブータンで体育隊員として活動するなか、「弱さ」を自分らしさの一部として受け入れて生きても構わないのだと思えるようになったという井上さん。その経験から、「誰もが自分らしさを保ちながら歩んでいける社会」をつくるために貢献できる人材を、スポーツを通して育成する団体を設立した。

「ハッピーサッカー教室」で子どもたちによる話し合いのファシリテーションをする井上さん

国連の「開発と平和のためのスポーツ国際デー」である2021年4月6日にS.C.P.Japanが開いたオンラインイベント。「開発と平和のためのスポーツ」をテーマにしたパネルディスカッションなどを行った

「この教室では上手にはなれません」。子どもを入会させたいとやって来た保護者を、こんな言葉で煙に巻く「サッカー教室」を開いているのは、2020年5月に設立された一般社団法人S.C.P.Japanだ。共同代表を務めるのは、ブータンで体育隊員として活動した井上由惟子さんである。
 S.C.P.Japanが目指すのは、「誰もが自分らしさを保ちながら歩んでいける社会」をつくるために貢献できる人材を、スポーツを通じて育てることだ。サッカーをはじめ、スポーツ競技の中には「走る」「投げる」「蹴る」などシンプルな動作ができる人なら誰でも参加し、楽しめるものがある。運動能力が高い子と低い子、障害がある子とない子などがそうした競技に一緒に取り組む機会をつくり、違いがある人と共に歩む力を子どもたちに身につけてもらう。そんな形でスポーツを活用しようというのが、S.C.P.Japanのコンセプトである。
 活動の柱の1つは、「ハッピーサッカー教室」と称した子ども対象のサッカー教室の開催だ。運動が不得意な子でも疎外感を持つことなく参加できるよう、スキルアップを目指すトレーニングなどは行わず、試合に終始する。しかもそのルールは公式のものをそのまま使うのではなく、「どのようなルールにすればみんなが楽しめるか」を子どもたちが話し合い、その日の試合のルールを決める。「得意な子はシュートをしてはいけない」「不得意な子がシュートを決めたら2点とする」。そんなアイデアが出ると、「そういうルールで不得意な子は本当に楽しめるだろうか?」「そんなルールはつまらない」などと反論が出て議論は紛糾する。しかし、コーチは「ファシリテーション」に徹し、子どもたちに着地点を見つけ出させる。
「子どもたちの議論の衝突も大事にしています。彼らが将来、違いがある人同士が共生する社会をつくるのに貢献するためには、衝突を乗り越える力を身につけておくことが必要なはずだからです」

ブータンの子どもたちの夢

 井上さんは、日本女子サッカーリーグに所属していたジェフユナイテッド市原・千葉レディースのトップチームで中学時代から活躍し、その後、アンダーカテゴリーの日本女子代表にも選ばれた女子サッカーのエリートだ。しかし、21歳という若さで引退する。
「ひたすら競い合う競技スポーツの世界を楽しめるだけの心の強さが私にはなく、向いていない世界だったのだと気づき、引退を決意しました」
 引退時、井上さんは日本女子体育大学の学生であり、卒業後の第一歩として選んだ進路が協力隊だった。その選択を後押ししたのは、井上さんと共にS.C.P.Japanを立ち上げた野口亜弥さんである。野口さんもスウェーデンのプロチームなどでプレーした元女子サッカー選手。井上さんが引退した翌年に引退した野口さんは、スポーツを通じた社会づくりに関心が強かったことから、すぐさまザンビアに渡って半年間、インターンとして現地NGOの活動に参加した。女性がサッカーをする機会をつくり、その際に性教育などを行ってエンパワーメントを図る活動だ。野口さんからその話を聞き、競技スポーツにはない可能性がスポーツにはあるのだと知った井上さんは、それを追求したいと考えるようになった。その後、途上国でスポーツがどのような存在であるかを知るための手段として選んだのが協力隊だった。
 派遣されたのはブータンの小学校で、保健体育の授業を行うことが主な活動だった。あるとき授業のなかで、子どもたちに「夢」を書いてもらった。すると多くの子どもが、「今と同じように、家族を大切にしながら生きていきたい」と書いてきた。それを見て井上さんは、「現状」を迷いなく肯定する姿に感銘を受けた。
「そのときに初めて、成長ばかりを求めるのではなく、現状を肯定しても構わないのだ、私は『心の弱さ』を自分らしさの1つとして生きても構わないのだと思えるようになりました」

「まとまらない」に耐える

 協力隊経験によって「誰もが自分らしさを保ちながら歩んでいける社会」をつくることへの関心が高まった井上さんは、帰国の2年後、そうした社会をスポーツを通してどうつくるかについて研究をするため、筑波大学大学院に進学。さらに、その実践にも取り組みたいという気持ちが強かったことから、同じ関心を持っていた野口さんを含む元女子サッカー選手3人でS.C.P.Japanを設立。サッカー教室など子どもを対象とする活動と並行して、大人を対象に社会の多様性とスポーツのかかわりについて啓発する活動も行っており、そうした活動は主に野口さんが担当している。
 井上さんがサッカー教室でのファシリテーションで重視しているのは、「導きすぎない」という姿勢だ。
「互いの考えを理解しつつ、その違いを前提として着地点を見つけ出すためには、それぞれが自分の考えを安心して表現できる環境であることが必要となります。その点、『きみが言おうとしているのはこういうこと?』などと発言を誘導してしまうと、そうではない考えを持っている場合に『自分の考えは間違っているかもしれない』と口にするのをためらってしまうでしょう。しかし、発言を誘導しないでいると、その日の試合のルールを決める話し合いなどはなかなか結論がまとまりません。そのため、私は当初、発言を誘導しがちだったのですが、徐々にそれを抑えることができるようになってきました。『まとまらない』という居心地の悪さに耐え、そうした状態のなかで忍耐強く他者の考えに耳を傾け続けることこそ、『多様性』がある社会をつくるうえで必要な根本姿勢だとわかってきたからです」

[プロフィール]





いのうえ・ゆいこ●1991年生まれ、千葉県出身。中学時代に当時日本女子サッカーリーグに所属していたジェフユナイテッド市原・千葉レディースに入団。トップチームのミッドフィルダーとして87試合に出場し、22得点を上げる。引退後の2015年6月、青年海外協力隊員としてブータンに赴任し、小学校で保健体育授業の支援に取り組む。17年6月に帰国。筑波大学大学院に進学して研究に取り組むかたわら、20年5月に元女子サッカー選手3人で一般社団法人S.C.P.Japanを設立し、共同代表に就任。

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